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2014/07/30

『ぶっかけめしの悦楽』の第8章まで掲載。

昨日、『ぶっかけめしの悦楽』の第8章までを、ザ大衆食のサイトに掲載した。…クリック地獄

第7章 味噌汁ぶっかけめしの真相
(1)なんといっても痛快味
(2)風土のかけめし
(3)ぶっかけめしはうまい
(4)時代も年齢も超えて
(5)かけめしイケマセン

第8章 雑穀を考えたことがあるか
(1)おお、宿命のかけめし
(2)おお、麦飯カレーライス
(3)おお、貧乏食通
(4)おお、偏見
(5)おお、えびし

7章8章では、味噌汁ぶっかけめしと雑穀食について、その実態の例をあげながら述べ、「ボクタチはコメをたべながら、偏見まみれの米食の視線を身につけてきた」という話しをしている。

「味噌汁ぶっかけめしに対する偏見がある。それも、かなり根強い。多くの人びとがこれをやってきたにもかかわらず、知らんふりの知らん顔。卑下し、恥とおもい、隠す。それが日本人のナサケナイところだ。/そんなことで、カレーライスやかけめしやボクタチの真実があきらかになるであろうか。なりっこありませんね。/もっとかけめしを大切に考えたい。いっさいの偏見から解放され、味噌汁ぶっかけめしを、白昼堂々と自由に語り合えるようになりたい。そしたらどんなに精神がいきいきと活動することか。どんなに自由に考えられることか。」「いきいきとした人間らしいよろこびの声があがる、味噌汁ぶっかけめしのような伝統もある。/そして、その伝統はカレーライスに息づいていたはずなのだ。」

味噌汁ぶっかけめしや雑穀食が「貧しい遅れた食生活かどうかではない。そこにある人間の、意欲や知識や能力なのである。これは、いったい、どうなったのか。コメに偏向した歴史には登場する場所がない。」

そして「偏見にみちた伝統主義」を指摘し、「偏見のない健全な米食文化の再構築、「雑物」料理文化の見直し」を主張している。

これが、過去の話ではなく、かなり今日的課題であることは、橋川文三の『日本浪曼派批判序説』を読んだことのあるひとは、わかるだろう。「ボクタチはコメをたべながら、偏見まみれの米食の視線を身につけてきた」に関係する、この件については、書く機会があったら、書きたいと思っている。

いまの日本で、自分は「客観」かつ「公平」で「正しい」と思い込むほど、危険なことはない。

それはともかく、昨日、25日にアップした「デクノボウの黄色いカレーライス」について、その話しを裏付けるようなツイートを見つけた。料理は食べればなくなる、いまや、第5章に書いた、あの黄色いカレーライスを覚えている人も、少なくなる一方なのだが。

@yuurakuさんのツイートから。
https://twitter.com/yuuraku/status/493522935563317248
30年くらい前まで日本の大衆食堂のカレーはまっ黄っ黄で、うどん粉であんかけのようにねとっとして味が薄いのでソースぶっかけて食うものだった。
7:26 - 2014年7月28日

何度も述べているように、大衆食堂には、日本の食事や料理のスタンダードが反映している。このツイートに注釈を加えれば、第5章でも述べたように、各家庭がカレーライスの味を即席ルーに完全に頼るようになるまでは、コクがまちまちで、バターなどを使いそのままでも十分だったり、ソースや醤油をかけたりしなくてはならないほどコクが足りなかったりした。そのまちまちなところに、江原恵が指摘した「カレーライスの可能性」もあった。

いずれにしても、それが「国民食」といわれるほど普及した、ごった煮カレー汁ぶっかけめしの、黄色いカレーライスだったのだ。

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2014/07/14
「幻の奇書」といわれる『ぶっかけめしの悦楽』(四谷ラウンド、1999年)のWeb公開を始めた。

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2014/07/25

『ぶっかけめしの悦楽』の第6章まで掲載。

ザ大衆食のサイトに掲載中の『ぶっかけめしの悦楽』は、今日、第5章と第6章をアップした。…クリック地獄

これで約半分は、作業を終えた。

第5章 デクノボウの黄色いカレーライス
(1)「福住」のカレーライス
(2)デクノボウの台所
(3)三層のカレーライス

第6章 懐石料理の大家は言った
(1)かけめしと料理をめぐる二人の男
(2)史上初? 正しい汁かけ御飯の定義
(3)暴かれた茶漬とかけめしの不倫関係

この二つの章は、この本の核心部分で、『大衆めし 激動の戦後史』と最も関係のあるところだ。

第5章では、「台所でくりかえし再現されないかぎり、料理は伝わってひろがったことにならない。料理はつくられなければ存在しないし、たべればなくなってしまうからだ。料理の普及とは、台所での再生であり生成のくりかえしの連続でありひろがりである。/そしてカレーライスを語るとき、忘れてはならない人間といえば、そのくりかえしの現場のおふくろであろう。おふくろは、ながいあいだ台所の全知全能だった。おふくろは台所を意味し、おふくろの味は台所の味を意味した。/おふくろをぬきに、どんな食品も料理も普及しなかった。どんなに有名な料理人が本に書いたところで、軍隊が何万人で押しかけても、おふくろつまり台所でダメなものはダメであり、そこがどうであるかだった。」

しかし、たいがいのカレーライスの歴史では、そのおふくろは無視されるかデクノボウ扱いだ。なぜ、そんなことになったのか、そこには、『大衆めし 激動の戦後史』の日本料理の「二重構造」や「家事労働と料理と女と男」などに書いたことが関係するし、この問題の根は深い。

ってわけで、「デクノボウのおふくろの存在を考えよう。/とにかく「おふくろの味」というかぎり、台所の感覚であり意思であり精神であるボクタチのおふくろのオリジナリティがあるはずだ。でなければ、ボクタチは、わざわざ「おふくろの味」とはいわない。/そこには本場も本家もない。もちろんホンモノもニセモノもない。インドやフランスのおふくろが本場で本家でホンモノで、日本のおふくろは場ちがいもので分家の手ぬきのニセモノのスカ、なんてことはない。/おふくろは、そういう、ひとつのオリジナリティを意味していたはずだ。/だが、ほとんどのカレーライスの歴史では、黄色いカレーライスをつくったおふくろつまり日本の台所は、いつも感覚や意思や精神のないデクノボウあつかいである。西洋料理である軍隊の料理である男の料理であるカレーライスを、まねし、手ぬきし、自堕落なものにしたデクノボウ。/デクノボウだろうが、感覚や意思や精神がある。それがデクノボウなりに、料理にどうはたらいてきたかが料理の歴史ではないのか。」と。

デクノボウのおふくろの存在を考えることは、「生活料理」を考えることでもあるのだ。

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2014/07/16
『ぶっかけめしの悦楽』の第4章まで掲載。
2014/07/14
「幻の奇書」といわれる『ぶっかけめしの悦楽』(四谷ラウンド、1999年)のWeb公開を始めた。

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2014/07/24

酒とエロと街の文化とか、泥酔そして梅雨が明けた。

22日(火)に関東地方のも梅雨が明けた。その前、19、20、21日、世間は3連休だった。おれは18日の夜から、3夜続けて泥酔帰宅、21日は家でくたばっていた。

18日は、18時半に新宿のベルクで待ち合わせだった。その前にション横の岐阜屋で、やきそばと瓶ビールと酎ハイをやってから行った。最初にO女さんがあらわれた、中に入って注文しようというときに、K女さんも来た。3人で生ビール。S男さんは猫へ直接行くというので、そこで19時過ぎに合流。

猫は、3年ぶりぐらいか。オーノさんを連れて行って、そのあと行ってないが、先日渋谷でオーノさんとあったら、猫が気に入って、ときどき行っていると言っていた。やはり、マスターは女性を連れていくと機嫌がよいとも。この日、おれたちも女性が2人いたから、マスターは大変機嫌がよく、軽口をたたいていた。

壁の棚にギッシリならんだ、変色したビニール袋に入ったL盤。そのL盤がまわるターンテーブル。古い木のカウンターに、どことなく漂うやさぐれ感。何も変わっていないが、煙草を吸っている人が、ほとんどいなかったのが、この店にしてはヘンだった。カウンターにもテーブルにも、直径10数センチ深さ5センチほどのステンレスの「灰皿」があって、たいがい店内は煙草の煙でかすんでいたのだが、この店でも喫煙者は減っているのだろうか。昔の常連ヘビースモーカーは引退していくばかりだし。

ハイボールを飲む。つまみは皿代を払い勝手にとる乾きもの。おしゃべり。O女さんが、どうしてスタイリストになったかの話が、面白かった。M社では、スタイリストを養成するためアシスタントを抱えていた時期があったのだ。いまでは考えられない。話しあれこれ、21時すぎ、腹も空いたしと移動。

