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2014/05/31

中野で、やどやゲストハウス。

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中野はどんどん変わっている。行くたびに変わっている。南口にはタワーマンションができたり、北口の警察学校跡地の再開発以来、道行く人々まで変わった。中野サンプラザの解体と再開発も決まったから、まだまだ変わるだろう。

昨日は中野のやどやゲストハウスの「飲みーティング」だった。といっても、いつもの役員飲みーティングではなくて、Nのための飲み会だったといったほうがよいだろう。

Nは、おれの親友で、おれが20歳代から付き合っている「親友」といえるやつは少なかったうえ、60歳ぐらいのときに、次々死んで、Nしか残っていないのだが、10年前、やどやゲストハウスを立ち上げる初期の頃、大いにお世話になった。かれのおかげで、不動産対策が比較的スムーズにいったことが、なんといっても大きい。

そのかれから、少し前にメールがあった。「昨年7月に直腸癌摘出手術で済んだかと思っていたら、肝臓に4、5個の転移腫瘍が見つかり、昨週末(4~6日)1回目の抗がん剤点滴で入院、何しろ数が多いので手術もならず、ということらしい」と、おまけにかれはC型肝炎。いたって平穏の日々で「今のところゴルフ・芝居に普段と変わらないが、いつ身が思うに任せなくなるか不明なので、ま、ご尊顔を拝して美味しいうちにお酒と肴を共にしておきたい」

ということで、昨日の飲み会になった。特別なことであり、N妻も、付き添いがてら参加することになった。N妻とは、70年代中ごろに一度だけ会っている。

18時に予約しておいた第二力酒造。N、N妻、S、まりりん、おれ、個室が予約できたので、ゆっくり食べ飲み話した。

初期の大変のころのことは、いまとなればよい思い出。そもそも、このプロジェクトがどう始まったのかもおれは忘れていたのだが、もっとも当事者であるまりりんは、よく覚えていて、おれと初めて会ったときのことや、おれが当時新宿にあった大会社の社長をしていたNを紹介して初めて会ったときのことを話した。

もとはといえば、おれが2000年にインターネットを始めて、アメリカにいることが多かったうえ、おれもかれも離婚だの何だので転々、音信も途絶えていたSの名前を検索したら、アメリカの教会で何やらエラソウにしている写真と記事が見つかった。早速、メールをしたら、日本にいて、会うことになった、そのとき、ちゃんとしたゲストハウスを立ち上げたいというまりりんが一緒だったのだ。まりりんがいうには、その初めて会った場所は、中野北口駅前にいまでもある、「ニュー浅草」だったとのこと。ニュー浅草あたりがお似合いの、ビンボウ人同士が、夢ばかりは世界をかけめぐるデカイ事業をやろうという企てが、そこから始まった。

カネはないが、いろいろ知恵を出せばやりようがあるわけで、「ワールドグループ」という株式会社をつくり、泥縄式のゲストハウス経営を始めた。最初は、旅館業法をクリアできない建物で、いわば「もぐり」。障害もあったし、妨害もあったりした。「飲みーティング」は、最低でも月に一回はやっていた。

数年前、旅館業法をクリアするホステルができて、泥縄式から脱却するメドが立った。中野にもシッカリ根をはって、いまではブランチが4か所。

そして、また、一棟まるまる4回建てビルを借りる契約を、数日前にしたばかり。ということで、20時半ごろに飲み会をしめ、そのビルを見に行った。これが、場所も駅に近いうえ、ビルの前にスペースがあり、いろいろなことがやれそうな、願ってもないビルなのだ。前回の飲みーティングのときには、中野は再開発が進行中で不動産価格が上がっているし、よい物件が難しい状態、という感じだったが、まりりんが歩き回って見つけた。

これから暑い時期、前のホステルの工事もそうだったが、内装の解体から新しい建付けまで、ほとんど自前でやる。若いひとたちに、がんばってもらいましょう。

完成すると、ベッド数が30数増える。ゲストハウスは薄利の商売だから、安定経営のためのベッド数の確保と、回転率を高く維持する対策が欠かせない。前の飲みーティングでも、激化している低価格競争には巻き込まれないことを確認しているが、そのためにも、このビルはカギになりそうだ。

空き家で人気のない暗いビルを見上げ、Nが、「これはいい、また夢が広がる」といった。NとN妻を中野駅で送って、ワレワレはアボチョイでもう一杯。避けられない死と、生きているうちはある夢を、一緒に飲んだよい日だった。Nは、あいかわらず元気で、なかなか死にそうにない。

ちょうど昨日の読売新聞の「ニッポン魅力発見」のコーナーに、やどやゲストハウスの話が載った。「ゲストハウスで国際交流」の見出し、「宿泊者以外も参加できる交流イベントに力を入れている」と記事にあるが、「力を入れている」というより、力を入れずに続けているというのが正確だろう。これまでも、そうだったが、ちゃんと実態は把握しながらも、ガツガツしない、同じ競争はしない、わが道をゆく、なのだ。考えてみれば、NもSも、まりりんも、おれも、わが道をゆくで、しなくてもよい苦労をしてきて、ここにいるといえるようだった。なかなか愉快痛快ではあるのだが。

ま、早ければ10月、遅くても11月に開店する、新しいビルが楽しみ。

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2014/05/30

北浦和クークーバードでトーク、泥酔記憶喪失帰宅。

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2014/04/30「5月の、おすすめトーク、二つ。」で告知した、トークが昨日あった。北浦和クークーバードで、20時スタート、「大衆食堂の詩人、エンテツさんとの町談議~北浦和の歯ごたえ、北浦和ののど越し」「『大衆食堂の詩人』フリーライターのエンテツさん 北浦和はどんな街ですか?」(聞き手 猪瀬浩平さん)ってことだった。

お店は18時に開店なので、始まる前に一杯やろう、前に一度食べてうまかったカレーライスを食べたくもあり、19時すぎごろ着いた。すると、もうミチコさんが、お友達2人とテーブルに座っていた。ひさしぶり。

すでに予約席は一杯になっているということで、つぎつぎに参加者があらわれた。ミチコさんとコンさんと桶川のミヤモトさんと猪瀬さんの奥さん以外は、初対面の方ばかり。このブログをご覧いただいている、北浦和の方もいた。たまたま宮城から上京中の方もいた。おどろいたことに、猪瀬さんの奥さんは、臨月のおなかを抱えて来てくれた。

