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2014/11/28

突然ですが、今夜10時45分頃から。

急遽、TBSラジオ『荻上チキ・Session-22』に出演することになりました。

10時45分頃からの1時間は、メインセッションというコーナーで、その日、その日のニュースを見ながら特集を決めているものだそうで、昨夜、連絡があって、出演が決まった。夜の10時45分頃からなら、たいがい飲んでいる時間だから、急の話でも対応できるわけですね。

テーマは『今こそ語ろう!ご飯のお供』です。

きっかけとなったニュースは、今、大阪でご飯給食の食べ残しを減らす取り組みとして、ふりかけの導入が議論となっていることだそうです。

特集の前半で、おれが、「ご飯のお供が普及、求められてきた背景、社会構造の変化や、日本経済に何があったのかなどについて」、荻上チキさんと話します。チョイとカタイ話ですね。

後半は、くだけて、長船邦彦さん(おかわりJAPAN管理人)が加わり、実際に、いまどんなご飯のお供があるか、リスナーさんのメールをはさみながら、紹介します。どうやら、紹介するご飯のお供を、試食しながらになるらしい。

この番組、一年ぐらい前の11月19日に、メインセッションのあとのミッドナイトセッションのコーナーに出演しているのだが、そのときは、後半は、番組ディレクターさんが作った、豚汁を食べながらだった。食べながら、が、好きな番組なのか?馴れないと、食べながらしゃべるのって難しいんだよね。

ま、とにかく、そういうわけなので、今夜、10時45分頃から11時45分頃まで、よろしく~。

昨年出演のときのことは、2013/11/21「一昨日深夜「荻上チキ・Session-22」のち朝までカラオケどんちゃか。」に。


あと荻上チキさん責任編集「知の最前線を切り開く電子マガジン」を謳う「シノドス」には、2回登場しています。

2013年4月5日には、五十嵐泰正さんとの対談、「『いいモノ』食ってりゃ幸せか? われわれはみな〈社会的〉に食べている」→http://synodos.jp/society/3222こちらでご覧いただけます。

当ブログ関連は
2013/04/22
「『いいモノ』食ってりゃ幸せか?が、朝日新聞のWEBRONZAに転載になり。」


今年の10月15日発行の「シノドス」には、インタビュー「普通にウマい!はどうして大切か――大衆食堂からみえる食の形」で、登場しています。

当ブログ関連は
2014/10/16
「αシノドス」に「普通にウマい!はどうして大切か――大衆食堂からみえる食の形」


いずれも、『大衆めし 激動の戦後史』が関係する。この本は、食事や料理の、イマや未来を考えるうえで欠かせないことを述べています。

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2014/11/25

四月と十月文庫『理解フノー』の編集がボチボチ始まった。

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『四月と十月』に連載の「理解フノー」が四月と十月文庫になる話は、なんとなく先のことで他人事のように考えていた。

なにしろ、この話は、先月末か今月始めに北九州の旅先で決まったことで、その前に3冊の出版予定が決まっているし、しかもそのうちの1冊は、先日発刊になった5冊目の『わたしの東京風景』より前に発行する予定で進んでいたのに、某著名な著者の書き下ろしが編集サイドからダメ出しで差し戻されたといういわくつきのものだから、おれンのはまだ先さと思っていたのだ。

(それにしても、おれよりはるかにちゃんとした編集や書く仕事をし、大いに活躍しているライターさんの原稿が差し戻されるなんて、おそろしい。妥協のない編集に、おれのようなナンチャッテライターは、大丈夫なのか)

編集の成合明子さんから、これまでの原稿を、四月と十月文庫の文字組みに一度流し込んで、それを推敲したら進めやすいのではという話があり、急遽これまでの「理解フノー」と、ほかの収録予定の原稿を、まとめることになった。

原稿は全部パソコンに保存されているハズだったが、調べてみると、そもそも整理が悪いうえにパソコンのクラッシュもあったし、新しいのを買ったりして、目下3台のパソコンがあるのだが、「理解フノー」の1回目から10回目までが見つからない。それと、もう一編の別口も見つからない。

ってわけで、スキャンしてOCRで起こす作業をして、今日まとめてメール添付で送った。

「理解フノー」は、2008年10月の19号からスタートした。4月と10月、年に2回の発行で、13回まですんでいる。13冊を棚から取り出して、スキャナーのわきにおいて…すぐ作業にかかれない。