近くの陶玄房。S男さんは、ときどき利用しているらしいが、おれは、もしかすると10数年ぶりか。イスが前とちがって座り心地がよくなっていた。清酒と料理。この顔ぶれで清酒を飲むのはキケンなのだ。話もはずみ酒を飲むピッチも早くなりがち。もうあとは、どうなったか、泥酔記憶喪失帰宅だった。

19日は、山﨑邦紀さんからお誘いがあって、山﨑さん脚本、浜野佐知監督の新作の試写会。十条東口に「シネカフェ・ソト」というのがあって、17時半から。浜野監督、初デジタル作品、すでに60分のピンク映画バージョンは『僕のオッパイが発情した理由(わけ)』(R18)として、関西ではエクセスフィルム配給で公開されているそうだが、今回の試写会は、それを90分バージョンに編集したもので、R15の『Body Trouble ボディ・トラブル』なのだ。

より一般映画に近い意欲作。浜野監督らしい戦闘的(あるいは「激怒的」)フェミニズムの立場からジェンダー問題に挑んだ、というべきか。

ひきこもりの童貞青年が、ある朝目覚めたら、チ○ポがない、肉体だけ女になっている。彼(彼女)は、いろいろな人と出会い、化粧することを覚えたり、強姦されそうになったりしながら、性について、男について、女について、考えていく。ファンタジーとコメディが入り混じった、笑える、なかなか面白い展開。

ところどころに、クラゲが入った水槽と、それを前に、前世は男だったが男が嫌でたまらず女に輪廻転生した女と学者らしい男が、ジェンダーやフェミニズムにからんだ蘊蓄を傾ける場面が入る。ゆらゆら、ゆれるクラゲが大写しになったりする。このあたりは、りくつっぽいエロの山﨑脚本ならではか。

この蘊蓄を含め、おれは中学生や高校生に見せたい映画だと思った。とくに、「女」に生まれただけで味わわなくてはならない嫌なこと苦痛については、中高生ぐらいのうちから考えさせておいたほうがよい。それと、セクハラ議員もちろん、この映画で教育が必要なものが、たくさんいる。

試写会には40名ほどの方がいたと思うが、飲みながら、ほぼ全員が感想を述べる機会があった。女性が半分ぐらいだったが、男をボロカスにやっつける場面に溜飲を下げていたようだ。

ピンクバージョンの『僕のオッパイが発情した理由(わけ)』については、9月27日(土)にシネロマン池袋で、監督と女優の舞台挨拶があり、「暴走女子と行くピンクツアー」もある。このR18版は、ぜひ見たい。
http://pinktour.info/cineroman/page4.html

この夜は、試写会場でハートランドを5本と白ワイン一杯を飲み、酔った勢いで東大宮に着いてから一軒入ったが、ほとんど記憶がない。

20日は、タノさんが北浦和を取材するというので、ロケハン案内役を買って出て、16時に北浦和駅で待ち合わせ。コンさんもあらわれる。まずは東口をうろうろ。角打ちの酒屋が一軒あったのだが、廃業していた。

秩父から食べきれないほどじゃがいもが送られてきたので、北浦和クークーバードに助けてもらおうとレジ袋一杯、持って行った。そのクークーバードは、いつもなら16時開店だが、18時からのライブのリハーサルのため通常営業はなし。

まずは、ぎょうざの満洲でビールと腹ごしらえ、西口周辺、県立近代美術館あたりをうろうろし、古本酒場の狸穴へ。狸穴の川上さんは当地育ちだから話ははずむ。北浦和は「東の国立」「東の高円寺」など、狸穴は「東のゴールデン街」か、一軒だけだけど。いろいろな顔を持っていて面白い。それに、東口の商店街にも西口の商店街にも銭湯があるなんて、首都圏のJR駅周辺としては珍しい。

遅くなるほど混みあい、われわれは退散。駅への途中、目にとまった酒場の看板、なにやらよさそうと入ってみたら、ほんとうに安くてうまくてよかった。この場所で45年とか。北浦和にいるときに、なんでここを見つけなかったのだろう。たしか燗酒を飲んでいるうちに泥酔。あとは、わからない。

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2014/07/18

東京新聞「大衆食堂ランチ」21回目、三州屋銀座店。

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今日は、第三金曜日に東京新聞に連載の「大衆食堂ランチ」の掲載日だ。今回は「大衆割烹 三州屋 銀座店」。すでに東京新聞のサイトでご覧いただけます。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2014071802000186.html

この店は、2012年の『dancyu』6月号でも取材している。そのときは1000円の海老フライ定食だった。消費税増税で、1000円だった定食は1050円、900円だった定食は950円になっていた。それでも、ここの定食は、どれにしようかいつも迷うぐらい充実している。

今回この店にしたのは、このあいだからチト気になっていたことがあるからだ。そのことについては、2014/07/10「「東京風」の味って、どんなものか。」でふれているが、少し前に、新橋の魚金本店で飲食をしたとき、その味と盛りが、三州屋と共通するものがあるような気がした。

002とくに、多い盛りについては、それぞれの店のサービス精神と思っていたのでうっかりしていたが、大盛に特徴があった、いわゆる「江戸風」の名残りとしてみると、おもしろいのではないかと思ったのだ。

関東大震災後、「上方料理の東漸、大阪式の塩梅が、東京に浸潤して、所謂「江戸料理」を征服した形になった」といわれる。この上方料理もいろいろだが、庶民的レベルでは、そう簡単に征服されたわけではないだろう。東京の東側に多い、戦前の常盤花壇の流れである「ときわ食堂」系の食堂には、味も盛りも、魚金や三州屋と通じる感じが、けっこうある。そのことについては、あまり考えたことがなかった。

ま、それはとにかく、銀座は、いまや銀座外資本の企業やブランドの街と化した。それはそれは華やかに変身。「庶民の街」という感じだった雰囲気や味覚は、エアコン室外機の熱風を受けながら通る路地に静かに、だけど熱気をはらんで生きている。

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2014/07/15
「東京で売れる味」は「東京の味」か?

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2014/07/17

江原恵『カレーライスの話』から。

『ぶっかけめしの悦楽』をザ大衆食のサイトに掲載する作業をしながら、この本のキッカケになり、おれがライター稼業をやることになってしまった遠いキッカケであり、そして飽きやすいおれにしてはシツコクこだわっている「生活料理」の本でもある、江原恵さんの『カレーライスの話』(三一新書)を読み返した。

江原さんの考えの主なところは、『大衆めし 激動の戦後史』に盛り込んだが、『カレーライスの話』の本文の最後には、その要約ともいえるまとめがある。

ある「おさかな料理コンクール」の事例を検討して、江原さんは「日常レベルの料理文化の水準が、村井弦斎の『食道楽』のころ、つまり明治の昔から少しも変っていない、ということのしるし」を指摘したあと、こう続ける。

…………………………
 明治のベストセラーであった、弦斎のこの本の内容は、要するに料理屋料理の紹介に過ぎない。そしてそれ以来、料理教室も、クッキングスクールも、女学校も、女子大の家政科も、そういう自然発想法的な学習法と考え方を、少しも改めようとしなかった。家庭料理の手本を、料理屋料理に求めることを、いささかも疑わずにいまに至った。
 即席カレーやハンバーグの素が、これだけ広く普及するのは、あたりまえの話ではないか。そもそも、カレー汁スタイルのライスカレーが、北海道で「故里の味」に風俗化したのはなぜであったか。そんな国籍のはっきりしないような、うろんな食物はわが家の食卓にお呼びじゃないよ、と、玄関ばらいをくわせるような、そんな確固とした文化と伝統が無かったからではないのか。無かったからこそ、料理学校もテレビも、料理屋料理を適当にくだいて教えているだけなのだ。
 家庭の、伝承の味を創造してゆく方向で考えるなら、故里の味のライスカレーが、いつのまにか、なしくずしに、ホテル式のカレーライスに取って替わられたのは、日本料理文化と家庭料理の可能性のためには、幸せなことであったとはいえないだろう。タマネギとジャガイモとニンジンがごろごろしているような、本当のカレーではないライスカレーは、近代に向けて発足した日本の風土から生まれた、日本の味の文化であった。そのごった煮的なカレー汁の鍋のなかには、混沌とした民衆的な可能性があった。
 しかし、大都市の高級料理店の高級料理こそ、この世の最高の美味珍味であると信じ、そしてあこがれつづけてきた民衆は、その「貧しさ」の故に、こった煮カレー汁の鍋のなかの可能性の芽を、みずからの手で摘み取ってしまったのだ。しかも、資本主義産業がその手助けをしてくれた。手助けをしてくれたばかりでなく、わずか数十年の間に、その「産業」が主役になってしまったのだ。
 ほんらい、食卓の上の主役は、国民―民衆であり、民衆の創造した文化でなければならない。このことはしかし、われわれの食卓の上から「産業」をすべて排除すべきだ、という議論にはつながらない。現代日本の国家的要件である工業化社会―産業社会を否定することは、われわれ自身を否定することになってしまうからだ。考えるべきことは、「産業」が主役に化しつつある、いまの食卓の現実を、どんな姿に改めればよいか、そのためにはどんな方法があるのか、等々の課題であろう。
…………………………