店内が一杯になる約20人ほど。

猪瀬さんは5時ごろから飲んでいるとかで、元気がよい。しかし、酔っても大学教員だから、話は上手にすすめてくれて、たすかる。

おれも、始まる前に、生ビール一杯、キンミヤをロックで一杯飲んで、始まってからはキンミヤのロックをおかわりの連続。話はもちろん、北浦和ののどごしと歯ごたえ、あれやこれや。参加者からも自分と北浦和の関わりや知っている店のことが出たり、いい雰囲気。

北浦和には10年間住んだが、おれがココ東大宮に引っ越した5年前から、激しく変わっている。はたしてこれからどうなる。

質問コーナーでは、ぶっかけめしについての質問が出て、ぶっかけめし談議で大いに盛り上がった。

最後に、参加者へのプレンゼントに持って行った、『雲のうえ』の合本一冊、じゃんけんで獲得したのは臨月の奥さんだった。

2時間ちょいがすぎ、無事に終了。あとは懇親飲み。おれは23時半ごろ出たが、もう泥酔状態。泥酔状態のときほど、まっすぐ帰れない。東大宮に着いて、もう一軒。記憶喪失で25時ごろの帰宅だったらしい。

トークに参加のみなさん、猪瀬さん、北浦和クークーバードさん、ありがとうございました。

今朝のクークーバードさんのツイートです。

北浦和クークーバードは、お互いに親密感がわくほどよい大きさ。酒も料理もうまい。また飲みに行こう。

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2014/05/29

野田正彰の説いた「コスモロジー」。

前回のエントリーにある野田正彰の説いたコスモロジーは、『中央公論』87年10月号の野田の文章「新・都鄙問答のすすめ」のなかにある。

「新・都鄙問答のすすめ」のリード文には、こうあって、地方の視点から主に観光政策を検討したものだ。

「アンビテンデンツ――自らは本当には望まない生き方を、洗練し、効率よく人々に提供する矛盾した感情的傾向。これをエネルギーとして動く社会をつくり上げてきた私たちは今これに頼らない別の生き方を、地方の視点で考えてみよう」

当時、おれはプランナーとして、いくつかの地方の「町おこし村おこし」や「CI開発」の手伝いをしたあげく、都会から地方に持ち込まれる文化イベントなど(地方が東京の成功を見て積極的に導入するものも含め)が、イベントだけのにぎわいで、しかもそれが地方の負担を大きくしていることから起きる摩擦のなかにあった。困ったことだなあ、別の可能性はないものかと考えていたところで、「新・都鄙問答のすすめ」は、かなり刺激になり展望になった。この87年のあと、おれが九州の奥地のプロジェクトに積極的に参加したについても、その影響があったと思う。

それはともかく、時間がないので、野田が「コスモロジー」について書いた部分だけ、引用しておく。

「ここでいうコスモロジーとは、科学的宇宙論でもなければ、一部族の神話的・象徴的解釈にも限定しない。後者は含まれるが、それはコスモロジーの一部である。

ここでコスモロジーを、人々の存在を中心に置き、その周りに生活が、遊びが、祭りや宗教が、馴染んだ自然から荒々しい自然へ、さらには生死観や他界観が拡がり、人々がそれらと呼吸し対話している全体的な文化の秩序づけと定義しておこう。

世界観といわゆる宇宙論の中間と思われるかもしれないが、コスモロジーは世界観のように個人の自我を出発としない。」

このあと、野田は、地方には「都市のアンビテンデントな生き方と違い、確かなコスモロジーに生きる人々がいる」、これを観光政策の中心にすえるべきだとしている。

が、おれは、東京にもアンビテンデントな生き方と違い確かなコズモロジーに生きる人々がいる、と思い、コスモロジーについて、あーだこーだ考えていた。

なにはともあれ、ここで指摘されている「全体的な文化の秩序づけ」が、料理と味覚に深く関係しているのではないかということなのだ。それは、以前からあり、東電原発事故以後に広がっている食に対する「不安」を考えるとき、ますます関係ありそう、と思うのだった。

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地域とネットワークと味覚の関係のなんだかんだ、きょねんのこと。

1947いまごろになって、きょねんの本の話とトークのことだ。忘れないうちに、メモしておこう。

本は、きょねん読んだ本のベスト3に入るうちの2冊、『オオカミの護符』(小倉美惠子、新潮社)と『かつお節と日本人』(宮内泰介・藤村泰、岩波新書)だ。トークは、12月19日(木)神田神保町の「路地と人」で、安岐理加さんとやった「地域の食文化について思うこと」。

それに、おととしの末に発行されて読んだ『みんなで決めた「安心」のかたち』(五十嵐泰正、亜紀書房)が関係する。

簡単にいってしまえば、食生活が成り立っている構造。料理や味覚は、どう決まって、どう変化するかに関わることなのだ。

いまでは「食べログ」なんてものもあって、われこそは真の味覚を知るものなり、「うまさ」を知るはワレにありという感じがまかり通っているが、だけど、一方では、味覚には地域差や個人差があることも知られている。「オーガニックだからうまい」「手作りだからうまい」といわれる一方で、それらは根拠がないことも知られている。

それらは、けっきょく、ワレワレはどうやって食べているかに関わることであり、『みんなで決めた「安心」のかたち』や、著者の五十嵐さんとおれのトークでも、「社会的に食べている」ということが強調された。

では、「社会的に食べている」とは、どういうことか。ひとつは「地域」であり、ひとつは「ネットワーク」で、地域とネットワークどちらが欠けてもいけない。と、書けば、そんなことアタリマエじゃないかという感じなのだが、そんなにアタリマエに考えられているわけじゃないのだな。

だいたい、「オーガニックだからうまい」「手作りだからうまい」といったことは、かなり信じられている。それに、たとえば、「地産地消」は、グローバルなネットワークの食や味覚を、ときには「悪」と決めつけ「排除」も辞さない勢いを見せたりする。一方、グローバルなネットワークは、ときには「地域性」に考慮を払いながらも、「地域」を支配下におさめようとする。

こういう例をあげれば切りがないのだが、『オオカミの護符』と『かつお節と日本人』を合わせて読むと、日本の近代では、それがどんなぐいあいに関係していたか、かなりイメージがわくのだ。

