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2014/02/28

アメ横で立ち飲みハシゴ挫折、西荻ぷあん10周年など。

2月も今日で終わりだ、2週続けて週末に大雪が降り関東甲信地方で大きな災害になったりした。

秩父の家も、これまでになく1メートル以上も積もり、道路は通行不能、孤立状態になった。だけど、わが家より大きな冷凍冷蔵庫には、いつも、山菜を茹でて冷凍したものや、自家製の餅やまんじゅうを食べきれないほど作り冷凍してあったのや、賞味期限・消費期限が切れたものが、どっさり入っていたし、山奥の商店もない地域の暮らしだから、米や粉などもたくさんストックがあり、食べるのは困らなかったようだ。一時、町の水道が、たぶん電源の関係だろう止まったそうだが、これも沢から引いている自家水道のおかげで、影響はなかった。

備忘メモ。

10日は、「理解フノー」の連載をしている牧野伊三夫編集長の美術系同人誌『四月と十月』の4月号の締め切りだった。「クサイ話」のタイトルで、これまでどこにも書く機会がなかったし書くつもりもなかったことの一端を初めて書いた。ぐふふふ、心境の変化というものじゃないが…。この件は、今後も少しずつ書く予定。

今回は30号つまり15周年なので、記念企画があり、「15年まえの私」という寄稿も。15年まえの写真を探したら、やっぱり、飲んでいるところだった。

20日。上野アメ横で、須田さんと18時に待ち合わせ。ちょくマガ連載の「カウンターカルチャー」の打合せにかこつけて、魚草、カドクラ、たきおかと立ち飲み3軒ハシゴを目論んだ。

が、しかし、この日は底冷えの寒さで、魚草は吹きさらしでも一軒目だから平気だったが、2軒目カドクラは混雑で席が入口近くだった。ホッピーを飲んでいるうちにどんどん冷える、しかしホッピーは中一杯サービスとあって、寒さにめげずあれこれ話で盛り上がっていたが、前のたきおかへ移動する段になって挫け、やはり暖かい居酒屋で腰掛けて飲みたい、ってことで近くの居酒屋へ。須田さんも珍しく酔った感じだった。盛り上がった話の一つは「スティング作戦」。

23日は日曜日。この日になってから、あっこちゃんのツイッターで西荻窪の「ぷあん」が開店10周年と知る。そうか、あれから10周年か、よくあっこちゃんたちと集まっては飲み、ここで「メコン」や「カオソイ」を覚えたのだ。彼女たちも集まるという。これは行きたい、ってことで16時ごろ駆けつけた。

着いて驚いた。いつもの2階の畳の部屋で、ガキが飛び交っていた。まいど集まる面々、10年前は20歳後半か、ほとんどが独身だったし、子供はいなかった。この10年間に結婚し子供ができ、少しずつ増えていた。小学1年を先頭に10人近く。うち2人兄妹が3組。

あっこの長男が小学1年で、彼が生まれたあと、ぷあんで集まるときは、子供は赤ん坊だった彼一人だった。あっこが二人目を身ごもったあたりから、集まりが途絶えがちだったが、ドドドーと生まれていたわけだ。

とにかく、結婚しないみやちを除いて、みな親になり、まあ、10年たてば、これが「自然」というものだろう。その「自然」が、社会事情でか、難しくなっている。だけど、彼らは、とくに安定した職業に就いているわけじゃないが、たくましい。子供たちも、たくましい。いろいろあるが、たくましさを失わずに生きよう。

10年前にできたときには、どうなるかわからなかった「ぷあん」だが、梅ちゃんも元気で、大繁盛。めでたし、めでたし。にぎやかで楽しい10周年だった。

ザ大衆食のサイトに、「04年12月、開店一周年をにぎやかに祝った ぷあん で カオソイ」の記事がある。…クリック地獄

25日、ぎんちゃんから電話で、カツカワくんが亡くなった知らせがあった。この件は、また後日。

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