おれはカレーライスにみられる「可能性」は、まだ失われていないと思うが、いまではカレーライスより野菜炒めのほうが、例としてはわかりやすいと考え、野菜炒めにみられる、カレーライスにみられた「可能性」(つまり生活料理の可能性)について、『大衆めし 激動の戦後史』では、かなりページ数をさいた。

しかし、ここで江原さんが指摘している課題は、なかなか大変なことなのだ。

何度もトークでも話したし、どこかにも書いたが、日本には、どんなにうまい料理屋の料理を食べても、やっぱりおれのおふくろが作ってくれたカレーライスが一番うまい、あるいは、おれが作った野菜炒めが最高だと、そう胸を張ることなく自然にいえない不幸がある。この不幸の根は深い。

そして、あいかわらず、一方的といってよいほどの、産業や企業や名店だの名人だの達人だの側からの、「優れた」「いい」情報や知識の洪水のなかで過ごしている。

不幸の根は深いがゆえに、産業や企業や名店や名人や達人とか側からの「優れた」「いい」情報や知識の洪水のなかから、とりわけ「優れた」「いい」情報や知識を得て、優越感や幸せを感じる、ということでもある。

まったく、何も変わっていないのだ。

なるほど、村井弦斎のころより、はるかに「優れた」「いい」モノは手に入るようになった、それこそ産業や技術の発展のおかげもある、だけど「日常レベルの料理文化の水準」の大勢は、変わっていない。それは「料理文化」以外の「文化」にも通低していることがあるように思う。明治に再編された前近代的な桎梏というべきか。

「主役」は、誰なのか。

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2014/07/16

『ぶっかけめしの悦楽』の第4章まで掲載。

ザ大衆食のサイトに、『ぶっかけめしの悦楽』をスキャンしてPDF版で掲載する作業は、コツコツ続いている。おれは、単純で地味なコツコツ仕事が性にあっているのだな。

今日は以下の章を掲載した。これで約3分の1まで終わった。ということは、あと3分の2、残っている。


第3章 不完全なカレーライス

(1)かけめしの記憶があった
(2)無視されたかけめし

第4章 仰天のかけめしパワーを究める

(1)ヨロンどんぶりのこと
(2)目玉焼定食と目玉焼丼のこと
(3)複合融合型のこと
(4)濃厚な牛肉丼のこと
(5)大根おろしめしのこと
(6)田舎流かけめしのこと
(7)猫めしの快感と悲哀のこと


いやあ、ますます面白くなってきた。この本は、けっこう面白いなと、あらためておもう。この作業を始めてよかった。

第4章は、具体的なぶっかけめしの数々をあげながら、「ボクタチの美味追求には、二つの型がある」「かけめしの美味追求は――複合融合型。定食の美味追求は――単品単一型」「三大めし文化」などに言及しながら、カレーライスの本質にせまっている。

こちら…クリック地獄

当ブログ関連
2014/07/14
「幻の奇書」といわれる『ぶっかけめしの悦楽』(四谷ラウンド、1999年)のWeb公開を始めた。

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2014/07/15

「東京で売れる味」は「東京の味」か?

2014/07/10「「東京風」の味って、どんなものか。」の関連になるが、「東京で売れる味」という評価の仕方はある。

おれが文を担当した、北九州市の『雲のうえ』5号「食堂特集」には、あるうどん屋について、こういう記述がある。

「うどんだけでも「名物」といえる存在だ。すでに「有名店」になりそうな気配もある。だけどあるじは「うちのポリシーは崩したくない」と言う」

これは少々もったいぶった表現で、これでは「「有名店」になりそうな気配」については、読者にはよくわからないだろうと思いながら書き、凄腕の編集さんのチェックもパスして生き残った。

どういうことかというと、このときは、ロケハンで50店ほど訪ね、最終的にその半分ぐらいを取材し掲載したのだが、ロケハンで初めてそのうどん屋で食べたとき、すぐピンと「これは東京でも売れる味だな」と思った。かつてのプランナー時代のクセで、「うまい」「まずい」ではなく、そういう判断をするクセがあるのだ。

と、あとで気がついたのだが、その時は、それがどうしても気になり、本番の取材のときに、ご主人に、「どこかのプロデューサーから、東京に出店の話がありませんでした?」と聞いたのだ。すると、ご主人は、驚いた顔で、「よくご存じですね、ありましたが、うちのポリシーは崩したくないので断りました」といったのだ。

いや、おれは、この味なら東京で勝負できると思ったもので、と、そのとくに汁について話したのだが、それでわかったことは、ご主人のどちらかの祖母が関東出身だったのだ。しかし、だからといって、この味は、この地元でも人気であり、これを「東京の味」といえるほどの根拠にはならない。それに、「味」を、「場所の味覚」にしてしまうのも問題がある。それでまあ、上のように書いておいたのだが。

日本全国を食べ歩き、それを趣味ではなく、出店や商品やメニューの開発の仕事にしているひとたちがいる。

おれは、そこまでやらなかったが、イチオウ、その関係の仕事に関わっていて、とくに80年代後半バブルのころは、予算もあることであり、昨年亡くなられたその世界では実績もあり高名なプロデューサーの方と一緒に仕事をし旅もし地方の方の相談にものった。

地方の方は、「これを売りたい」という、するとそのプロデューサー氏は女性であるが、「どこで売りたいの?東京で売りたいのなら、この味を、もう少しこうしなきゃダメよ」という言い方のアドバイスを、よくするのだった。それがもうすごく適切で、驚いた。なるほど、東京で売るには、こうでなければならないのかと勉強になった。

彼女は数々の有名店を手掛け、自分でも直接経営をしていたが、原宿の店は、彼女亡きあとも残っている。

しかし、やはり、それは「東京で売れる味」ではあるが、「東京の味」であるかどうかは疑わしい。東京は人口が多すぎるほどで、さまざまな味のマーケットが存在しうるからだ。でも、このセンをクリアしないと商売としてはやりにくい、という味はあるようだ。言葉では説明しにくいのだが。

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2014/07/14

「幻の奇書」といわれる『ぶっかけめしの悦楽』(四谷ラウンド、1999年)のWeb公開を始めた。

きのう、第2章までアップした。古いスキャナとソフトなので、けっこう手間がかかるが、なるべくはやく作業を完了させたい。

こちら…クリック地獄

昨年10月発売の『大衆めし 激動の戦後史』(ちくま新書)は、おれの本としては順調に売れているようだが、この本は、内容的には、『大衆食堂の研究』や『大衆食堂パラダイス!』より、『ぶっかけめしの悦楽』や、それに大幅加筆した『汁かけめし快食學』との関係が深い。

というのも、『ぶっかけめしの悦楽』と『汁かけめし快食學』は、『大衆めし 激動の戦後史』にも書いた江原恵さんの『庖丁文化論』や「生活料理」に関する著述を、汁かけめしとカレーライスに落とし込んで書いてみようと意図したものだからだ。

どこかに書いたと思うが、そもそもおれがこういう本を書くキッカケは、『大衆めし 激動の戦後史』に書いたように江原さんと生活料理研究所を開設し、その一環で、江原さんの『カレーライスの話』(三一新書、1983年)をプロデュースしたからで、1991年ごろだったかな?編集さんから、内容が一部古くなったので改訂版を出したいのだが、こんどは江原さんを監修にして、おれに書いてもらえないかという話しがあったからだ。

それは当初「汁かけめしとカレーライス」という感じで構想されていたが、その間に、おれが気になっている大衆食堂の話を編集さんにしたことから、編集さんが興味を持ち、そちらを先にしようということになった。それで生まれたのが『大衆食堂の研究』(三一書房、1995年)だった。

その後「汁かけめしとカレーライス」の原稿を仕上げ、初校が出るころになって、版元で「お家騒動」が勃発、宙に浮いてしまった。それを『ぶっかけめしの悦楽』として出版にこぎつけてくれたのが、四谷ラウンドの田中清行さんとフリー編集者の堀内恭さんだった。

とにかく、『大衆めし 激動の戦後史』は、どちらも絶版の『ぶっかけめしの悦楽』『汁かけめし快食學』と、内容的に深い関係にある。

今回、Webで公開しようと思ったのは、『ラーメンと愛国』『フード左翼とフード右翼』の速水健朗さんとトークをやることになって、そこで速水さんから、『ぶっかけめしの悦楽』からヒントを得たこと、「カレーライスは日本の汁かけご飯の延長として考えるべき」という論が展開してあり自分の中でパラダイムシフトが起こった、『ラーメンと愛国』を書く際に参考にした、などの話があって、おれも当ブログで紹介したし、ツイッターなどで知った方から、どのていど本気かはわからないが「読んでみたい」といわれる機会が増えたからだ。

それと、先日、2014/06/18「「とんちゃん日記」の『大衆食堂パラダイス!』『大衆食堂の研究』の紹介に、おどろきうれし緊張した。」に書いたように、いまでも『大衆食堂の研究』を新鮮に読んでくださり、Webに公開してあるHTML版を紹介してくれる方がいるからだ。