ネットワークから見れば、料理も味覚も移動する。地域から見れば、料理も味覚も変わる、のだが、「郷土」なる味覚は、変わらない味覚を伝統として(言い方を変えれば、タテマエとして)成り立ってきた。

地域ごとに変わる味覚は、何と深い関係にあるのかということことは、かなり前、70年代に食のマーケティングに関わったころから気になっていた。そして、87年の秋に、野田正彰が説く「コスモロジー」という言葉にであって、これだな、という感触を持ったが、抽象的でイマイチ具体性に欠けるし、とくに都市文化の文脈との関係をどう考えたらよいか、わからなくて、ずーっと引っかかったまま、この言葉を使えないできた。

ところが、『オオカミの護符』と『かつお節と日本人』を読んで、なーんだ、「コスモロジー」というのは、こういうことか、完全にではないが理解がすすんだ。「地域(ローカル)」と「ネットワーク(グローバル)」で成り立つ空間を、矛盾の関係も含め統合的にとらえるには野田の「コスモロジー」という言葉と概念は、じつに都合がよいのだ。「ひとはコスモロジーに生き、味覚はコスモロジーで決まる、あるいは左右される」というぐあいにいえそう、という感じがした。

それで、12月19日の路地と人には、『中央公論』87年10月号で野田正彰が書いていた「コスモロジー」の概念のところだけをプリントして参加者に配り、『オオカミの護符』と『かつお節と日本人』から、食生活と地域とネットワークについて語り、コスモロジーへ行きついた…。

だけど、たぶん、この文章を読んでもチンプンカンプンのひとが多いと思われるが、おれのなかでまだ十分こなれきっていないこともあるし、気持が先走り過ぎた感じで、あまり反応はよくなかった。

そもそも、安岐理加さんとは、もっと具体的な「食と地域にまつわるそれぞれの思う事を」話すはずだった。安岐さんとは、これが3回目か4回目かのトークで、彼女は、もう瀬戸内の豊島へ移住というか帰郷してしまって、「路地と人」では最後のトークだったのに、なんとまあ。でも、そんなに反省はしていない。

安岐理加さんは、いつもトークの前に、いま考えていることをドドドーとメールに書いてくれて、お互いにメールで語り合いながら、トークを迎えるという段取りまでとってくれていたのが、おれが安岐さんの頭の回転に追いつけず、いつもおれからの返信が途切れて終わり、当日を迎えるといったアンバイで、この日も、そうだった。

ことに彼女の「美術家」としての活動は、バクゼンとはわかるのだが、理解はバクゼンの域を出ず、彼女が、アサヒアートフェスティバル2011参加企画として、忙しそうに日本を駆けずりまわっていた、「路地と人行商プロジェクト「販女(ひさぎめ)の家」 漂流と定着―文化的な文脈をたどるローカリズム」は、なんだか面白そう、とは思っていたが、よくわからなかった。

そのプロジェクトのまとめである『販女の見た景色』が、トークの日の前に完成していて買い求めることができた。

B4中トジ、本文48ページにまとめられた、薄い紙の冊子は、見た目よりはるかに充実した読みごたえのある内容だった。おれが手探り状態だった、「コスモロジー」に生きる人たちの実録でもあったのだ。しかも、それは「路地と人」というローカルから、国内各地のローカルはもとより、国をこえてつながっている。おれは、おどろいたのなんの。安岐さんは、とっくに「コスモロジー」を肉体にしているように思えた。いつかのトークのとき見た、犬だけでやる猪狩りの動画、なぜあんなに密着して記録したのか、ようやく見えてきた。すみませんねえ、いまごろ気が付いて。

『販女の見た景色』の表2には、瀬川清子『販女 女性と商業』(未来社)からの抜粋がある。これは、行商プロジェクトの動機でもあり結論でもあると思われるが、『オオカミの護符』と『かつお節と日本人』に欠けているところを埋め、地域とネットワークの統合=コスモロジーが、味覚と密接である具体を示している。

「漁夫のとった魚を、その妻が売り歩いて、朝夕の炊ぎの糧の穀物とかえことをする、というのは、まことに自然なことで、久しい年代の間、津々浦々の民家の煙は、こうした夫婦の漁とあきないを兼ねた働きによって、たちのぼっていたのである。(中略)村のなかにたてこもって生活した昔の村人にとっては、互いに異郷人である農民との接触交渉ということは、たやすいことではなかったろうとは思うが、もしもこの国にあまねく行われている節の日の魚食のならわしが、両者の交渉に関係があるとすれば、漁人の妻のあきないの力はまことに大きいものであった。まなぐいの習俗の維持には、漁人の力がなくてはならぬものである。」

こうして食文化の現実は成り立ってきた。

疲れたので、今日はここまで。

しかし、「アート」とは「アーチスト」とは、なんなんだろうなあ。まちや建物や本などを、こぎれいに仕上げることではないのは、確かだろう。

「食の職人」は敬われ「食の労働者」は軽んじられる「文化」には胡散臭いものがあるな。

「職人」というと文化っぽくて、「労働者」では文化であらず、ってな文化を、「丁寧な仕事」や「手作り」崇拝の文化なんぞに感じるわけであります。

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2014/05/27

『大衆めし 激動の戦後史』にいただいた、お声、その6。

いま関川夏央の『昭和三十年代演習』(岩波書店)を読んでいる。関川夏央の本は、けっこうよく読んでいると思うが、「好き嫌い」をいえば「嫌い」な作家であり、「反面教師」としては優れた教師だと思って、よく読んでいる。

ま、おれは昔から、自分が共感できたり、自分をほめてくれる人より、ちょっと違うなあ、イタイところを突いてくるなあ、イヤなやつだね、なーんていう避けてしかるべき人に自ら近づいていったり、よく酒を飲んだりするクセがあった。30代には、おれのことをボロカスにいうやつと、よく酒を飲んだし仕事もよく一緒にやったことが、けっこう糧になっていると、いまも思う。

自分が共感できたり、自分をほめてくれるひとは、自ら近づかなくても、自然に縁ができて近づきになれるものだ。言葉尻や上げ足をとってくるようなやつはツマラナイ人間で相手にする必要もないが、明確な考えを持った、ちがう立場からの批判などは、必ずしも「反面教師」とはいえないにしても、最もよい「教師」だと思う。関川夏央の本を読むことは、おれにとっては、そういう「教師」とつきあうようなものなのだ。

