「和食」…ユネスコの無形文化遺産に登録されたけれど。こんな「和食」に誰がした。
2014/06/01「5月のハンセイ。」に書いた四谷の飲み会では、最後に、やはり「和食」の件になった。ま、文化遺産に登録されたけど、意気があがらないね~、かえってめんどうなことになっているような、てなことで簡単に片づけられたていどだったのだが。
おれも食育基本法批判をやったときほど、この件については意気があがらない。もう、ほとんど無視、という感じだ。
というのも、「和食」そのものが迷走していて、墓穴を掘っているからだ。「和食」を「日本人の伝統的な食文化」と唱えるほど、矛盾が露呈し泥沼が生まれているからだ。放っておいても、迷走泥沼状態。それは、チト悲しいことではあるが。
それに、食育「国民運動」のように、「和食」のカネや権威にたかって、テキトウなことをいって稼いでいるひとたちがいるのも、セツナイ。
とにかく、当初から「和食」の「範囲」がハッキリしていないのだ。たとえば、昨年12月2日の読売新聞は、3ページにわたって(農水省と「和食」文化の保護・継承に取り組むキッコーマンと伊藤園の広告が半分を占めているから実質1ページ半だが)、11月24日に開催された「和食文化の保護と継承について考えるイベント」を伝えている。その「専門家によるシンポジウム」を見ても、何が「和食」かについてはバラバラだ。
無形文化遺産に登録が決まり、「日本食文化のユネスコ無形文化遺産化推進会議」から「「和食」文化の保護・継承国民会議」に衣替えした組織の会長である、熊倉功夫さんの基調講演では、「和食で大事なのは、まずご飯です。ご飯だけでは食べられないんで日本人は汁を非常に大事にします。それからおかず」といっている。
ところが、その「和食の範囲」について、パネラーの伏木享さんは、「日本でできて日本人しか食べない洋食は、外国人から見ると和食になる。ラーメンやお好み焼き、カキフライといった料理も含めて、和食の裾野は広い方がいいと思う」といっている。
そもそも、あらかじめ「和食」の範囲を決めて登録しているのではなく、アイマイのままだし、「和食」なるものは、このひとたちが、こんな話しをして決めるものなのかと思うが、とにかく、「和食」の範囲などは、はっきりしてない。
だから、『AERA』 2014年3月31日号でも「カレー、ラーメンは「和食」なのか? 専門家の意見は」といったことが記事になり、これがインターネットにも載って、話題になったりした。
http://dot.asahi.com/aera/2014033100064.html
この記事の「専門家」は、原田信男さんと江原絢子さんで、お二人は日本の食文化について真摯に研究を重ねていて、ひとやカネの顔色を見ながらものをいったりしない、見識のあるひとだと思うが、意見がわかれている。
こういうことになってしまうワケは、2014/02/02「明日3日は、朝10時から文化放送「くにまるジャパン」で、生活料理の白熱トーク!」で、少しふれている。……
「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録され、「文化遺産」けっこうなことだけど、インターネット上にも「「和食」の無形文化遺産登録を手放しで喜べない理由」といった記事があるように(http://diamond.jp/articles/-/44360)、「和食」と「日本料理」と「家庭料理」のあいだが、あらためて見直されたり論議になっている。
これは、『大衆めし 激動の戦後史』にも書いている「日本料理」の歴史と「二重構造」が関係することで、そうは簡単にスッキリ解決はしない。だけど、まあ、働き生きるための「大衆めし=生活料理」は、日々行われているのである。その生活料理について、もうちょっと考えてみようってことだね。
……と書いているのだが、『大衆めし 激動の戦後史』を読んでもらえば、混乱の原因も、そもそも、和食は、なぜ「保護」だの「継承」だのといわなけれならない事態になったのか、わかるはずだ。
今日、ツイッターで、このようにツイートした。
https://twitter.com/entetsu_yabo/status/473668385645932544
「何度もいうけど。汁かけめしや大衆めしに関する俺の著述は、生活を基本に料理を「機能論」的に述べているが、世間で圧倒的に通用しているのは「発生論」や「系譜論」であり、素材や庖丁を原理としている。以前書いたブログから https://enmeshi.way-nifty.com/meshi/2010/07/post-6484.html」
RTやお気に入りが、けっこうあったが、@allman3369さんから、「@entetsu_yabo さんの、料理が機能ではなく発生論として語られる、というのはつまり「必要性の充足」ではなくて「正統性のゲーム」になってしまっている、ということなんだろうと思う。」と返信ツイートがあり、
おれは「@allman3369 なるほど、「正統性のゲーム」って表現、いいですなあ。料理にかぎらず、発生論や系譜論の「正統性」が、古事記や日本書紀、でなければガイコクになってしまうってのが、サミシイですが。」と返したりした。
これまでもそうだったが、「和食」は、その「正統性のゲーム」の泥沼に陥っている。
先のおれのツイートのリンク先は、当ブログの2010/07/23「梅棹忠夫『文明の生態史観』と『汁かけめし快食學』。」だが、そこでは、瀬尾幸子さんがいった「結局、大衆めしってみんな和食なのね。スパゲティナポリタンだって」も引用している。この「大衆めし」は『大衆めし 激動の戦後史』に書いたように「生活料理」とイコールだ。
ようするに、料理を「発生論」と「系譜論」で見ているうちは、「和食問題」の解決の糸口はつかめない。
まずは、発生論や系譜論のほかにも、機能論の見方ができるし、そうすべきだということを、料理や味覚に関心のある方には、ぜひ知ってほしい。料理は生活、に、立ち返ることだ。
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