Webに載せておけば、読んでくれるひともいるだろう。『ぶっかけめしの悦楽』は、いまでも、いや、いまだから、ますますおもしろい。

01001「ニッポン人なら、忘れるな!深く食べろ!」「味噌汁ぶっかけめしから/丼物・カレーライスまで、/戦国期に始まる痛快味のドラマ。時代が動くとき、/汁かけめしを食いながら上昇する/アクティブな民衆がいた。/そしていま時代が動くとき、/かけめし再発見」と、腰巻にある。

『ぶっかけめしの悦楽』は1999年11月の発売。東陽片岡さんの表紙イラストがはまりすぎで、異臭フンプン、女性は手が出せない、なーんていわれたが、おれは2001年2月に始めた「ザ大衆食」のサイトに、こんなことを書いている。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/siryo/bukkakemeshi_etsuraku.htm
………………………………………

うん、たしかにクサイ本だ。東陽片岡さんの表紙もクサイが、中身もすごくクサイぞ。だが大衆というのは、生なましくて猥雑でクサイのだ。アジもサンマもサバもクサイし、納豆だって焼酎だってクサイぞ。もちろんおれだってクサイぞ。ま、バターだって、ワインだってクサイのだが。

とにかく、だから、大衆食の本はクサイのが自然なのだ。いろいろ知的な方面からは絶賛をあびて、椎名誠さんが『本の雑誌』で“異端の傑作本”と評したり、『読売新聞』からは“「うまいものは、うまい」という、今どきのグルメが持たないまっとうな「思想」がある”というお言葉をいただいたり、こういう本とは関係なさそうな『日経ビジネス』も“日本の食文化の特徴をとらえた会心作だ”ときたもんだ。北海道新聞、西日本新聞、週刊文春、日刊ゲンダイ、サライからエロ本といわれるレモンクラブなどなどなど、ドえらく話題がはずんだ。

しかし、ちかごろの焼酎クサイ大衆は本を読まないし、本を読む大衆は歯の浮くようなキレイゴトが好きでクサイと逃げるし。アハハハ、「下品だ」と怒ったひともいるな。ブッ、屁一発かけちゃお。

明治以後の高尚趣味の文化のなかで卑下され失われた食文化の歴史を発掘し、その流れにカレーライスと丼物を位置づけた名著である、とでも評価してほしいなあ。

いろいろ話題になったが、そのわりには売れなかったことでも有名。→→→絶賛の紹介書評集

…………………………

あははははは、愉快、ユカイ。で、絶賛の紹介書評集のページでは、こんなことを書いている。
http://homepage2.nifty.com/entetsu/gebukkake.htm

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『ぶっかけめしの悦楽』は、発売以来、新聞や雑誌でけっこう話題になった。しかし、そのわりには売れんぞ。ま、みんな貧乏人だからしかたないか。

明治以後の「高尚趣味」の偏見と横暴のなかで失われた汁かけめしの歴史を発掘し、その流れにカレーライスを位置づけた。料理とは何か、料理の歴史とは何かの、本質にふれることがふんだんに下品にのべられている。
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「上品」になろうなんていう「向上心」は皆無なおれ、下品に開き直っている。キレイゴトとは寝ない、うっかり読むとケガをする下品さ。がはははは。『大衆めし 激動の戦後史』は、これまでのおれの本にはないほど女性読者がいるのだが、どうか女性読者も恐れず、『ぶっかけめしの悦楽』をごらんになっていただきたい。いや、うわべだけの連中が恐れるだけですから。

この書評や紹介を、あらためて読むと、この本は、まさにいまの本だなあと思う評がある。読売新聞の「記者が読む」欄の「酊」さんという評者は、知るひとぞ知る方で、めったにほめないそうなのだが。ここにも転載しておこう。料理と思想、「排除」や「差別」は、ますますコンニチ的課題だ。

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読売新聞 1999年11月21日 記者が選ぶ

海苔(のり)をモンゴルで食べて「黒い紙なんか食うな。山羊(やぎ)じゃないんだ」と諭された。ドミニカでカップラーメンを食ったら「スプーンを使わないのは下品」と、たしなめられた。"カルチャー食(ショック)"は、しかし国内でも体験する。新婚時代、みそ汁を飯にかけたら蔑(さげす)みの視線に遭い、深く傷ついたものだ。<ニッポン人なら、忘れるな! 深く食べろ!>という帯の惹句(じゃっく)に、積年の恨みを晴らせそうだと直感した。<熱く、かけめしを思いおこそう>で始まる奇書のテーマは、<インドを御本家とする疑惑にみちたカレーライス伝来説>を根底から覆すことにある。成否は読者の評価に俟(ま)つとして「うまいものは、うまい」という、今どきのグルメが持たないまっとうな「思想」がある。飯に汁をかけて食う行為が、異なる者に対する「排除」や「差別」と対極にあることにまで思い至った。留飲が下がったので今回はチト褒めすぎたか。(酊)

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2014/07/12

ひさしぶりに渡辺勝のアルバム「ミナトの渡辺勝ショウ」は、ほんとーに、すばらしい!

きのうは、浦和のアスカタスナへ行って、「ミナトの渡辺勝ショウ」を買った。数日前に、ツイッターを開いたら、ちょうどアスカスタスナのますやまさんが、「ミナトの渡辺勝ショウ」が入荷、とツイートしていたので、すぐ予約しておいたのだ。

渡辺さんが、野毛のあたりで、ライブをやっているのは、知っていた。気になっていたのだが、近頃は、入谷のナッテルハウスで渡辺さんがライブやるのにも、出かけていく根性がなくなっているのに、横浜までは、とても決心がつかなかった。

そのライブから、このCDがまとまったのだ。これはもう、ゼッタイに買い、と決めていたら、なんと都合のよいことに中古レコード店のアスカタスナさんでも扱っていたのだ。

いやあ、ひさしぶりに渡辺さん、やはりすばらしい。今日は3回ぐらい聴いて、いまも聴きながら、書いている。おれが好きな「白粉」も「君をウーと呼ぶ」も収録されている。

歌声もちろん、ギターもピアノも自由自在。一段と「磨きがかかった」っていう軽い感じではなく、一段と腰が据わってきた、というべきか。奥行きと広がり…どっしりと、そして霧のように漂う、存在感。

こういうライブをやってCDにまとめた野毛も、すばらしいね。これぞ、港町横浜のエネルギーか、CDを聴いていると野毛が彷彿、行きたくなってしまう。

プロデュースは、三沢洋紀さん。CDに収録の曲のライブの会場となった店は、2013年3月8日「喫茶みなと」、同年12月6日「日ノ出町シャノアール」、2014年3月7日「旧バラ荘」。

三沢さんは、こう語っている。

「ディープYOKOHAMA、漆黒の酒場にて、永遠の友「酒」と一緒に、僕は勝さんの歌が聴きたかったんだ。」

「揺らめくろうそくのような歌やピアノ、時に激しくつま弾くギターの音や、勝さんの存在感や息づかい、それらと酒場の相性はバッチリで、白と黒の水墨画のようなブルースアルバムが生まれたんじゃないかとおもっている。」

「酒場にて、はかなくてやさしいブルース/うたのドキュメンタリー。」

まさに、このとおり。

渡辺勝さんのライブに行ったのは、いつが最後か、当ブログで調べてみた。とにかく、東大宮に引っ越して、ますます都内が遠くなって5年のあいだは行ってない。どうやら、これが最後だったようだ。
2007/02/27
「入谷千束ウロウロのち渡辺勝に酔いしれる」

北浦和クークーバードあたりでライブをしてくれると、行きやすいのだがなあ。

ってことで、きのうはアスカタスナから歩いて北浦和クークバードへ行ったのだ。すると、クークーバードのコウヘイさんも、すでにこのCDを入手していた。アスカタスナのますやまさんのツイッターを見て、すぐチャリで買いに行ったのだそうだ。

きのうのクークーバードはライブのない日で、飲みながら近所のお客さんたちとのんびり話しをした。

そうそう。先日、クークーバードでは、原田茶飯事さんのライブをやったそうで、コウヘイさんが、原田さんがおれのことを知っていて、しかも一緒にトークライブをやったことがあるなんて、と驚いていた。どう考えても、トシだけじゃなく、キャラクターも正反対という感じだし、2人で一緒になんてありえないですよね、と。ははは、そうなんだよねえ、そこがおもしろいんだよね。こんどクークーバードで原田さんがライブをやるときは、行こう。

生ビール2杯とキンミヤをロックで3杯飲んだら、けっこう酔って、それから狸穴へ。

狸穴も、にぎわっていた。何度か会っているエチゴ出身の20歳代の青年M男さんもいて、あれやこれやおしゃべりしながら、ホッピー。かれは希望の職場ではなかったが、希望の職種について、元気よく過ごしている。気になっていた同郷のH女さんは、この春大学卒業後、派遣の仕事をやりながらの就活だったが、さいたま市内の会社に決まって勤めだしているとか。希望の職種ではなかったが、地方出身者は、帰れないかぎり、まずはこちらでの生活を安定させる場所が必要だからなあ。