それはともかく、おれは、「文章がわかりやすい」だの「感動した」「感動的」だのといったほめ言葉をいただく気は、まったくない。文章の「わかりやすさ」や「感動」を求めている方には興味はないのだ。おれも誰かの本に、文章の「わかりやすさ」や「感動」を求める気はない。ましてや本の体裁など、どうでもよいとはいわないが…体裁を気にする方にも興味はない。

なので、このようなツイートを見ると、うれしくなってしまう。

ochaseijin ‏@ochaseijin 0:26 - 2014年4月6日
https://twitter.com/ochaseijin/status/452467293604569088

ブックスルーエ、大盛堂、八重洲ブックセンターの3店合同フェアで買った、遠藤哲夫さんの『大衆めし 激動の戦後史』が面白い。ちょっとクセのある語り口だが、中身は王道。 http://instagram.com/p/macKu7OOE6/

「ちょっとクセのある語り口」のところを読んでいただき、中身に評価をいただく、ありがたいことだ。
なので、

エンテツこと遠藤哲夫 ‏@entetsu_yabo 4月6日
@ochaseijin ありがとうございます!

と、お礼の返信をした。
すると。

ochaseijin ‏@ochaseijin 4月6日
@entetsu_yabo あぁっ、恐縮です。「野菜炒め」考がとても示唆に富んでいて、食にとどまらない広がり(住居、生活、家族、文化まで)を感じます。

と、具体的な感想をいただいた。

最近もありがたい読者がいて、ツイッターにこのように投稿してくださった。ツイッターは、1回140字までしか投稿できないので、5回にわたっている。ありがたいことだ。

Hikaru_Saitoh ‏@hikaru_sth 17:16 - 2014年5月21日
https://twitter.com/hikaru_sth/status/469028928984588288

『大衆めし 激動の戦後史』(遠藤哲夫、ちくま新書、2013)を『ラーメンと愛国』『フード左翼とフード右翼』の流れで読む。速水の2著に比べ、圧倒的に面白くけた違いに勉強になった。書手の蓄積と根本の違いがこう出るとはびっくり。速水のは『大衆めし』の前菜としてすばらしい、という位置。→

Hikaru_Saitoh ‏@hikaru_sth 17:58 - 2014年5月21日
https://twitter.com/hikaru_sth/status/469039512434135040

『大衆めし』(遠藤哲夫、2013)で勉強になる点は多数あるが、現代「食」日本思想史での重要な切断面をあげている点は必押え事項。二つある。①江原恵『包丁文化論』出版、これは1974年。②玉村豊男『料理の四面体』出版、これが1980年。遠藤の意見は説得力がある。→

Hikaru_Saitoh ‏@hikaru_sth 18:52 - 2014年5月21日
https://twitter.com/hikaru_sth/status/469053082064547840

遠藤哲夫は、『大衆めし』(筑摩書房、2013)で、現在の食現象を見る上で重要な二つの概念の興隆について、年代などを示しつつ、また、関連文献を提示して、整理している。独自にリサーチする必要はあるとはいえ、意味があるし便利。その二つの概念は「食文化」と「グルメ」。→

Hikaru_Saitoh ‏@hikaru_sth 20:13 - 2014年5月21日
https://twitter.com/hikaru_sth/status/469073501228236800

遠藤によれば(@『大衆めし』(2013))「食文化」がブームになるのは、1970年代。中心人物は石毛直道。起点として押さえるべき文献は、石毛の「錦市場探訪」(『ミセス』1971年6月号)であるという。石毛を中心として「食文化」は学術化の道も歩んでいく。→

Hikaru_Saitoh ‏@hikaru_sth 20:13 - 2014年5月21日
https://twitter.com/hikaru_sth/status/469073540180762625

遠藤によれば、「グルメ」が流通し始めるのは1980年あたりから。急速に広めた中心人物は山本益博。ポイントの文献は『東京・味のグランプリ200』(講談社、1982)らしい。山本を先駆として「グルメ」によって食現象は、ファッション化、ゲーム化、大衆化、ポピュラーカルチャー化していく。


この方のほかのツイートを見ると、読書感想が多く、自分にとって「勉強になる」本の評価が高いようだ。何を勉強したいかにもよるが、おれの本が、そのような期待に多少なりとも応えられたのだろう。

「勉強になる」本を求めてよく読んでいる人は、「学ぶ力=読む力」もあるようだから、こういう読者にであえるのはうれしい。

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2014/05/25

太田尻家十周年運動会からさばのゆへ、6月のトーク二つが決定。

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5月3日は太田尻家@経堂の恒例の運動会だった。

この春で、太田尻家が経堂のすずらん通りの奥に開店して10周年だそうで、かといって運動会は特別のことはなく、いつものように何か身体を動かして遊ぶやつは遊ぶ、でれでれ飲むやつは飲むという調子。

まあ、この10年間のあいだには、たいがいの飲食店が苦しんだリーマンショックがあったし、太田尻家内では誰しも生きて加齢するにしたがっていろいろあるいろいろもあったが、10年を迎えたのは、めでたい。この運動会は、たしか一周年に始めてから、続いているはずだ。

おれは、どうせならと、世田谷の住民、経堂に近い地域に住んでいるひとを誘って、14時半ごろ現地の砧公園で待ち合わせた。おのみささんとじゅんこさんとご主人。たしか、みささんは自転車で来た。

じつに、外で飲むには最高、といってよい日和だった。いつもの場所で、太田尻家の人々が食べ物を広げ飲んでいた。運動しているひともいた。ワレワレは、ひたすら食べ、飲み、おしゃべりだけだった。

いつものように日が暮れるまで遊んで、太田尻家へ移動して夜の部。昼間の運動会には参加できなかったけど、夜の部だけの参加もあり、太田尻家の店内は一杯。とにかく、にぎやかに飲んだ。

何時頃だったか、あとから来る人で一杯だし、ワレワレは先に失礼しようと出て、経堂の駅へ出る途中でさばのゆへ。さばのゆは改装して、立派なカウンター立ち飲みになっていた。

ここで想定外の展開が。

なにやら飲んで話しているうちに、おれとみささんとじゅんこさんでトークをやろうということになった。これはもう間違いなく、面白い。なにしろ、お二人とも、のんべえだし、いつも話しは楽しいし。いやあ、さばのゆのカウンターはよいアイデアが出ます。まさにカウンターカルチャー。