初回の19号を手にすると、懐かしい方が載っていたり、おれも参加した古墳部活動「翡翠(ヒスイ)の里を訪ねて」をスソアキコ古墳部長が書いたりしている。思わず、読んでしまう。5年、いや、6年の歳月がすぎていた。

スキャンから読み取り、ずいぶん時間がかかったが、とにかく、連休明けに揃えて送る約束だったから、仕上げて送った。

「理解フノー」は、連載のときは、半年おきで、とくに一貫したテーマはないし、ときどき思いつくままに書いていた。こんなもの、とても一冊にまとめることはできないだろうと思っていたが、揃えて続けて読んでみたら、これはこれで、アンガイものになりそうだ。

はて、このあとの推敲に耐えられるか。それに、新たに書き足す原稿もモンダイだ。

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2014/11/24

ふと、『メディア・レイプ』を拾い読みして。

重しが必要なことがあって、本棚から厚めの本を何冊か取り出して利用した。それを棚にもどすとき、その中の一冊を、なんとなくバラパラめくった。『メディア・レイプ』(ウィルソン・ブライアン・キイ著、鈴木晶・入江良平共訳、リブロポート1991年)だ。『メディア・セックス』が売れて注目され、おれもそれで知った著者の本、発売と同時に買って読んだ。懐かしい、崩壊が見え始めたバブルのころだ。

『メディア・セックス』と『メディア・レイプ』で「サブリミナル・テクニック」を知ったひとも多いだろう。その後、いろいろあったが、いまパラパラと見ると、ますます重要になっている指摘もある。

「著者の警告」には、こうある。

「読者はこの本を二つの方法で実用に役立てることができる。メディアに支配された環境にいる人は誰でも、図像や言葉による搾取にたいして、ここに述べられた考えや情報を用いて身を守ることができる。それによって読者は、より自立性、すなわち行動したり何かを信じたりする自由を手に入れることができるはずだ。」

「本書の実際的効用は、メディアによって喧伝されたわがまましか頭にない読者のためのものである。彼らは、本書を読むことによって広告宣伝業界で出世することができるだろう。」

何気なく、重しが必要で棚から取り出して、なんとなくパラパラ見て、つぎの二つのことを痛感した。

一つ。この本は、直接的には、「サブリミナル・テクニック、すなわち視聴者の知覚を通り越して直接に潜在意識に訴えかける技術を用いた広告の問題」を追求しているのだけど、いまや広告の分野をこえて、メディアの制作や編集に関わるひとすべてに関係する事柄が、盛り込まれている。それは、メディアを通しての、操作、支配、搾取、についてだ。

一つ。この本が翻訳出版された1991年当時より、「図像や言葉による搾取」、とくに心理的搾取が、はるかに、構造的にも進化し、巧妙になっているし、インターネットの普及により、たくさんのひとが「表現者」としてメディアに参加し、無意識のうちに搾取されながら搾取するようになっていることについて、かなり無自覚・無警戒な状況がある。

訳者は、あとがきでいう。

「ブライアン・キイが繰り返し主張してきたことは、二つのテーゼにまとめることができよう。一つは、「客観的現実」とか「永遠の真理」といったものは存在しないということである。この二つの幻想にとらわれると、私たちは抵抗力を失い、私たちを操作・支配しようとする者の言うなりになってしまう、と彼は訴えるのである。」

ここは、かつて読んだとき、記憶に残ったところで、ふりかえってみると、けっこう影響を受けている。

「私たちを操作・支配しようとする者」は、大きな権力者とは限らない。ブログやSNSや少部数の紙メディアなども含め、自分のメディアを持つものはもちろん、自分の意志を(程度の差はあれ)通せるメディアに関係する者は、たえず読者を操作・支配しようとする(自分の言っていることは正しく、批判者は「敵」とみなす関係をつくろうとする)。そのために、自分が述べていることは、「客観的現実」であるとか、「永遠の真理」つまり「普遍的」で「正しい」、誰にとっても「よい」ことであるかのように、演出したがる。