これからの若者の人生、これからがあまりないおれの人生とか、ようするに泥酔記憶喪失帰宅だった。

ブルースだよ人生は。

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2014/07/10

「東京風」の味って、どんなものか。

よく「関西は薄味で、関東風は濃い」といったりする。例に、醤油があげられたりする。関西は薄口で、関東は濃い口だというのだ。みそも、関西は白みそで、関東は赤みそ、という例をあげるひともいる。とにかく、それは、「日本料理」が基準になっているようだ。チョイとおかしいこともあるのだが、ま、通説としては、そうであるとしておこう。

きのうもふれた、松崎天民の『東京食べ歩き』(誠文堂、昭和6年)には、こういう記述がある。一部新漢字で引用する。

「この上方料理の東漸、大阪式の塩梅が、東京に浸潤して、所謂「江戸料理」を征服した形になったのは、大正末期からのことだった」

これも通説になっていて、「大正末期」というのは、関東大震災がきっかけとされているのだ。このばあい、料理の塩梅だけでなく、盛りつけと提供の仕方、部屋の装飾や接待サービスなども関係するのだが、味覚については、どこがどうちがうのか、想像しかできないし、想像するのも難しさがつきまとう。

というのも、『東京食べ歩き』によっても、当時の人たちですら、同じ汁についていう場合でも、「少い甘い方じゃないか」というひともあれば「いや、あれは濃くて辛い方だよ」という始末なのだ。味覚そのものが複雑多様なうえ、評価の基準も、その表現も、ずいぶん違う。

もともと関西人の松崎天民が『京阪食べ歩き』のあと、仕事の都合で東京で暮らすようになって、ここに書いていることから察すると、ようするに、「甘い」「辛い」「濃い」というあたりに特徴があるようだ。

それと、あらためて『東京食べ歩き』を読んで気がついたのは、一皿の盛りの量が多いというのも、「東京風」らしいのだ。

ってことで、思い浮かべたのは、新橋と銀座の有名店だ。どちらも、「大衆割烹」の店といってよいだろう。片方は、実際に「大衆割烹」を看板にしている。とにかく、板前の料理なのだ。そして、煮付けの汁は、「甘い」「辛い」「濃い」というあたりに特徴があり、一皿の盛りも多い。

大衆食堂のばあい、だいぶ以前は、みそ汁の味に特徴があった。赤みそ辛口のみそ汁は、いわゆる下町に多かった。どじょう鍋の汁にしても、駒形より飯田屋のほうが、「江戸風」だというひともいた。

とにかく、「上方料理の東漸」といっても、東京風が一挙に消えてしまったわけではない。それから、東京風の味ということでは、「日本料理」以外の味覚が、かなりの影響をおよぼしている。味覚は、店から客へ一歩通行ということはなく、客から店への影響もある。

とどのつまり、「東京風」って、なーに、ってことなのだが。その基準がなくて、東京の味覚の評価は、どうするのってことなのだが。

もう一度、新橋と銀座の、その店からさぐってみると、何か発見がありそうだと思い出した。ここは、「高級割烹」ではなく、大衆店だからね。

しかし、松崎天民は、公平な考えを持っていた方だったのだなあ。どうして、この方のような「食味評論」ではなくて、芸術家気取りの魯山人なんぞをモデルにするようになったのだろう。ということも、興味あることだ。

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2014/07/09

街区丸ごと消費空間のカタマリになる「銀座」。

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きのうは銀座へ行った。近年銀座は行くたびに変わっているので、べつに新しいビルができようが、新しい店ができようが、とくに何も感じなかったが、きのうは銀座5丁目の交差点ニューメルサの前に立ったとき、少し感慨があった。

というのも、その角にあった大きな松坂屋のビルが消えて更地になって、その向こうに銀座6丁目の裏通り、かつては「銀座東6丁目」といったあたりのビルまで見通せたからだ。6丁目の銀座通りに面した建物は、そっくり無くなり、銀座6丁目交差点のところにある茶色のライオン銀座まで見通せるのだ。こんな景色は、めったに見られるものではない。

おれが臨時雇いを転々としたのちに、1965年の5月ごろから正社員として勤めだした会社は、この5丁目の交差点、つまり松坂屋の角を昭和通りの方へ向かって、3本目ぐらいを右へ行ったところにあった、小さな四、五階建てぐらいのビルにあった。住所は、いまでは銀座6丁目だが、当時は銀座東6丁目だった。いまは、そのビルも町名もない。

その3本目ぐらいを曲がる手前左側に、大衆食堂があった。店の看板も暖簾も記憶にない。たぶんなかったのではないかと思う。もしかすると、2間ほどの間口のガラス戸に、何か書いてあったかもしれない。当時は珍しくなかったが、愛想のないただのがらんどうの空間、打ちっぱなしのコンクリートの床の上に、パイプの脚のテーブルとイスをテキトウに置いただけの食堂だった。よくナス炒めを食べたなあ。たぶん、安かったのだ。

そのころ、表の銀座通りで、松坂屋は最も大きいほうだった。まだ、間口の狭い4階建てぐらいのビルが何軒もあって、こちらのほうが銀座通り路面に占める面積は大きかったのではないかと思う。銀座通りの一本裏は、路地に木造の建物がひしめいていた。そうそう、ステーキの銀座スエヒロ、いまはどうなっているのか、古い渋い木造だった。生活感も漂っていた。

このあたりの生まれ育ちの人は中央区立泰明小学校を出ている。その卒業生で、銀座の「旦那」をやっていた何人かの方と、70年代に少し付き合いがあった。みな年輩で、1人は表通りの有名店の社長だった。老舗の店をはっていても、銀座というのは庶民的な人々の町だった。庶民的な気風があった。

いつごろから、大きく変わったのだろう。バブルの頃は、まだそんなに大きな変化はなかったように思うが。バブルの「成金」は、銀座より「赤坂」や「六本木」だったような気もする。銀座は、敷居が高かったのか?

018とにかく、あとで考えると、5丁目の交差点から4丁目交差点のほうに見える「銀座コア」の開業が、銀座のファッション化の端緒のように思える。

銀座からは「町」という感じが失われつつある。巨大な消費空間のカタマリになった感じだ。まだ、この6丁目再開発は、とっかかりかもしれない。近頃の再開発は、八重洲や京橋あたりの再開発を見ても、街区のなかの小さな通りをつぶしてビルに併合して、街区丸ごとビルにしてしまう。そして、巨大な消費空間のカタマリが生まれる。その端緒は、「銀座コア」だったといえるだろう。ただ、コアビルのころは、そこに、銀座の商売人たちの希望や意思があったように思う。

いまは、どうだろうか。

「『銀座六丁目10地区第一種市街地再開発事業』 2016年11月、ワールドクラスクオリティの商業施設が誕生」
http://www.sumitomocorp.co.jp/news/detail/id=27806?tc=bx

ようするに投資対象と、投資回収の消費の「まち」でしかなくなっているのだ。

いまや、銀座通りの路面店は、グローバルなブランドが、圧倒的にシェアしている。銀座ブランドと、それを育ててきた銀座の商売人たちは、グローバルなブランドに場所を明け渡さざるを得ないのだろうか。銀座は、上海や、香港などとも競争しながら、生きていかなくてはならないのだろうか。おれの知り合いの旦那たちは、みな逝ってしまった。

それはそうと、おれが、その会社に勤めていた当時、銀座通りの間口の広い店で印象に残っていた一つに「小松ストアー」がある。これを、ネット検索したら、意外なことを知った。

この店、前身は、「松本楼」だったのだ。松崎天民の『東京食べ歩き』(誠文堂、昭和6年)にも出てくる戦前の有名店だ。

「小松ストアーの名前の由来を知っていますか?/ 創設者の名前は小坂武雄、小松ストアーは、本当は小坂ストアーになっていてもおかしくなかった……。では、なぜ小坂ストアーではないのか。小松ストアーは、そもそもの起源を飲食店に持ちます。その飲食店の名が「松本楼」といいました。では、松本ストアーであっても、よかったのではないか。」
http://www.ginza-komatsu.co.jp/blog/archives/109

ウィキペデイアによれば、「10円カレー」で有名な現在の日比谷松本楼は、「1903年に東京市が現在の日比谷公園を開園するにあたり、銀座で食堂を経営していた小坂梅吉が落札し、日比谷松本楼として6月1日にオープンした」と。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E6%A5%BC

(7月10日追記)
銀座の「ファッション化」は銀座コアとメルサ(現在のメルサ2)あたりからのような記憶があるので、ウイキペディアで調べてみた。

1969年(昭和44年)8月、銀座インペリアルビル株式会社として地元地権者11名の共同出資により、銀座インペリアルビル管理の全権委任を受けた受託管理会社として設立。1971年(昭和46年)「インペリアルビル」の名称はビル名公募により「銀座コア」にビル名を変更し11月3日にオープン。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E5%BA%A7%E3%82%B3%E3%82%A2