ってことで、6月の二つのトークが決定。

◎6月22日(日) エンテツトーク「俺とエロと塩麹と私」
 18時半スタート(開場18時) 投げ銭制
 塩麹ブームの発端になった、おのみささんと、めくるめくエロい塩麹の世界を語りつくします。
 おのみささんのブログ「糀料理研究室(糀園)」
 http://koujieeen.exblog.jp/

◎6月29日(日) エンテツトーク「俺とエロと手拭と私」
 18時半スタート(開場18時) 投げ銭制
 「手拭番長」で知る人ぞ知るじゅんこさんと、めくるめくエロい手拭の世界を語りつくします。
 じゅんこさんは、浴衣美人でも評判の方で、当日は浴衣姿で登場の予定。
 みなさまも浴衣に手拭で参加されてはどうでしょう。

というもの。
2週連続になるけど、ほかのことはほったらかして、これに集中してくださるようお願い申す。

予約は、こちら、さばのゆへ。
http://sabanoyu.oyucafe.net/schedule

なんで「俺とエロ」かといえば…それは当日のオタノシミ。「泥酔論」シリーズに続く「俺とエロ」シリーズになるか。

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そうそう、2014/04/30「5月の、おすすめトーク、二つ。」に告知した今月29日(木)の、北浦和クークーバードでのトーク「大衆食堂の詩人、エンテツさんとの町談議~北浦和の歯ごたえ、北浦和ののど越し」は、おかげさまで予約席は満席になりましたが、まだ立ち見で入れるそうです。こちらも、よろしく~。
http://coocoobird.jimdo.com/live/

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2014/05/24

速水健朗×五十嵐泰正トーク「『なに食べた?』で社会は変わるのか」。

以前告知したように、5月18日(日)は、鬼子母神通り「みちくさ市」で、わめぞプロデュースのトーク、速水健朗×五十嵐泰正「『なに食べた?』で社会は変わるのか」があって行った。

司会は柳瀬徹さん、13時半にスタート。早いテンポのトークで、内容も刺激的、エッもう終わりなのと気づく15時まで、一気に時間は過ぎた。

メモはないので、記憶で書く。

冒頭、速水さんが怒涛のごとく語り、自分が書くときは「敵」にしている人たちがいる、ひとつは建築学系、ひとつは社会学系だと。

話を聞いていくと「建築学系」というのは少しちがう感じがしたが、ようするに「コミュニティデザイン」や「まちづくり」に関わる専門家たちのこと。「ショッピングモール」などは、頭からハンターイという立場でしか発言しない人たちのことのようだった。

とにかく、速水さんは、「書く」つまり発言するにあたっては、自分の「立場」をはっきりさせて書きたい、立場をはっきりさせることは「敵」をはっきりさせることだと。この件について、当の社会学者である五十嵐さんの発言もあった。

ようするに、「コミュニティデザイン」というのは「住民」の意見を尊重する。その場合、地権者など、その土地における既得権者が中心になりやすい。「住民重視」は「既得権者重視」。外来者や新規の参入者のことは排除されるか、考慮されても既得権者側からの見方になりやすい。「コミュニティデザイン」とは「既得権のデザイン」であり、排除的になりやすいのだ。これに関連し、「まちづくり」や、食の分野でもそうだが、「意識の高い人たちによる排除」が話題になった。

おれは、このあたりが面白かった。「住民参加」「住民尊重」の「まちづくり」のもつ胡散臭さは、確かにあるし、とくに「意識の高い人たち」の高尚高邁な考えや理想による排除は、いろいろなところに見られるなあと思いながら聴いた。

五十嵐さんは、社会学では、いつも「都市とは誰のものか」が問題になってきたと。「まち」とは誰のものか、「社会」とは誰のものか、空間やネットワーク、あるいは歴史、「とは誰のものか」は、たえず問い返されなくてはならないことだろう。

おれの場合も「敵」は、割とはっきりしているが、「敵」を意識したことはない、ただ「立場」は、たえずはっきりさせている。「おれ」と書くにも立場がある。この立場は、誰に嫌われるか、こういうことを書けば、こういう人たちに憎まれるだろう、ぐらいは考えられる「立場」があって書いている。誰からも嫌われない、誰から見ても正真正銘正しい、誰からも礼讃を受ける、なーんてことは、ありえないと思っている。ただ、速水さんのように「敵」はコレだ、とかはあまり考えたことがないなあ、でも、けっこう「日本料理の伝統」などを「敵」にしているなあ、とか、いろいろ考えるのだった。

タイトルの「『なに食べた?』で社会は変わるのか」については、「か」とあるように、それについて何か結論を出すというものではなかった。

ま、それぞれが考えればよいし、トークの中から考えることが大事なのだから、結論は必要ないのだが、聴いていた人たちは、「『なに食べた?』で社会は変わる」ということより、オーガニックやマクロビが絶対正しくて他は悪い排除するのみ、というような考えではなく、それぞれが生活の実態に合わせて、おいしいから、楽しいから、便利だから、健康によいから、いろいろなチョイスがあるというのが、いちばん「豊かな」状態ではないだろうか、そこからよりよい未来がある、と感じたと思う。

自分や自分たちの考えを高らかに謳い他者に従うことを求めるのではなく、「おたがいにとってよいこと」を協力して探し求め、一つ一つ解決していく、今大事なことだろう。と、おれはあらためて思ったのだった。

会場には、以前のわめぞトークで登壇した、流山の有機栽培農家「レインボーファミリー」の笠原さんも来ておられて、最後のほうで司会に発言を求められた。

笠原さんは、東電原発事故による柏のホットスポット以来、お客が変わってしまったことを話した。以前は、地元の人ではなく東京などの「オーガニックが正しい」と考える人たちの通販が多かったが、この人たちは事故のあと離れてしまった。いまでは、地元の人たちが、近くだから、おいしいから、顔が見える関係がよい、土地とのふれあいがあるなど、いろいろなつながりでお客になっている。そういう話をした。笠原さん家族も、忙しいときはコンビニ弁当を食べているという話に、会場はなごんだ。

おれは、教条や極端に走ったらいけないのよ生活というのは、と思って聴いていると、トツゼン司会がおれに発言を求めてきた。なんだよ、いきなり、それにもう15時をすぎていて、終わりの時間じゃないか。

トツゼンのことにまごついているおれに、司会の柳瀬さんは、おれが須田泰成さんとwebマガジン「チョクマガ」に連載していた「カウンターカルチャー」について話してくれと。おれは、一瞬ボーゼンとなった、「『なに食べた?』で社会は変わるのか」とどういう関係があるのだろう、と考える時間もなく話し出した。