多くのひとが、メディアに憧れるのは、それが大小に関係なく、自分が好きなように操作・支配できる権力や権威に憧れているからという背景があることが多い。それを手軽に手にすることができるようになった。じつに、メディアの世界は、「自己実現」や「自己愛」や「自意識」なども絡んで、過剰な「出世欲」に燃えているように見える。いや、「出版不況」も絡んで、というべきか。

「表現者」としては、搾取との付き合い方が、難しく悩ましいところだ。

あいかわらず「客観」が正しく、おれのように「体験」と「主観」にもとづいていることを強調すると、それだけで何か間違っているかのように「批判」される(とうぜん「客観」も「主観」もわかっていないひとのことだから、「批判」というより、ほとんど中傷なのだが)、スタンダードや凡庸や野暮はバカにされ、スノビズム(お高くとまる主義)がはびこる。

「「客観的現実」とか「永遠の真理」といったものは存在しない」

このことを、忘れないようにしよう。

しかし、それにしても、メディアのあたりには、「メディアによって喧伝されたわがまましか頭にない」ひとが多すぎるな。「いいもの創ろう」の掛け声のもと、こういう傾向になびくのだから、始末が悪い。

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2014/11/22

深夜、第二産業道路を歩いて帰宅。スソアキコさんのコミックエッセイ『スソアキコのひとり古墳部』。

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昨日は、元住吉で飲み会だった。この飲み会は、名前はついていないが、おれのほかにいつもの「HOS」という顔ぶれに、イノウエさんとオカオさん。というか、今回は、彼らの飲み会に、急遽おれが加わったのだ。

19時ごろから船田キミヱさんの店に集まるってことだったが、19時半ごろスタートだったかな。この日、船田さんの店は休みだったのだけど、このためにやってくださった。

おれは、早めに家を出て、ひさしぶりに十条の天将で一杯。今年初めてか?天将は、「酒場放浪記」に出て以来、ますます繁盛、その再放送が最近もあったとかで、いろいろ取材が入るようだ。

池袋から東横線に乗り入れている副都心線一本で元住吉へ行くため、池袋で降りて、ついでに、リブロで買物。出たばかりの、スソアキコさんのコミックエッセイ『スソアキコのひとり古墳部』(イースト・プレス)を購入。

Web「ほぼ日刊イトイ新聞」での連載を改編したもの。元住吉までの長い電車のなかで読む。小柄でカヨワイ、スソさんが、汗かきかき、ときには虫に襲われたり、ヘビに驚いたり、暗い石室に入ったり、資料館などをじっくり見学しながら、電車とバスと徒歩で、古墳を楽しむ。

おもしろい、よくできている。文芸書売場に並んでいたが、優れた文芸書でもあるし、地図も楽しい優れたガイドブックでもある。ほんとうにスソさんは古墳が好きなんだなあ。スソさんと一緒に行ったことがある古墳も、たくさんのっていて、いろいろ思い出した。

エピローグで、古墳の楽しみあれこれを描き、最後に、こうまとめる。

「古墳が造られるところは/水が豊かです/それは食物が恵まれた土地でもあります」「さらに地酒やワインもあったりして…」「温泉好きでは/ありませんが/温泉が近くにあれば/汗を流して/翌日の活動に備えます」「古墳を訪ねると/結果として/豊かな土地の恵みを体いっぱいに/受ける/フルコースの旅に/なるのです」「つまり…/古墳だけが面白いのではなくて、古墳のある土地の/環境や風土や食など込みで/面白いのです」

これは、まさにスソさんの持論であり実践であり、スソさんを部長としてやってきた「古墳部」もそうだったし、そのようなスソさんの「ひとり古墳部」がここには描かれている。ただガツガツ古墳だけを見て数をこなせばよいってものじゃない、それではテーマパークを楽しんで消費するようなものだ。古墳をめぐりながら人間が豊かになる文化の味わいを育てる、それが古墳文化を存続させることにもなる、古墳の楽しみ方の、基本だね。

船田さんの店では、われわれのために作ってくれた料理を食べながら、あれこれにぎやかにしゃべり、飲んだ。ほかの人たちは、船田さんと知り合いで、何回も料理も食べているが、おれは初めて。

船田さんの料理は、特別にリクツっぽい料理ではなく、さらりと仕上げているが、注意深く作られている。少しずつ何種類もの食材を使って、いろいろなものが食べられた。大いに満足。

