「黒い」は悪いか。
先週から取材してきたテーマの一つは、とくに「だしの色」に関わることだ。きのうが最後の取材で、4軒目、明治20年(1887年)創業のおでんやさん。
いやあ、たしかに「黒い」。
大阪で人気のおでんやさんの写真(下)と比べてみよう。その、だし=煮汁の色だ。煮汁が黒ければ、煮たものも黒っぽくなるのが道理。
ところが、この色が、さまざまな「偏見」を生む。たとえば、大谷晃一さんの『大阪学』(新潮文庫、1997年)では、こんな風だ。
「東京のだしの色は、どす黒い。辛い。濃口の醤油そのものの味である。大阪の色は淡く味は薄い」「上方では、料理の味の濃淡で文化をうんぬんしてきた。濃い味は田舎者である」
こういうたぐいの話しは、とくに関西人からよく聞かされる。東京のうどんなんか、タールの汁みたいで、気持ち悪い、とか。
人間それぞれ色の嗜好というものがあるが、その色で「田舎者」だのなんだのという話しにまでなったりする。それで文化をウンヌンし、他を見下す。文化の多様性とか多面性とかは関係ないらしい。
また、「濃い色」の「濃い味」は、素材が持っている味を損なうというのが、一つのリクツになっているわけだが、ほんとうに、そうか。
偏見があっては、味覚を楽しむことはできない。自分の舌と感覚で楽しむのだ。いろいろなことが見えてきた。「濃い味」も「濃い色」もいろいろだ。昔の東京の味は、もっと濃かった。「辛さ」にも、「しょっ辛い」もあれば「甘辛い」もある。それも時代によって変わってきた。そこに生活がある。
それに、料理によって、東京の味であっても味の決め手がちがう、ということがあって、おもしろい発見だった。
偏見といえば、「三大ナントカ」といったぐあいに、ひとは一度権威に思い込まされると、そこに群がり、ほかのものに見向きもしなくなる、おかしさがある。そういうおかしさにもであった。こんなにうまいものがあるのに、どうして見向きもしないのだろう。
「有名」「一流」などは、時代によって変わるものなのに、味覚は多様で多面であるのに、それを楽しんでない滑稽がある。思い込みが激しすぎるのか、主体性の欠如か、教条的というか。
そんな、あれやこれやの収穫があったけど、原稿は気楽な読み物にしたいので、あまりリクツはこねない。とにかく、「黒い味」を楽しむのだ。
それにしても、「江戸の味」は、もうはるか想像のかなた、何枚も厚着を重ねた身体のうえから、身体のラインを探るようなものだな。
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