ようするに、カウンターカルチャーというのは、混ざり合うこと、シャッフルだと。いま必要なのは、テーブルごとに分断された空間やコミュニティではなく、誰でもふらっと入って交わることもできるし、交わらなくてもほかの人の様子が身近にわかる、カウンターのようなカルチャーなのだ。てなことを話した。

時間はもう15時を10分すぎていた。これが、けっきょくまとめのコメントのようになってしまった。速水さんからも反応があって、震災以後、立ち飲みのワイン樽をテーブルにしようなものも含め、カウンターが増えているように見えると。

なるほど、立ち飲みカウンターが増えているのは、「デフレだから」「不況だから」という見方だけでなく、震災後カルチャーとして見ることも必要と思った。

会場は60人ほどだったか。学生さんたちも多く、圧倒的に若い人たちだった。終わって、立ち上がると、Mくんが寄ってきて、やあやあひさしぶり。前の会社をやめたという情報は知っていたが、その後どうなったのかと思っていたら、いま人気の雑誌の編集者になっていた。しかも結婚して。いやあ、めでたい。

近づいてきた女性が名刺を差し出す、見ると井上理津子さん、なんと、神戸であったんは10年以上も前だろう、それ以来、しかもいまは雑司ヶ谷に住んでいると。こんど飲みましょう、ぜひ!とやっていると、別の男性が近付いてきて名刺をいただいたら、毎日新聞の石戸諭記者ではないか。

ってことで、その石戸記者が担当して話題になっている、「漫画家はどう福島を描いたか」のシリーズは、いま2回目だけど、こちら毎日新聞のサイトで一回目から見られる。これはもう大変な力作。ぜひ、ごらんください。http://mainichi.jp/feature/news/20140522mog00m040007000c.html

さてそれで、その日は、トークだけで終わるはずはなく、ワレワレ野暮連は池袋に流れ、清龍本店でカンパーイ。16時ごろだった。見れば9人も。さらに、そのまま終わるはずもなく、19時過ぎ、わめぞ一味が打ち上げしている東池袋の居酒屋へ、9人から1人の脱落者もなく合流。もうなんだか、途中から覚えていない泥酔記憶喪失帰宅となったのだった。

当ブログ関連
2014/04/30 5月の、おすすめトーク、二つ。
2014/04/17 3月15日の大盛堂書店@渋谷での速水健朗さんとのトーク。
2013/04/06 「『いいモノ』食ってりゃ幸せか? われわれはみな〈社会的〉に食べている」五十嵐泰正さん×おれ。

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2014/05/21

東京新聞「大衆食堂ランチ」19回目、蒲田・石川家食堂。

出かけていた先週の16日は第3金曜日で、東京新聞に連載の「大衆食堂ランチ」の19回目が掲載になった。今回は、JR蒲田駅東口の「石川家食堂」さん。こちら、東京新聞のサイトでご覧いただけます。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2014051602000194.html

003001蒲田は都区内の山手線外側の最も大きな町のはずだけど、それにしてはイマイチ注目度も話題度も低い印象だ。かつて「安くてうまい蒲田」といわれたイメージが、ジェントリーフィケーションが進行する東京では、かえってマイナスになっているのだろうか。いずれにせよ、そこになにかゆがんだ価値観を感じたりする。

JR蒲田東口から京急蒲田西口のあいだに広がる、いわゆる「蒲田」地区は、闇市跡の繁華街として、比較的近年まで最もよくその規模と雰囲気と内容をとどめていたように思う。いまでもJR蒲田東口の周辺には、その名残りがあるが、駅周辺の少し奥と、京急蒲田西口は再開発が急ピッチで進んでいて、これからさらに大きく様変わりする感じだ。

この蒲田地区に、餃子や焼き肉の「安くてうまい」店が多かったのは、闇市跡の事情が関係すると思う。それと、戦前からの大工業地帯だったことも関係するだろう。

「大衆食堂」といっても、土地の人がイメージするそれは、地域の特性によって異なることがある。蒲田の場合は、餃子がウリの大衆的な中華料理屋だったといえるだろう。その中の一軒が、この石川家食堂なのだ。佇まいにも、店内の様子も、メニューから料理にいたるまで、蒲田の猥雑な力を蓄えているようだ。

と、こんな書き方をすると、猥雑や混沌の排除に「東京らしさ」を見る、いまどきの「東京的」な人たちにはよろこばれないのだろうか。

じつは、ここには何回も行っているが、ランチを食べたのは初めてだ。みそ汁はもとより、袋入りの焼のりが付いた中華のランチは、なんだかうれしかった。

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2014/05/20

「すみれ洋裁店・小口緑子の美術展」とミニ古墳部活動、二日目。

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相談して朝食は7時半ってことになっていた。

「女子」が4人もいたのに、誰にも襲われることなく、朝を迎えた。起きて外に出ると、スッキリと晴れ、山々の稜線がクッキリ見える(昨日掲載の最後の写真2枚)。日が差さない屋内は寒いが、日の当たる外はあたたかい。朝食は外ですることになった。

「なかや」の管理人をされている大塚謙一さんが、昨夜の囲炉裏の残り火であじの開きを焼くなどして準備してくれた。大塚さんは、30代に見えたり40代に見えることもあったが、おだやかな青年で、地元の方と思っていたら、1年ほど前に会社勤めを辞めて移住、「なかや」の隣に住んでいるのだとか。

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前夜は、たんぱく質ゼロに近い食事だったので、アジ開きや納豆や玉子が、すごくうれしい。うーん、ビールがないのが残念。どんぶりめしをかっこむ。

小口さんと連絡がとれ会場で会うことになっていた。10時少し前、大塚さんに見送られ、「なかや」さんをあとにして、再度津金学校へ。学校の前では田植えをやっていたが、たいがい田植えはこれからのようだった。

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昨日は書かなかったが、津金学校の明治校舎と大正校舎のあいだの奥、一段高いところに諏訪神社がある。この参道の鳥居は、いま来たほうへ100メートルほど下ったところにあるから、道路になってしまったところや津金学校などは、もとは諏訪神社の境内だったのだろうか。この神社の屋根が、千木や鰹木などなく、どう見てもお寺のような屋根の造りなのが気になった。