ちょうど、ちくま文庫から「船田キミヱさん直伝98皿」をまとめた、高橋みどりさんの著書『酒のさかな』が出たばかりで置いてあり、全員がそれを買った。絵と文字、牧野伊三夫さん。写真、日置武晴さん。デザイン、有山達也さん。これは、以前、メディアファクトリーから出版されていて、牧野さんの展覧会か何かで見たことがある。

東大宮まで遠いから帰りが大変だった。店を出たのが10時半ごろで、もう大宮からタクシーか深夜バスという時間だった。

大宮駅に着くと、タクシーは大行列、いつも深夜バスに乗る停留所で時刻表を見ると、0時55分発がスグだった。来たバスに乗りこむ。

走り出して10分ほどしたころ、いつものように東へ向かってはいるが、いつもと違うコースを走っているのに気がついた。行き先を確かめないで乗ったから、違う行き先のバスだったらしい。それでも、東へ向かって走り、第二産業道路を左折してくれたら、家には近づくわけで、行ける所まで行って、あとは歩くなりタクシーをつかまえようと思った。

ところが、バスは、第二産業道路を突っ切り、次は「南中野」というではないか、ゲッ、とんでもない知らないところだ。あわてて降りたが、タクシーがつかまえられるようなところではない。第二産業道路までもどり、ここをひたすら北上すれば、間違いなく東大宮へ出る。覚悟を決めて歩きだした。1時15分ごろだったか。

そうして、テクテク深夜の第二産業道路を歩いた。16号との交差点周辺は、賑やかに灯りをつけて営業しているチェーン店があったり、分離帯に乗り上げてしまったクルマの事故現場を見たり、大和田で東武野田線を越すまでは初めてのところであり、なかなか面白かった。あまり寒くなかったのもよかった。

1時間ぐらい歩くと、足が少々疲れたが、途中のコンビニで水を買って飲みながら歩き、2時45分ごろ、家に着いた。

めったにないことで、楽しかった。でも、これ一度で、けっこうだ。

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2014/11/20

王子の「狸」。

0200118日火曜日の夜は「王子の会」だった。たぶん3回目か4回目だが、最初はナントナク王子近辺で飲んでいただけだったから、名前はなかった。王子の人が多いので、テキトウに「王子の会」になった。王子だけで飲むわけじゃないが、今回は王子だった。

場所を決めて予約するのは、王子の方で、その人が選んだのが、なんと、以前は甘味喫茶から食堂化していた「たぬき」だった。

「たぬき」は、1990年代後半に一度入ったことがあるだけだったが、その後いつだったか、もう10年以上前だと思うが、古く傷みも激しくなっていた木造2階を建て替え、3階建てにして、1階は居酒屋「狸」に生まれ変わった。だけど、まだ入ったことがなかった。

会社帰りのひとに合わせて、18時半集合。初めて「狸」のドアを開けた。狭い間口は変わっていないから、入ってすぐ手前に、テーブルが一つ、あとは奥に向かってカウンター、その奥に座敷があった。意外に奥に長く、以前よりずっと広く感じた。

かつて店に立っていたおばあさんは、高齢だが、ご健在だそうで、なにより。料理もよく、なかなか繁盛しているようだった。ご家族でシャキシャキ働いている。こうして営業内容は変わっても、路面の個人店が続くのはいいねえ。

われわれは奥の座敷。来れない人がいたが、初めての方が2人参加して、6名。あれやこれや、メンドウな話から、会社のアレコレや、バカ話まで。動物好きの40歳独身のS男さんが、犬2匹、猫2匹のほかに、最近、ウサギも飼っていると知って、おどろいた。会社で楽でない管理職をやりながら、よくやるなあ。ウサギのエサはどうするのか聞いたら、朝、犬の散歩のときに草をとって来て食わせるのだとか。しかし、休みに九州の田舎に帰るときはどうするのだろう、彼は、いままで犬2匹と猫2匹は連れて帰っていたのだけど、ウサギはどうしたらいいですかねえ、と。大らかなひとだから、なんとかなるのだろう。

2軒目は、みなさんお馴染みの「串の介」。22時半ごろお開き。けっこう飲んだ。

王子といえば、キツネだが、なぜ「狸」なのか話になった。店の名前にするには、キツネじゃ愛きょうがないからだろう。

共同企画共同制作をしていると、手間や面倒が増える、機能的にコトが運ばない、だからよいわけだ。ほんらいの、創造、創作。小沢信男さんの本に書かれた、花田清輝が唱えた「共同制作」を思い出す。

