山本周五郎『青べか物語』を読んでいる。
このあいだある会社の内部資料を見ていたら、普通の庶民のことを書いて民俗的な資料価値も高いと、『青べか物語』があげられていた。それに、「普通の生活を対象に書くことの難しさは、普通の生活に奥行きを見る難しさでもある」とか、それを書き遺すことの大切さにもふれていた。
『青べか物語』は、だいぶ前に一度読んだ記憶があるが、そういう目で見た記憶は残っていなかったので、新潮文庫版を買って読んでいる。
なるほどなあ、なのだ。そうはいっても、書くのは容易じゃない。
それに、昨今の「格差社会」では、「普通」は売れない。マーケットにならない。対象となるネタそのものか著者に、「有名」とか「一流」とか「専門」とかの、なんらかのスペシャリティが必要だと、このあいだ広告業界の人と、そういう話しになった。
そりゃまあ、わかってますが。
「普通の生活を対象に書くことの難しさは、普通の生活に奥行きを見る難しさでもある」ってことに挑戦するモノカキなんて、いまどきいないでしょうな。もっとマーケティング的に、単純に、ひとは、カネになる「権力」や「権威」、「有名」とか「一流」とか「専門」に群がるね。その仲間に入ろうとする。
はあ、しかし、カネになる「権力」や「権威」、「有名」とか「一流」とか「専門」に群がることをしなくても、戦略のとりようでカネを稼いでいるひとはいますよね。
じつは、けっこういるんだな。でも、メディアの世界では、群がって、あざとくやる人たちが多いだろうなあ。普通の人たち、その人から見たら下の人たち、のことなんか頭にないよ。
ようするに、おれはあんたらより「上」の世界にいるんだぜ、という誇示をしたいかどうかの違いじゃないですか。それぞれがそれぞれの場所で社会的に必要なことをして食っているわけで、そこに上下をつけたがるやつがいて。
あと、チヤホヤされていたい、とか。「上」になるほどチヤホヤされるからね。アンガイ、そんなことで。
奥行きがないねえ。
と、笑っていたのだが…。
おれの対象は、「普通の生活」「普通の人」だから、よほど「普通の生活に奥行きを見る」目と、書く腕が必要とされるらしいのだが、はて。
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