小口さんは、すでに着いていて、再会。といっても、おれは一昨年だったかな?吉祥寺で「御田町スタイル」の展示があったときに会っている。まずは、一階の古本と雑貨とカフェのような店で、お茶をしながら談笑。それぞれが展示を見ての感想をいうと、それぞれ違うところに興味を持っているから、おもしろい。それで再度展示を見る。気づいていなかったことに、なるほど~。

111展示場の外のバルコニーでスソさんと景色を眺めながら、帰りの相談。タクシーを呼ぶにせよ歩くにせよ、また長坂に出るのは気が進まないねえ、天気もよいし、それなら小海線の甲斐大泉へ出ようか。スソさんがスマホで調べると2時間ほどの歩き。デレデレ登りで楽ではないけれど、とにかく甲斐大泉へ行こうと決定。

小口さんや津金学校と別れ、おいしい学校で小腹用に各自パンを一個ずつと水を買って、歩きだす。甲斐大泉は西北西方向に直線距離だと7キロぐらいだが、実際は10キロぐらいだろう。詳しい地図がないと田舎道はわかりにくいし遠回りを覚悟していたが、スソさんのスマホのナビが大活躍。なんと、普通ならこんなところを歩かないだろうと思われる、草で埋まった農道まで、最短コースをナビしてくれるのだ。ときどき、え~、まさか~、という感じもあったが、とにかく天気もよいし、ナビを信じてひたすら歩いた。

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道は、ひたすら登りだった。北に向かい西に向かい、また北に向かい、また西に向かい、最初はゆるく、ハクサイやサニーレタスやジャガイモや山芋などの畑の中を歩く。このあたりは高原野菜の産地だ。広大な畑の風景。「農道ナビ」のおかげで出合えた。

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205ゆるい野菜畑の丘を越え谷間に入って小渓谷を渡り、また登り。途中でヤギと挨拶。南八ヶ岳花の森公園の道の駅に着いた。農道のようなところを歩いてきた後なので、急に「俗」の中に入った感じ。ここで小休止。まだみんな元気がよい。朝食どんぶりめしがきいたのか、あまり腹は空かない。買ってきたアンパンを食べる。

219このあとが、大変だった。道の駅の前を走る清里ラインを渡り、寺沢という集落の入口あたりから西側の山への登り、これが急だった。旧道らしく、車の通りはないが、カーブのない直登の急坂。みなの足取りが重くなる。見れば、カワハラさんとツルヤさんは、とくに足ごしらえはなくローヒールの短靴でバッグも手提げ。でもまあ、カワハラさんは近頃登山をしているし、ツルヤさんは取材などでよく歩きまわっているだろう最年少、大丈夫。

223この急坂を登りきると、一挙に見るからに高原という感じの、展望のよいところへ出た。正面には八ヶ岳。

ナビを見ていたスソさんが、ここからはほぼ直線一本道という。しかし、まだまだデレデレ登りが続くし、ほぼ直線ということは、デレデレ登りは甲斐大泉駅に着くまで続くのだ。おれは10年ほど前に甲斐小泉や大泉のへんを歩いている。

左側に墓場が見えた。墓石が一斉に南を向いている。スソさんが「なんで、みんな同じ方を向いているのだろう」という。おれは「甲府の城の方を向いているんじゃないの」とテキトウにいう。振り向いたスソさんが「富士山だ~」と叫ぶ。そうか、墓石は富士山の方を向いているのか。

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先を行く3人に「富士山が見えるよ~」と教える。富士山というと興奮するのは日本人か。いやいや富士山は、誰がどこから見ても、興奮する。やはり高い、富士山だけが空中に浮いている感じだ。

その富士山が見えたあたりから、ぼちぼち別荘が増えてきた。やはり別荘は眺望のよいところにできるのか。「売り地」の表示も増える。いくらぐらいか、自分ならどこがよいか、評定する余裕はあったが、しだいに口数は少なくなる。

道はデレデレ登りが続く。口にする言葉は「もうどれぐらい来たかな?」「あとどれぐらいかな?」。だんだん足が棒のようになる。誰かさんは後ろ向きに歩いたりしている。カーブがないと、足への荷重の向きが変わることがない。もう駅まで15分はないだろうというあたりで、ついに「休もう」ということになった。

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一休みしても足の疲れは簡単にはとれない。最後は「駅はまだ見えないか」ばかりが気になる。おれは、はやくビールを飲みてえ~。だけど、甲斐大泉駅には売店がないし、周辺にもビールを売っている店はないのだ。ガマン。

駅に着いたのが15時5分前ごろ。歩き始めたのが12時頃だったから、途中で30分ほど休憩したが3時間かかった。ちょうど15時4分の小淵沢行き臨時列車があって乗った。2両連結のうち、後ろの一両はおれたちだけ。ドカッと思い思いに寝転んだりヨガポーズをとったり。

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小淵沢では、1時間ほど待って16時17分発の、普通乗車券で特急並みのホリデー快速の新宿行きがあって、これに乗った。もちろん、駅の店で、ビールを買って飲み、立ち食いそばも食べ、車内で飲む酒やつまみも買った。

立川で降りてツルヤさんと、西国分寺乗り換え武蔵野線経由で、ヨロヨロ帰宅。いつものことながら、くたびれ果てて帰りついても、ここには書ききれないほど盛り沢山の濃い旅で楽しかった。

と、なんとか書き終えた。

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2014/05/19

「すみれ洋裁店・小口緑子の美術展」とミニ古墳部活動、一日目。

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下諏訪、すみれ洋裁店の小口緑子さんから個展の案内が届いた。会期は4月26日から5月一杯。

古墳部長のスソさんから、「行こう」という声がかかり、誘いにのって都合がついたのは、おれのほかに、スソさん、セオさん、カワハラさん、ツルヤさん、「女子」ばかり。

この美術展、すみれ洋裁店がある下諏訪ではなく、八ヶ岳の南麓、山梨県北杜市津金の「津金学校」であるのだ。5月16日に中央線長坂駅に11時半集合、タクシーを利用して、津金学校へ行く途中、金生遺跡と北杜市考古資料館に寄るという予定を、スソさんがたてた。しかも古民家宿に一泊の、美術展とミニ古墳部活動ということになったのだ。