1971年(昭和46年)10月:東京都中央区に「東京メルサ(現在のメルサ銀座2丁目店)」をオープン。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%82%B5

銀座コアは地元地権者によるものだが、メルサは名古屋の名鉄グループの進出。

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2014/07/08

大衆めしの「三大条件」について考えている。

大衆めしを料理文化レベルで考えると「ありふれたものをうまく」ということになるが、食事レベルだと、どうなるだろうかと考えている。「気取るな力強くめしを食え」を、もう少し分解してみると、どういう条件が必要か、ということなのだが。

ロマン・ロランは何かの本で、大衆演劇の主な条件について「歓び」「力」「知性」をあげていた、というメモがあった。何の本だったかについては、メモが残っていないが、これはヒントになりそうだ。

「歓び」は、そのままでよいだろう。生きる歓び、食べる歓び。

「力」は、「気取るな力強くめしを食え」に通じる。しかし「力」という表現は、少し「物理的」すぎる感じがする。「力強さ」でもよいが、『大衆食堂の研究』では、「元気」を強調していたので、「元気」にしてみよう。生活感覚としても「元気」がよいようだ。

モンダイは、「知性」だ。大衆めしに「知性」は必要ないわけではないが、「知性」ではチョイとインテリの食事という感じになってしまう。それに「知性」というのは、「本能」より役立たずのこともある。とくに食欲においては。それで悩んでいる。「工夫」ならどうだろう。生活的ではあるが、リクツっぽさが残る。それに、どちらかというと料理レベルのことになる。

東京新聞に連載の「大衆食堂ランチ」では、なるべくお店の方の話しに頼らないようにして、「食べる」気分や感情や理性などの側から判断し書こうとしている。そのばあい、「工夫」を考えることはよくあるが、料理に対するお店の工夫になってしまう。

「ありふれたものをうまく」は、料理レベルと食事レベルが統合されているのだが、「うまく食べる」については、もっとよく考えなくてはならない。

べつに無理やり「三大条件」にする必要はないが、「三大」のほうが、語呂がよいからなあ。

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2014/07/07

「アリギリス」について、考えた。

アリギリスという言葉は、いつ誰が使いだしたのだろう。調べてみたが、わからない。たしか、バブルのころ、「日本人は働き過ぎ」なーんてことがいわれ、「アリギリスたれ」ということが盛んにいわれるようになった記憶がある。

Webの日本語俗語辞典によれば、「アリギリスとは、働くばかりでも遊ぶばかりでもなく、仕事も遊びもする人のこと」で、「アリギリスとは「アリとキリギリス」というイソップ寓話に出てくるアリとキリギリスを合成した言葉である。物語でアリは冬の食料に困らないよう、ひたすら働き続け、キリギリスは夏場歌を歌って遊び、冬に入って食料に困り、アリのところへ助けを乞いに行く。アリギリスはそんな働くだけのアリでも、遊び呆けてばかりのキリギリスでもなく、仕事も遊びも一所懸命するスタイル及びそういったスタイルの人を意味する。また、アリギリスの究極のスタイルとして、仕事が遊び・遊びが仕事といった姿勢・考え方を挙げる人もいる」だそうだ。
http://zokugo-dict.com/01a/arigirisu.htm

そこには、年代に「1989年」とあるから、やはりバブルのころからいわれだしたのだと思われる。浮かれた頭で考え出した、消費的な言葉のような気がする。

人の生き方をアリとキリギリスに喩えるのは、ずいぶん乱暴な話だが、正反対の二項をたて、モノゴトを単純化させることは(これを「わかりやすい」と思うひとも多いが)、よくやられている。だけど、現実は、そうは単純ではない。だから「アリギリス」のような折衷が造語される。

仮にアリとキリギリスのように違う生き方があったとしたら、アリかキリギリスか、ということではない。「文化やライフスタイルの違いは、衝突や摩擦の原因であるとされる」が、「和解や共存などというものは、一朝一夕になるものではない。しかし、異なる文化の出会いの中に、次の時代をつくりだす創造の源が見つかるのである」

と、立教大学法学部教授の小川有美さんは、『TASC MONTHRY』7月号の随筆「アリとキリギリスの出会い」で述べている。

その書き出しは「ヨーロッパに亀裂が走っている」だ。つまり。例の「ギリシア危機」の話だ。ギリシアはキリギリスに喩えられ、ドイツなどは「勤勉・禁欲的なアリ」に喩えられた。「そしてキリギリスとアリは結局一つのユーロ圏という制度には一緒にいられない、などとさえいわれたのである」

「しかし、欧州統合に詳しい国際政治学者の遠藤乾氏は、どっこいEUは生きている、と言う」。遠藤乾氏がいうまでもなく、実際に聞くヨーロッパの話は、ゴタゴタしているが、ゴタゴタしているのは昔からのことで、単純にアリかキリギリスかでもなく、アリとキリギリスだとしても、水と油ではない。

で、小川有美さんは、「異なるライフスタイルが出会うことは、すぐれた制度をつくること以前に大切なことかもしれない」と、EUの元になった「1950年のシューマン計画の生みの親といわれる二人」の話をし、「映画になったデンマークの小説『バベットの晩餐会』の話をする。

「亀裂」や「分断」や「排除」が露呈している日本の状態もふまえてのことに違いない。

そして、「和解や共存などというものは、一朝一夕になるものではない。しかし、異なる文化の出会いの中に、次の時代をつくりだす創造の源が見つかるのである」ということなのだ。

その通りだろう。だけど、多様な文化やライフスタイルを、「理解」以前に認めることも難し日本人は、少なくない。それは、昨今の指導的な政治家や天下のマスコミの言論を見るだけでも、あきらかだ。

それはともかく、『バベットの晩餐会』について、小川有美さんは、このように述べている。「この物語は、単なる食べものをめぐるファンタジーであるだけではない。北欧の歴史のなかで、都市と農村の隔たりはあまりにも大きかった」「だが農村と都市の人々の出会い、どちらの生活をも大事にしようとする対話によって、北欧独自の平等な民主主義や福祉国家が誕生した」

日本でも、都市と農村の隔たりはあまりにも大きい。「アリギリス」という言葉は使われてきたが、「農村と都市の人々の出会い、どちらの生活をも大事にしようとする対話」は、どうだろうかと考えた。

「農業ブーム」や「田舎ブーム」などがいわれたりしたが、あくまでも「都会人」からの目線ではないか。極端な東京一極集中も、人口減の中ですすんでいる。

どちらが「上」か「下」かの前近代的な思考から、なかなか自由になれない。多様性を受け入れられない。「アリギリス」という言葉は、そんな都会人の消費概念のように見える。

いま日本では、国際関係だけでなく、生活保護や子育て、さまざまな生活のための制度までゆらいでいる。カネの問題もあるが、「亀裂」や「分断」、その底にある、民主主義や文化的な問題と向き合わなくてはならない事態になっている。

最後に、BIGMAMA「アリギリス」の歌詞、です。
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND161360/index.html

『TASC MONTHRY』7月号には、赤川学さん(東京大学大学院・人文社会系研究科准教授)による「社会問題を批判的に読み解くために」も載っていて、なかなかおもしろい。

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2014/07/05

台湾にもある大衆食堂パラダイス。光瀬憲子『台湾一周!安旨食堂の旅』は快著だ!

002去る6月15日発行の『台湾一周!安旨食堂の旅』(光瀬憲子著、双葉文庫)は、発行日頃いただいたものだ。

どうも紹介が遅れて、すみません。近頃悪いクセで、「飲食店ガイド」らしいと見ると、しばらく手が出ないで机の上に置いてあったのだが、読み始めてみたら、おれのトキメキ盛り上がりは尋常じゃない、なんて視線も文章も軽やかな(それは思考の軽やかさでもあるが)、いい本だろうと思うのだった。

著者のプロフィールには、「1972年、神奈川県横浜市生まれ。英中翻訳家、通訳者。米国ウエスタン・ワシントン大学卒業後、台北の英字新聞社チャイナーニュース勤務。台湾人と結婚し、台北で7年、上海で2年暮らす。2004年に離婚、帰国。台湾とは無縁の生活を送っていたが、2007年に再訪し、魅力を再認識。以後、通訳や取材コーディネートの仕事で、台湾と日本を往復している」

ご本人も「フットワークのよい人生」を送ってきたようだが、この本の旅も飲食もフットーワークがよく、その旅と飲食の心地よさが、かまえるところのない著者の視線と文章から伝わってくる。

おれは1980年代に、台湾へは観光で1度と仕事で2度ほど行って、もうたいがい記憶も失われてしまったが、とにかく台湾の飲食は、うまくて安くて楽しかった。

本書は、第一章 台北・基隆、第二章 新竹・北埔、第三章 鹿港・彰化・西螺・嘉義、第四章 台南、第五章 高雄、第6章 台東・花蓮・宜蘭・礁渓温泉、と東西南北を網羅し、番外編 台湾「大衆酒場」入門、まである。

