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2014/07/09

街区丸ごと消費空間のカタマリになる「銀座」。

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きのうは銀座へ行った。近年銀座は行くたびに変わっているので、べつに新しいビルができようが、新しい店ができようが、とくに何も感じなかったが、きのうは銀座5丁目の交差点ニューメルサの前に立ったとき、少し感慨があった。

というのも、その角にあった大きな松坂屋のビルが消えて更地になって、その向こうに銀座6丁目の裏通り、かつては「銀座東6丁目」といったあたりのビルまで見通せたからだ。6丁目の銀座通りに面した建物は、そっくり無くなり、銀座6丁目交差点のところにある茶色のライオン銀座まで見通せるのだ。こんな景色は、めったに見られるものではない。

おれが臨時雇いを転々としたのちに、1965年の5月ごろから正社員として勤めだした会社は、この5丁目の交差点、つまり松坂屋の角を昭和通りの方へ向かって、3本目ぐらいを右へ行ったところにあった、小さな四、五階建てぐらいのビルにあった。住所は、いまでは銀座6丁目だが、当時は銀座東6丁目だった。いまは、そのビルも町名もない。

その3本目ぐらいを曲がる手前左側に、大衆食堂があった。店の看板も暖簾も記憶にない。たぶんなかったのではないかと思う。もしかすると、2間ほどの間口のガラス戸に、何か書いてあったかもしれない。当時は珍しくなかったが、愛想のないただのがらんどうの空間、打ちっぱなしのコンクリートの床の上に、パイプの脚のテーブルとイスをテキトウに置いただけの食堂だった。よくナス炒めを食べたなあ。たぶん、安かったのだ。

そのころ、表の銀座通りで、松坂屋は最も大きいほうだった。まだ、間口の狭い4階建てぐらいのビルが何軒もあって、こちらのほうが銀座通り路面に占める面積は大きかったのではないかと思う。銀座通りの一本裏は、路地に木造の建物がひしめいていた。そうそう、ステーキの銀座スエヒロ、いまはどうなっているのか、古い渋い木造だった。生活感も漂っていた。

このあたりの生まれ育ちの人は中央区立泰明小学校を出ている。その卒業生で、銀座の「旦那」をやっていた何人かの方と、70年代に少し付き合いがあった。みな年輩で、1人は表通りの有名店の社長だった。老舗の店をはっていても、銀座というのは庶民的な人々の町だった。庶民的な気風があった。

いつごろから、大きく変わったのだろう。バブルの頃は、まだそんなに大きな変化はなかったように思うが。バブルの「成金」は、銀座より「赤坂」や「六本木」だったような気もする。銀座は、敷居が高かったのか?

018とにかく、あとで考えると、5丁目の交差点から4丁目交差点のほうに見える「銀座コア」の開業が、銀座のファッション化の端緒のように思える。

銀座からは「町」という感じが失われつつある。巨大な消費空間のカタマリになった感じだ。まだ、この6丁目再開発は、とっかかりかもしれない。近頃の再開発は、八重洲や京橋あたりの再開発を見ても、街区のなかの小さな通りをつぶしてビルに併合して、街区丸ごとビルにしてしまう。そして、巨大な消費空間のカタマリが生まれる。その端緒は、「銀座コア」だったといえるだろう。ただ、コアビルのころは、そこに、銀座の商売人たちの希望や意思があったように思う。

いまは、どうだろうか。

「『銀座六丁目10地区第一種市街地再開発事業』 2016年11月、ワールドクラスクオリティの商業施設が誕生」
http://www.sumitomocorp.co.jp/news/detail/id=27806?tc=bx

ようするに投資対象と、投資回収の消費の「まち」でしかなくなっているのだ。

いまや、銀座通りの路面店は、グローバルなブランドが、圧倒的にシェアしている。銀座ブランドと、それを育ててきた銀座の商売人たちは、グローバルなブランドに場所を明け渡さざるを得ないのだろうか。銀座は、上海や、香港などとも競争しながら、生きていかなくてはならないのだろうか。おれの知り合いの旦那たちは、みな逝ってしまった。

それはそうと、おれが、その会社に勤めていた当時、銀座通りの間口の広い店で印象に残っていた一つに「小松ストアー」がある。これを、ネット検索したら、意外なことを知った。

この店、前身は、「松本楼」だったのだ。松崎天民の『東京食べ歩き』(誠文堂、昭和6年)にも出てくる戦前の有名店だ。

「小松ストアーの名前の由来を知っていますか?/ 創設者の名前は小坂武雄、小松ストアーは、本当は小坂ストアーになっていてもおかしくなかった……。では、なぜ小坂ストアーではないのか。小松ストアーは、そもそもの起源を飲食店に持ちます。その飲食店の名が「松本楼」といいました。では、松本ストアーであっても、よかったのではないか。」
http://www.ginza-komatsu.co.jp/blog/archives/109

ウィキペデイアによれば、「10円カレー」で有名な現在の日比谷松本楼は、「1903年に東京市が現在の日比谷公園を開園するにあたり、銀座で食堂を経営していた小坂梅吉が落札し、日比谷松本楼として6月1日にオープンした」と。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E6%A5%BC

(7月10日追記)
銀座の「ファッション化」は銀座コアとメルサ(現在のメルサ2)あたりからのような記憶があるので、ウイキペディアで調べてみた。

1969年(昭和44年)8月、銀座インペリアルビル株式会社として地元地権者11名の共同出資により、銀座インペリアルビル管理の全権委任を受けた受託管理会社として設立。1971年(昭和46年)「インペリアルビル」の名称はビル名公募により「銀座コア」にビル名を変更し11月3日にオープン。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E5%BA%A7%E3%82%B3%E3%82%A2

1971年(昭和46年)10月:東京都中央区に「東京メルサ(現在のメルサ銀座2丁目店)」をオープン。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%82%B5

銀座コアは地元地権者によるものだが、メルサは名古屋の名鉄グループの進出。

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