『ぶっかけめしの悦楽』の第8章まで掲載。
昨日、『ぶっかけめしの悦楽』の第8章までを、ザ大衆食のサイトに掲載した。…クリック地獄
第7章 味噌汁ぶっかけめしの真相
(1)なんといっても痛快味
(2)風土のかけめし
(3)ぶっかけめしはうまい
(4)時代も年齢も超えて
(5)かけめしイケマセン
第8章 雑穀を考えたことがあるか
(1)おお、宿命のかけめし
(2)おお、麦飯カレーライス
(3)おお、貧乏食通
(4)おお、偏見
(5)おお、えびし
7章8章では、味噌汁ぶっかけめしと雑穀食について、その実態の例をあげながら述べ、「ボクタチはコメをたべながら、偏見まみれの米食の視線を身につけてきた」という話しをしている。
「味噌汁ぶっかけめしに対する偏見がある。それも、かなり根強い。多くの人びとがこれをやってきたにもかかわらず、知らんふりの知らん顔。卑下し、恥とおもい、隠す。それが日本人のナサケナイところだ。/そんなことで、カレーライスやかけめしやボクタチの真実があきらかになるであろうか。なりっこありませんね。/もっとかけめしを大切に考えたい。いっさいの偏見から解放され、味噌汁ぶっかけめしを、白昼堂々と自由に語り合えるようになりたい。そしたらどんなに精神がいきいきと活動することか。どんなに自由に考えられることか。」「いきいきとした人間らしいよろこびの声があがる、味噌汁ぶっかけめしのような伝統もある。/そして、その伝統はカレーライスに息づいていたはずなのだ。」
味噌汁ぶっかけめしや雑穀食が「貧しい遅れた食生活かどうかではない。そこにある人間の、意欲や知識や能力なのである。これは、いったい、どうなったのか。コメに偏向した歴史には登場する場所がない。」
そして「偏見にみちた伝統主義」を指摘し、「偏見のない健全な米食文化の再構築、「雑物」料理文化の見直し」を主張している。
これが、過去の話ではなく、かなり今日的課題であることは、橋川文三の『日本浪曼派批判序説』を読んだことのあるひとは、わかるだろう。「ボクタチはコメをたべながら、偏見まみれの米食の視線を身につけてきた」に関係する、この件については、書く機会があったら、書きたいと思っている。
いまの日本で、自分は「客観」かつ「公平」で「正しい」と思い込むほど、危険なことはない。
それはともかく、昨日、25日にアップした「デクノボウの黄色いカレーライス」について、その話しを裏付けるようなツイートを見つけた。料理は食べればなくなる、いまや、第5章に書いた、あの黄色いカレーライスを覚えている人も、少なくなる一方なのだが。
@yuurakuさんのツイートから。
https://twitter.com/yuuraku/status/493522935563317248
30年くらい前まで日本の大衆食堂のカレーはまっ黄っ黄で、うどん粉であんかけのようにねとっとして味が薄いのでソースぶっかけて食うものだった。
7:26 - 2014年7月28日
何度も述べているように、大衆食堂には、日本の食事や料理のスタンダードが反映している。このツイートに注釈を加えれば、第5章でも述べたように、各家庭がカレーライスの味を即席ルーに完全に頼るようになるまでは、コクがまちまちで、バターなどを使いそのままでも十分だったり、ソースや醤油をかけたりしなくてはならないほどコクが足りなかったりした。そのまちまちなところに、江原恵が指摘した「カレーライスの可能性」もあった。
いずれにしても、それが「国民食」といわれるほど普及した、ごった煮カレー汁ぶっかけめしの、黄色いカレーライスだったのだ。
当ブログ関連
2014/07/14
「幻の奇書」といわれる『ぶっかけめしの悦楽』(四谷ラウンド、1999年)のWeb公開を始めた。
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