『ぶっかけめしの悦楽』の第6章まで掲載。
ザ大衆食のサイトに掲載中の『ぶっかけめしの悦楽』は、今日、第5章と第6章をアップした。…クリック地獄
これで約半分は、作業を終えた。
第5章 デクノボウの黄色いカレーライス
(1)「福住」のカレーライス
(2)デクノボウの台所
(3)三層のカレーライス
第6章 懐石料理の大家は言った
(1)かけめしと料理をめぐる二人の男
(2)史上初? 正しい汁かけ御飯の定義
(3)暴かれた茶漬とかけめしの不倫関係
この二つの章は、この本の核心部分で、『大衆めし 激動の戦後史』と最も関係のあるところだ。
第5章では、「台所でくりかえし再現されないかぎり、料理は伝わってひろがったことにならない。料理はつくられなければ存在しないし、たべればなくなってしまうからだ。料理の普及とは、台所での再生であり生成のくりかえしの連続でありひろがりである。/そしてカレーライスを語るとき、忘れてはならない人間といえば、そのくりかえしの現場のおふくろであろう。おふくろは、ながいあいだ台所の全知全能だった。おふくろは台所を意味し、おふくろの味は台所の味を意味した。/おふくろをぬきに、どんな食品も料理も普及しなかった。どんなに有名な料理人が本に書いたところで、軍隊が何万人で押しかけても、おふくろつまり台所でダメなものはダメであり、そこがどうであるかだった。」
しかし、たいがいのカレーライスの歴史では、そのおふくろは無視されるかデクノボウ扱いだ。なぜ、そんなことになったのか、そこには、『大衆めし 激動の戦後史』の日本料理の「二重構造」や「家事労働と料理と女と男」などに書いたことが関係するし、この問題の根は深い。
ってわけで、「デクノボウのおふくろの存在を考えよう。/とにかく「おふくろの味」というかぎり、台所の感覚であり意思であり精神であるボクタチのおふくろのオリジナリティがあるはずだ。でなければ、ボクタチは、わざわざ「おふくろの味」とはいわない。/そこには本場も本家もない。もちろんホンモノもニセモノもない。インドやフランスのおふくろが本場で本家でホンモノで、日本のおふくろは場ちがいもので分家の手ぬきのニセモノのスカ、なんてことはない。/おふくろは、そういう、ひとつのオリジナリティを意味していたはずだ。/だが、ほとんどのカレーライスの歴史では、黄色いカレーライスをつくったおふくろつまり日本の台所は、いつも感覚や意思や精神のないデクノボウあつかいである。西洋料理である軍隊の料理である男の料理であるカレーライスを、まねし、手ぬきし、自堕落なものにしたデクノボウ。/デクノボウだろうが、感覚や意思や精神がある。それがデクノボウなりに、料理にどうはたらいてきたかが料理の歴史ではないのか。」と。
デクノボウのおふくろの存在を考えることは、「生活料理」を考えることでもあるのだ。
当ブログ関連
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『ぶっかけめしの悦楽』の第4章まで掲載。
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「幻の奇書」といわれる『ぶっかけめしの悦楽』(四谷ラウンド、1999年)のWeb公開を始めた。
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