魚沼コシヒカリ十日町取材紀行番外編、おたまじゃくしも人間も水の子か。
一昨日のエントリーに書いたように、今年は5月になってから、梅雨に入っても雨が少なくて、水不足の影響が危惧されている。
今日のNHKのネットニュースでも、「少雨 秩父市のダム貯水率2%余に」の見出しで、「関東地方は雨が少ない状態が続いていて、埼玉県秩父地方の水がめになっている合角ダムは貯水率が2%余りに減り、今後も雨が降らなければ農作物などへの影響が心配されています」と報じている。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130608/k10015162961000.html
合角ダムは、荒川の上流、秩父市と小鹿野町になる。荒川下流の東京周辺では、水不足など感じられないほどの水量であり、梅雨の下の晴天をよろこんで暮らしているが、上流へ行くほど、降水量の影響はすぐ現れるし、まずは人間より農作物への影響が懸念される。そして、水不足が解消されないまま、真夏の冷夏旱魃ってことになると、大都会の人間にとっては寝耳に水の、何年か前にあったような、米不足の騒動になる。
今年は、まだどうなるかわからないが、雨の気配のない晴れた空を見上げて、心配しているひとと、よろこんでいるひとがいて、よろこんでいるひとが多いのは、確かだろう。
だけど、人間も、水に群がるおたまじゃくしと同じようなものだ、水なしでは生きていけない。アタリマエのことだけど、田んぼのおたまじゃくしを見て、そう思った。
最初の写真は、田んぼの水の出口に群がる、おたまじゃくし。よく見ると、水の出口に近いほうは、まだ卵の状態が残っていて、孵化している最中。孵化したばかりのおたまじゃくしは、母乳にむしゃぶりつく赤子のように、水の出口に群がっているのだ。
その水は、1mばかり離れた枡の中で、水量を調節されて、田に落ちるようになっているが、水不足だから水の量は調節もなにも、上の湧き水から引いている量そのままが流れていた。
別の田んぼは、川のそばにある平坦地だが、信濃川の上流の清津川が造った河岸段丘の平坦地のため、すぐそばに川があるのに、汲み上げしなければ使えない。なので、ここを田んぼに開拓した昔のひとは、川の上流で取水し、トンネルを掘って水を通した。とうぜん、手掘りだったろう。高さ1メートルちょっとぐらいか、人間は立てない。いまでも、そのトンネルを使って、水が確保されている。
水量を調節する枡は、じつに簡単な原理による簡単な造りだが、ここでの調節を誤ると大変なことになる。気温、水温、稲の育ち具合を見ながら、調整する。細かく神経を使っているようだが、かなり大雑把な調整装置である。精密な装置であればよいというわけではなく、というより精密な装置は不可能であり、そこを人間の細かい神経が補っているというか、そして神経質になりすぎても、構造的には意味がない。そこに「神頼み」のようなものが生まれたり、「無関心」が生まれたりするのではないだろうか。
なにか、人工のものを間においての、人間と自然の付き合いかたを暗示しているようで、おもしろい。人工の、河川や水道、ペットボトルの水を使いながら、どうアンバイしたらよいのか、そんなことを考えた。「自然に」といっても、自然まかせでは、ひとは生きていけない。そして、雨が降らなくては、現代文明も大騒ぎ。
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