おれは、かなり遠回りになり各駅停車で時間もかかるが、のんびり八ヶ岳を見ながら車中酒を楽しもうと、小海線経由で行くことにした。東大宮6時54分発で大宮、長野新幹線に乗り換え佐久平に着いたのが8時19分。亀の海のカップ酒を3個買って、8時31分発の2両連結の小淵沢行きに乗った。発車後、二つほどの駅を過ぎ、サテ亀の海を飲もうかと思ったら、ドヤドヤと小学生の遠足団体が乗ってきて、取り囲まれてしまった。これでは、いくらなんでも飲めない。大いなる誤算。しかし、小学生を見ていると退屈することがなかった。

その小学生が降りたのは野辺山で、各駅停車24駅のうち3分の2以上が過ぎている。でもまあ、野辺山、清里、甲斐大泉、甲斐小泉と眺めのよいところが残っているわけで、気を取り直して、亀の海を飲みながら、車窓の景色を楽しんだ。

小淵沢で中央線、甲府・新宿方面の各駅停車に乗り換え、一つ目、長坂に着いたのは10時41分。長坂のまちは初めてなので、ぶらぶら散歩。駅前「みなと食堂」という大衆食堂があって、長坂に対する好感度が高まる。長い坂の、いずこも同じさびれつつある商店街を歩く。

034一度駅にもどってみると、スソさんが着いていた。一緒に、昼飯をどこにしようかと探しながら歩くが駅前の食堂以上にピンとくるところがない。

11時29分に着く下り列車があって、これで、カワハラさん、セオさん、ツルヤさんが到着。スソさんは、先日、大盛堂書店でのトークのときにあっているが、ほかのみなさんとは今年初めてだ。ま、たいして変わっていないが。

とにかく、まずは腹ごしらえと、やはり駅前の「みなと食堂」に入った。おれは、「昔ながら」とメニューにある、カレラーライスを頼み、ほかのみなさんは、チャーハンや「豚肉を使用しています」とメニューに注釈のあるチキンライスを頼んだ。カレーライスは、ほんとうに、うどん粉ネバネバの黄色いカレーライスだった。みんなでビール一本をあける。043

タクシー小型車2台に分乗し、まずは金生遺跡。まったく予備知識もなく行ったのだが、八ヶ岳、南アなどが見渡せる、眺望のよいところにある、よく整備された縄文遺跡だった。ストーンサークルがあったのには、おどろいた。縄文住居やストーンサークルは、発掘調査後そのまま埋め立て、その上に同じように復元したもの。

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051待ってもらっていたタクシーに乗り、北杜市考古資料館へ。ここも予備知識がなくて行ったのだが、新しい建物に、縄文土器や珍しい中空土偶などの土偶は保存状態もよく、なかなか見ごたえのある展示。時間をかけてゆっくり見たかったが、古墳時代ぐらいまでを足早に、とはいえ、縄文土器や土偶を前に、ああだこうだ、それぞれが勝手な感想を言い合いながら楽しく見学。

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再び待ってもらっていたタクシーに乗り、目的地の津金学校へ。ここも予備知識なしで行ったのだが、どうしてこのような不便な場所に、こんなによいところがあるの、という感じ。八ヶ岳が見渡せ、景色もよい。

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タクシーの運転手さんは「三代校舎」と言っていたが、美術展の会場になっている明治時代の尋常小学校の校舎、大正時代の校舎、そして昭和の校舎が、並んで建って、今風にいろいろに使われているのだ。

096「すみれ洋裁店・小口緑子の美術展」は、明治のモダンな校舎の2階の半分を使っていた。建物本体のほとんどは、明治のままの木造。

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小口さんの作品は、ありふれたもの、ともすると捨てられていたものや、廃棄される運命にあるようなものを、遊び心たっぷりに手を加え、「リサイクル品」ではなく新たな美術にしたものだ。ユーモアとエスプリ、ちょっぴり風刺がきいているものもあって、楽しい。手を触れていじりながら見ると、さらに楽しい。いやあ、ほんと楽しくて堪能した。

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もう役目が終わったかのような、ダルマや北海道土産の定番だった木彫りの熊の置物や、レジ袋などケミカルな素材による「使い捨て物」が、「なにこれ」と興味がわくような美術に変身している。どこかに落ちていたような陶器のカケラなども「標本」になったり。上の写真は「てりゐぬ」のタイトルで、使われなくなった、あいうえおのゴム印を、それに見立てたもの。ナイフとホークをのせた紙ナプキン見立ての用紙には、客が店内に入り注文し、食べて出るまでを箇条書きに書いてある。そこにあるのは、じつに「マニュアル的」な暮らしや食事なのだ。

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141宿泊は、ここから700メートルほどのところにある古民家宿の「なかや」だ。朝食は付けてもらったが、夕食は自分たちで作ろうということにしていた。とはいえ、食料品を売っている店はなく、三代校舎の昭和のところにある「おいしい学校」という店で売っている、地場の野菜類のみなのだ。ほんと野菜のみで、豆腐もなく、たんぱく系ゼロ状態。主食は「ほうとう」にすることにし、酒もここで買う以外ない、それに「なかや」さんはシャワーだけで風呂がないから、ここで風呂にも入ることにした。

144「なかや」は、「田舎暮らし体験ハウス」であるから、都会の感覚ではいけないが、トイレは快適な水洗になっていた。到着すると、なにしろ料理家のセオさんがいるのだから、彼女のリードで、テキパキと進み、おれはやることがない状態。いろいろできあがり、明るいうちは外で食べようということになり、南アなどが見え景色もよい、建物の前で宴会が始まった。

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まずはビールでカンパーイ。

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そして日が暮れると、囲炉裏端で宴会は続く。やはり夜は冷える。炭火、それに酒、つきない楽しい会話で、ぬるくゆったりあたたまる。この炉端での団欒は縄文の竪穴住居から続いている「文化」なのだなあ。はあ、酔った。0時ごろだろう。ほうとうも食べ、酒も絶えた。

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おれは一人別部屋で、ふとんに入ったとたん、もう寝ていた。「女子」たちは、わあわあいいながら布団を出してにぎやかだったらしいが、まったく知らず。

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翌日は、素晴らしい天気で、山々の稜線がクッキリ。朝食は、外で食べた。その続きは、また明日。たぶん。

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「なかや」さんの前から見た、上、地蔵、観音、薬師の鳳凰三山と、中央右奥の雪の山は北岳。下、八ヶ岳、右から硫黄、赤岳、阿弥陀、権現、編笠。

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