タイトルのように舞台は大衆的な安旨食堂で、台湾は日本の九州と同じくらいの面積だが、料理や食べ物の種類は、とても多い。そうそう、トツジョ思い出したが、かつて台湾でお世話になった通訳の湯(トウ)さんは、おれと同じくらいの齢で、日本の大学を出ていたのだけど、「日本より種類が多いかも知れない」といっていたな。それは、著者も書いているように「台湾は小さな島の面積からは想像もつかないほど、地形も文化も変化に富んでいるから」だろう。

今年の2月ごろ、瀬尾幸子さんとおれの共著『みんなの大衆めし』が台湾で翻訳版が出たのだが、そのとき「なぜ、いま台湾で翻訳本を?」と聞いたら、いま台湾では日本の大衆食堂や大衆酒場のような大衆めしが人気なのだとか。

本書にも、「名物」といってもよい屋台や夜市や朝市から市場の食堂まで、どっさり載っている。写真も、うまそう。それに量も、大衆的だ。

「うれしなつかし、カレー焼きそば」は、「古都」といってよいだろう、基隆が舞台だ。「こちらは夜市ではなく、ふつうの商店街といった風情で、文房具店や衣料品店など、基隆らしい古びた店が並んでいる。ほどほどに密度が高くて、ほどほどにおしゃれだけど、今ひとつ残念なセンス。基隆はそんな雰囲気をもつ中途はんぱな街だ」

「2階のベランダの格子と薄緑色の窓枠が日本時代を連想させる」建物があった。小さな焼きそばの看板、閑散とした通りに、そこだけ異様な人だかり。そこで著者は、わかりやく書けば「ミックスカレー焼きそば」を注文する。

「待つこと10分で運ばれてきたカレー焼きそばは想像以上にデカイ。75元という値段のわりにはデカ過ぎるのではないか? 日本だったら「2人分です」と言われそうな量である。具の種類がまたすごい。「ある材料を全部入れてみました」と言わんばかりである。目に見えるだけでも、薄切り豚肉、豚レバー、竹輪、エビ、イカ、肉団子、アサリ、タマネギ、レタス、セロリ……。何の脈絡もない。麺はうどん並みに太い」

そのカレー味は、「なつかしのカレー味だ。甘みが強く、カレー粉の香りがプンプンする」「日本のカレーはここ数10年でとても美味しくなったと思う」「でも、台湾のカレーは戦後ずっと変わっていないのでは? と思えるような、野暮ったいが、やさしい味だ。二口、三口と食べるうち、私はすっかりカレー焼きそばの虜になった。カレーライスではなく、焼きそばなところも気に入った」。

率直で自由自在な著者の視線と言葉は、こう結ぶ。「近所にあったら、週に一度は食べにくるだろな。そう考えてから、いや、基隆の曇り空や古びたアパートの壁の色こそが、このノスタルジックなカレー焼きそばの調味料なんだ、そう思いあらためた」

著者は、ごく自然に、ところどころで、重くもなく軽くもなく軽やかに、台湾の複雑な国際的な位置についても、ふれている。北京語と台湾語について。屋台の家族の話し、屋台は貧しい商売と見られるが、子供たちをアメリカに留学させたり、カナダへ移民させたりする、そこにある生活。など。日本も無関係ではない。

さて、どう台湾を楽しむか。

とくに洗練された文章でもないし、ありがちな、おもしろおかしくうまそうに読ませようとか、通ぶった知識や「心の糧」になるような話とかでもない、だけど、不思議な魅力がある本なのだ。それは台湾と台湾の魅力を再認識した著者の魅力によるものなのだろう。

そうそう、この本の魅力が気になって考えていて、カンジンなことを書くのを忘れていた。もう書くのがメンドウになったから、簡単にしよう。63ページあたりには、「下町の大衆食堂パラダイス、シニアが殺到」というのもあるのだ。日本のどこかの大衆食堂に似ているぞ。

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2014/07/04

「真摯」だの「愚直」だのは、もう値打ちがなくなった、やめなくてはならない。

おれは田中角栄から中曽根政権ぐらいまでは、時の政権党の選挙キャンペーンの仕事の関係で、三役クラスや閣僚クラスぐらいまでは、接触もあり割と視野に入る位置にいたが、閣議決定で憲法解釈を変えて9条を棚上げし、「海外出兵」と他国との「交戦」を可能にする道を開こうというような、姑息な手段の話は、聞いたことはなかった。

いまになって思えば、その意味では、自民党の大勢は「憲法改正」を党是として、じつに「真摯」かつ「愚直」に民主主義と立憲政治に従って活動していたといえる。もちろん、憲法を徹底させることはサボり、憲法を「思想的」に骨抜きすることはしてきたが。

今回の閣議決定による憲法解釈の変更は、憲法とその法律にしたがって、真摯に愚直に生きるなんてのは、じつにバカバカしいことだということを、あきれるほど見事に示してくれた。歴代首相の真摯さと愚直さが、なんと「無能」に見えることよ。

憲法はもちろん道理も道義もへったくれもない、姑息な手段でもなんでも自分の手中にある大小の権力を駆使してやりたいようにやって、口舌を駆使して切り抜け開き直るがいいのだ、ということを鮮明に教えてくれた。

自民党議員の「野次騒動」をみても、大勢においては、もう真摯だの愚直だのは「役立たず」になってしまったのだ。

影響力の大きい一部マスコミも、この流れを引っ張ったり後押ししたりしていた。

「集団的自衛権」以前の問題であり、「真摯」かつ「愚直」に法を守る精神は、打ち捨てられた。もともと、近代精神の希薄だった日本ではあるが、これからは、このことをよく噛みしめて、生きていこう。

ますます「戦国時代」だなあ。

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2014/07/03

可能性がうごめく『Meets』から目が離せない。

転形期の「娑婆の動き」ってのは、ハイカルチャーやマスコミからわかるってものじゃないんだよね。

011毎号、 ご恵送いただいていて、以前は、よく当ブログで紹介もしていたが、ここのところサボりがちだった、京阪神エルマガジン社の月刊誌『ミーツ・リージョナル』。

もちろん毎号おもしろいのだが、最近とりわけ目が離せなくなっている。なんだか、なんてのか、成熟度が増していて、おもしろいのはもちろん、近頃「多様化」と「成熟化」が気になっているおれとしては、いろいろ刺激になり、考えることが多いのだ。

とくに大幅なリニューアルをしたわけではないが、あちこち変わってきて、気がついたら、以前より格段に充実している。というか、やはり大阪が多様化と成熟化のなかにあって、その「まち」と、ちゃんと呼吸しながら、自ら成長し成熟しているのだろう、とか思うのだが、先月号と今月号で、とくにそれを感じた。

先月7月号の特集は「自慢したくなる京都の酒場。」であり、いま発売中の8月号は「気持ちのいいバー。」。この特集のおもしろさは、タイトルの「自慢したくなる」「気持ちのいい」に、すごくよく表現されているのだが、おれが、なんだかこの雑誌ひとかわむけそう、エロうおもしろくなった(おれは近頃「エロ」という言葉を使うが、これ「成熟」のこと、成熟するとアオっぽさがとれてエロっぽくなるでしょ)、と思ったのは、「特集で売る」のではなく、レギュラーページを含めた「雑誌としてのおもしろさ」が、エロういい感じなのだ。とくに、コラムのような短いエッセイのような連載が、うまい酒とアテの関係のように、きいているのだな(特集が酒なら、連載はアテ)。

こうなってみて、やっとわかったおれだが、この雑誌の特徴は、簡潔にいうと、、「ひさうちせんせのちょっとHの学校」と、松本創さんの「ニュース斜め読みのススメ」という二つの連載にあるのだ。

ひさうちせんせのは下ネタであり、松本さんのは時事ネタの範疇だろうが政治に勢いよく突っ込む。こういう「健全」な「まち雑誌」で、下ネタと時事政治ネタを、上手にこなすページがある、そこに、そもそもこの雑誌の編集のすごさがあるのだと、近頃やっと気がついた。ここに、多様化と成熟化の可能性の根があったのだ、と。エロと政治を上手にこなせなくては、成熟した大人になれない。

それはともかく、「気持ちのいいバー」は気持ちがいい。読みごたえがある。新しいバーの動向をとらえても、ミーツの場合は、小ざかしく「トレンド」や「マーケティング」に転がることがないのが、またよい。

時間がないから、今号でうれしかったのは、「竹内厚の 途轍もヘチマもない 第14回」に「釜ヶ崎芸術大学(釜芸)」が取り上げられていたこと。それをけん引するココルームが登場していることだ。主宰の上田假奈代さんも、元気のようで、うれしい。假奈代さんは、「私が考えるアートという表現は、関係性をほぐしたり、逆転していくところが面白いと思っていて、釜ヶ崎は支援される街だと位置づけられているけど、これを逆転できないかなと」。いいことおっしゃっている。

