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2014/05/29

地域とネットワークと味覚の関係のなんだかんだ、きょねんのこと。

1947いまごろになって、きょねんの本の話とトークのことだ。忘れないうちに、メモしておこう。

本は、きょねん読んだ本のベスト3に入るうちの2冊、『オオカミの護符』(小倉美惠子、新潮社)と『かつお節と日本人』(宮内泰介・藤村泰、岩波新書)だ。トークは、12月19日(木)神田神保町の「路地と人」で、安岐理加さんとやった「地域の食文化について思うこと」。

それに、おととしの末に発行されて読んだ『みんなで決めた「安心」のかたち』(五十嵐泰正、亜紀書房)が関係する。

簡単にいってしまえば、食生活が成り立っている構造。料理や味覚は、どう決まって、どう変化するかに関わることなのだ。

いまでは「食べログ」なんてものもあって、われこそは真の味覚を知るものなり、「うまさ」を知るはワレにありという感じがまかり通っているが、だけど、一方では、味覚には地域差や個人差があることも知られている。「オーガニックだからうまい」「手作りだからうまい」といわれる一方で、それらは根拠がないことも知られている。

それらは、けっきょく、ワレワレはどうやって食べているかに関わることであり、『みんなで決めた「安心」のかたち』や、著者の五十嵐さんとおれのトークでも、「社会的に食べている」ということが強調された。

では、「社会的に食べている」とは、どういうことか。ひとつは「地域」であり、ひとつは「ネットワーク」で、地域とネットワークどちらが欠けてもいけない。と、書けば、そんなことアタリマエじゃないかという感じなのだが、そんなにアタリマエに考えられているわけじゃないのだな。

だいたい、「オーガニックだからうまい」「手作りだからうまい」といったことは、かなり信じられている。それに、たとえば、「地産地消」は、グローバルなネットワークの食や味覚を、ときには「悪」と決めつけ「排除」も辞さない勢いを見せたりする。一方、グローバルなネットワークは、ときには「地域性」に考慮を払いながらも、「地域」を支配下におさめようとする。

こういう例をあげれば切りがないのだが、『オオカミの護符』と『かつお節と日本人』を合わせて読むと、日本の近代では、それがどんなぐいあいに関係していたか、かなりイメージがわくのだ。

ネットワークから見れば、料理も味覚も移動する。地域から見れば、料理も味覚も変わる、のだが、「郷土」なる味覚は、変わらない味覚を伝統として(言い方を変えれば、タテマエとして)成り立ってきた。

地域ごとに変わる味覚は、何と深い関係にあるのかということことは、かなり前、70年代に食のマーケティングに関わったころから気になっていた。そして、87年の秋に、野田正彰が説く「コスモロジー」という言葉にであって、これだな、という感触を持ったが、抽象的でイマイチ具体性に欠けるし、とくに都市文化の文脈との関係をどう考えたらよいか、わからなくて、ずーっと引っかかったまま、この言葉を使えないできた。

ところが、『オオカミの護符』と『かつお節と日本人』を読んで、なーんだ、「コスモロジー」というのは、こういうことか、完全にではないが理解がすすんだ。「地域(ローカル)」と「ネットワーク(グローバル)」で成り立つ空間を、矛盾の関係も含め統合的にとらえるには野田の「コスモロジー」という言葉と概念は、じつに都合がよいのだ。「ひとはコスモロジーに生き、味覚はコスモロジーで決まる、あるいは左右される」というぐあいにいえそう、という感じがした。

それで、12月19日の路地と人には、『中央公論』87年10月号で野田正彰が書いていた「コスモロジー」の概念のところだけをプリントして参加者に配り、『オオカミの護符』と『かつお節と日本人』から、食生活と地域とネットワークについて語り、コスモロジーへ行きついた…。

だけど、たぶん、この文章を読んでもチンプンカンプンのひとが多いと思われるが、おれのなかでまだ十分こなれきっていないこともあるし、気持が先走り過ぎた感じで、あまり反応はよくなかった。

そもそも、安岐理加さんとは、もっと具体的な「食と地域にまつわるそれぞれの思う事を」話すはずだった。安岐さんとは、これが3回目か4回目かのトークで、彼女は、もう瀬戸内の豊島へ移住というか帰郷してしまって、「路地と人」では最後のトークだったのに、なんとまあ。でも、そんなに反省はしていない。

安岐理加さんは、いつもトークの前に、いま考えていることをドドドーとメールに書いてくれて、お互いにメールで語り合いながら、トークを迎えるという段取りまでとってくれていたのが、おれが安岐さんの頭の回転に追いつけず、いつもおれからの返信が途切れて終わり、当日を迎えるといったアンバイで、この日も、そうだった。

ことに彼女の「美術家」としての活動は、バクゼンとはわかるのだが、理解はバクゼンの域を出ず、彼女が、アサヒアートフェスティバル2011参加企画として、忙しそうに日本を駆けずりまわっていた、「路地と人行商プロジェクト「販女(ひさぎめ)の家」 漂流と定着―文化的な文脈をたどるローカリズム」は、なんだか面白そう、とは思っていたが、よくわからなかった。

そのプロジェクトのまとめである『販女の見た景色』が、トークの日の前に完成していて買い求めることができた。

B4中トジ、本文48ページにまとめられた、薄い紙の冊子は、見た目よりはるかに充実した読みごたえのある内容だった。おれが手探り状態だった、「コスモロジー」に生きる人たちの実録でもあったのだ。しかも、それは「路地と人」というローカルから、国内各地のローカルはもとより、国をこえてつながっている。おれは、おどろいたのなんの。安岐さんは、とっくに「コスモロジー」を肉体にしているように思えた。いつかのトークのとき見た、犬だけでやる猪狩りの動画、なぜあんなに密着して記録したのか、ようやく見えてきた。すみませんねえ、いまごろ気が付いて。

『販女の見た景色』の表2には、瀬川清子『販女 女性と商業』(未来社)からの抜粋がある。これは、行商プロジェクトの動機でもあり結論でもあると思われるが、『オオカミの護符』と『かつお節と日本人』に欠けているところを埋め、地域とネットワークの統合=コスモロジーが、味覚と密接である具体を示している。

「漁夫のとった魚を、その妻が売り歩いて、朝夕の炊ぎの糧の穀物とかえことをする、というのは、まことに自然なことで、久しい年代の間、津々浦々の民家の煙は、こうした夫婦の漁とあきないを兼ねた働きによって、たちのぼっていたのである。(中略)村のなかにたてこもって生活した昔の村人にとっては、互いに異郷人である農民との接触交渉ということは、たやすいことではなかったろうとは思うが、もしもこの国にあまねく行われている節の日の魚食のならわしが、両者の交渉に関係があるとすれば、漁人の妻のあきないの力はまことに大きいものであった。まなぐいの習俗の維持には、漁人の力がなくてはならぬものである。」

こうして食文化の現実は成り立ってきた。

疲れたので、今日はここまで。

しかし、「アート」とは「アーチスト」とは、なんなんだろうなあ。まちや建物や本などを、こぎれいに仕上げることではないのは、確かだろう。

「食の職人」は敬われ「食の労働者」は軽んじられる「文化」には胡散臭いものがあるな。

「職人」というと文化っぽくて、「労働者」では文化であらず、ってな文化を、「丁寧な仕事」や「手作り」崇拝の文化なんぞに感じるわけであります。

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