それから、インタビューには、峯田和伸が登場だ。この夏は、舞台に初挑戦。

急いで書いたから、あとで加筆や訂正があるかも知れない。

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2014/07/01

「非公式物産展〈地球の歩き方 初回オリエンテーション編!〉」のち「俺とエロと手拭と私」トーク。

一昨日、29日(日)は、予定通り、弦巻のtime spotで、この日一日だけ開催の「非公式物産展〈地球の歩き方 初回オリエンテーション編!〉」へ行ってから、経堂のさばのゆへ行った。

まだ前夜の酒が少し残っていたし、雷雨が来そうなので様子をみながらグズグズしていたら、ちょうど桜新町の駅に着いた16時過ぎごろだったかな? あたりは激しい雷雨だった。駅構内で避けている人たちにまじって小降りになるのを待ち、歩く。会場がある弦巻中学校あたりは、初めて。駅からの近道もわからないので、わかりやすい大きな道路をたどったら10数分かかった。

time spotの会場もおもしろかった。入口の看板がなければ、倉庫か工場のような外観。中は、間仕切りのないがらんどうの、二階の高さぐらいはありそうな空間、その半分はテキトウに本棚やテーブルやイスや机があり、半分ほどはしっかりした木を組んだコーナーが二つ造られている。ある種のリフォームとシェアの思想の空間か。普段は事務所だそうだが、人が集まりやすそうな、いい感じだ。

大村みよ子さんがいて、ひさしぶりの挨拶をしながら500円の会費を払い、大村さん手作りの参加証をもらう。木造の手前の空間に、非公式物産展が開催された場所の印のついた日本地図や、いろいろな地方のパンフや古い観光案内、それに昔の岩波写真文庫シリーズなどが、テキトウにある。

大村さんは、その中から、おれがこのあと経堂のさばのゆで「俺とエロと手拭と私」のトークをやると知っていて、手拭を数枚取り出してくれた。彼女は「山ガール」なので、山の手拭が多い。とくに、八甲田山の手拭が、堂々とした山容の絵、文字は映画「八甲田山」のタイトルロゴを使用して、すごくよい。ほかに、谷川岳や鳥取の大山など。

そういえば、昔は、たいがいの山小屋で手拭を売っていた、ペナントもあったね、バッチはいまでもある、といった話しをする。この企画は、こうやって、話すことが「アート」になっていくのだ。

もう一度、案内から引用。「日数や距離に差はあれど“旅”の経験の無い人はあまりいないと思います。そして、旅の動機やスタイルは以前よりもずっと多様化しているような気がします。/旅先での出来事は、話すのも聞くのも楽しいものです。/せっかくみんな面白そうな旅をしているのだから、ツイッターやブログとかでその断片を見せるだけでなく、自分の旅を話したり、誰かの旅の話しを聞いたりする場を作ると楽しいんじゃない?そこから繋がったり発展することとかあるんじゃない?と思って考えたのがこの企画です。」

おれは、2007年の夏に行って、このあいだの地震の津波で跡形もなく消えた、釜石ののんべえ横丁の写真をプリントして持って行った。その話しやらもし、「非公式物産展」って、最初はよくわからなかったけど、だんだんわかってきたとおれがいうと、大村さんは「よく私のやっていることはわかりにくいといわれるけど、わかりやすくする必要はないって思うようになった」といった。大いに共感するところがあって、その話しになったが、省略。

木造のもう一つコーナーは厨房とカウンターになっていて、ま、屋台の気分だ。そこでは、「bikiさんが韓国で食べた「マッコリと米粉で作るおいしい炭水化物」の再現」ってのをやっていた。かれは、料理を作りながら、変わるソウルの街の様子を話す。カウンターに座ってビールを飲みながら、話しに加わる人たち。別の床のコーナーでは、「自作アルコールストーブワークショップ」というのをやっていた。見るからに「山男」という感じの人たち。

それぞれが思い思いに何かをしたり、話したりしている。近所の食堂の話にもなった。

しかし、時間がない。桜新町の駅で17時15分ごろに、トークのお相手、手拭番長じゅんこさんと前回のゲストおのみささんと待ち合わせ、タクシーで経堂へ行くことになっているのだ。17時過ぎに急いで会場をあとにし、とにかく、17時半ごろ桜新町駅の地上で、浴衣美人の2人が、おれがなかなかあらわれないで、あのクソヤロウという顔をしているのと無事に合流。

10462846_10204499005817904_48835804トークは、ほぼ18時半にスタートした。じゅんこさんは、本を出されているわけではないし、トークショウなどは初めてなので、参加者の人数はあまり期待していなかったのだが、始まるころには、もう20名をこえていた。そのなかには、前回都合が悪くて来られなかったひとや、なんと、おもいがけなく、スソさんと久家さんが!

それに、若い男性の一人は、この日のために浴衣姿。ってことで、浴衣姿が3人。エロ手拭トークらしい雰囲気になった。

手拭番長じゅんこさんとは、何度か酒を飲んでいるが、手拭の話をするのは、この日が初めて。そもそも、おれはじゅんこさんが手拭で有名な会社に勤めていることも知らなかった。トークに入る前に、すでに飲みながら、おれが持って行った手拭を見せると、見ただけで、これはドコドコのメーカーの手拭とわかっちゃうのだ。

トークは、手拭の柄やデザイン、品質や歴史などのことより、暮らしのなかでの使い方使われ方を中心にすることになっていた。会場のみなさんも、ほとんどの方が手拭を持っている、つまり「ありふれたもの」だが、うまく使われているとはいえない。おれの場合も「死蔵」が多い。やはり、「ありふれたものを上手く」が必要なのだ。

まずは、まだタオルやハンカチより手拭が圧倒していた、おれの子供のころからの話から始めた。そして、話は、あっちに転がり、こっちに転がり。

おれは化粧をしないから知らなかったが、女性はクレンジングにカネがかかるらしい。じゅんこさんによると、手拭をちょちょい濡らして拭くと、きれいに落ちるのだそうだ。クレンジングを買う必要ないという。それから、手拭で肌を拭くと、肌がしっとりとなる、タオルだと、なぜかわからないが水分不足の肌の感じになってしまうとか。

1497557_10204499006737927_193049618そんなことを話しながら、じゅんこさんは手を動かし、手拭をたたんで小物入れや財布にしてみたり、テイッシュ箱のカバーにしてみたり。なるほどねえ。手拭は、長方形の布だから、これを紙のように折りたたんで、いろいろなものが作れるし、たたみ方で正方形にして、使い方も広がる。

と、おれは、10歳ごろにはやっていた、手拭二枚で覆面して遊ぶ、嵐寛寿郎の「鞍馬天狗」ごっこを思い出した。やれるかどうかやってみたら、あんがい思い出すもので、やれた。60年ぶり。

手拭は、もとはといえば、晒しだ。いまでも晒しは売っているが、これに布用のペイントを使って、自分の好きな柄をつけることもできるそうだ。とにかく、使ってこそのもの。それに、いまの手拭は、ほとんど化学染料を使っているので、使わないでいるとそこから痛む。使っては洗い、使っては洗い、使って洗うほど、柔らかい感触になっていく。手拭番長じゅんこさんは、たくさんの手拭を持ってきたが、一番長く使っているのは15年。布の硬さ、柔らかさによって、使いようもいろいろ。

話しながら、いろいろアイデアが浮かんだ。新たな企画のヒントもあった。

この日、おれは、澤姫試飲会のジャンケン勝ち抜き戦で勝って手に入れたまま、使っていなかった澤姫の前掛けをしてトークに臨んだ。前掛けや、店の暖簾などは、手拭の仲間なのだ。

トークが終わったのは20時近く、それからにぎやかな懇親会になった。いろいろな人がいて、この日が誕生日の馬場さんもいたし、いろいろ、酒の量といい、じゅんこさんの話しの内容といい、チャチャの入り具合といい、ひとの混ざり具合といい、なかなかエロうよい加減のトークだった。

そして、手拭番長のほかに「酒呑番長」の異名のあるじゅんこさんは、前回のエロトークのときに、ホッピー外1本で、中9杯飲むという、「ホッピー」というより「ホッピー風味」の飲み方の記録をつくったのだが、この夜は、外1本で、中11杯を達成。生まれて初めてのトークを無事に終えた疲れとよころびもあってか、最後はご主人の肩にもたれて帰って行った。が、その翌朝、つまり昨日は、何事もなかったかのように、普通に出勤し、さらに記録を塗り替える意欲満々とか。めでたし、めでたし。

おれは、早速、手拭を洗って干した。まずは、洗って干して、取り出しやすいところに重ねておいて、どんどん使う。

じゅんこさん、おのみささん、参加のみなさん、ありがとうございました。まだまだ、おもしろいことやりましょう。

「非公式物産展」も、これからが、楽しみ。

画像は、すべて、さばのゆ亭主の須田泰成さんの撮影。

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