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2014/11/18

「ビジョン」だの「コンセプト」だの。抽象力は大丈夫か。

本や雑誌や番組など、ようするにメディアに関する企画となると、初めに「コンセプト」なるものがディスカッションになることが多い。もうごくアタリマエのように「コンセプト」が論じられるのだが、それが単なるメディアのコンセプトであって、ビジョンなるものがないことが、たいがいなのだ。そのひと自身にビジョンがないことも、少なくない。

だけど、ビジョンなどなくても、「メディアのコンセプト」を論じることはできる。自分なりの興味や、いま何が受けるかといったことや、競争関係や、マーケティングされた「事実」などに関する知識や情報があれば、コンセプトを立て企画することができるからだ。それに、いまどきは、メディアの上に自己実現を図ろうとする人が、たくさんいる。

ビジョンを持っている人と、持ってない人、ビジョンを持っていても違いがあると、それがコンセプトをめぐるディスカッションにあらわれる。こういうディスカッションをする機会や場があることは、よいことだと思う。なければ、不幸だな。

ビジョンは、メディアのコンセプト以前のことだ。ビジョンは、世界をどうみるか、そこにどんな目的をおったてるか、といったことが関係する。

世界を上下関係で見ているひとは、世界を山に見たて、高い峰をめざすようなビジョンを描きやすい。わりとよくある。つまり自分自身が、高い峰をめざす人であり、自分の位置を上下や高低のなかに発見する。どちらが上か下か、どちらが高いか低いか、そういう基準がモノをいう。

ツイッターなどで「意識が高い」だの「低い」だのが話題になるが、「意識の高い人たちの知的満足」なんていうメディアのコンセプトは、たいがいこの程度のことであり、作っている人間は、意識高い系に属していると思っている。

ところが、世界を森や、枝をたくさんつけた木として見る人もいる。その場合は、森が育つこと、枝がのびることを構想する。森の中の一本の木や、一本の木の枝に自分を発見する。

あるいは、世界を「脳」のように見ている人もいる。脳が元気でいられるにはどんなビジョンが必要か考える。自分はシナプスを持つ神経細胞の一つだと考えている人もいる。

そういう違いが、コンセプトをめぐるディスカッションにあらわれ、いろいろな考えが深められながらコンセプトが生まれる。この場合は、メディアの上だけのコンセプトではなく、メディアが世界でどんな存在になるかというコンセプトになる。が、そういうコンセプトは少ない。メディアの企画自体が、世界を意識してないことが多いのだ。

ビジョンを考えるには、あるていど抽象力が必要だろう。近ごろのメディア関係者は、大学院卒の高学歴者がめずらしくなく、高度な知識を持っているのに、抽象力はあまりない。とくに業界で生きている人には、世界を上下関係で見ているパターンは、意外に多い。フリーであっても、いや、フリーだからこそ、業界人化する側面もある。

かくて、「意識は高そう」だけど、功利や打算は見えるがビジョンが見えない陳腐な企画が続々生まれる。

といった状況について、先日は話し合った。

ビジョンのためには抽象力が必要だ。だけど抽象力が低下している。これは現在の消費主義の結果であるかも知れない。「具象」「モノ」「わかりやすさ」にあぐらをかく消費主義に飼いならされているのではないか?

昨日、ある方からのメールに、こうあった。

このきなくさいご時世、このセルフプロデュース暗黙強制社会に、
自分が自分でありながら抗する(法に触れずに)方法は
間違いなく「●●●」が有効な一手だと思います。

「セルフプロデュース暗黙強制社会」にもすっかり飼いならされ疑問すら持たず、積極的に参加するメディアが目立つ。それはともかく、「●●●」には、言葉が入っているのだけど、こうして「●●●」にどんな言葉をあてはめるか考えてみると、それが一文字でも二文字でもよいのだが、抽象力が増しそうだ。

おれの場合は、ここに「野暮」を入れているわけだが。

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2014/11/17

ただ飲んでいるだけだが、いろいろ進んでもいる。

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15日の土曜日は、いろいろ予定が重なり、さらに二転三転したのち、けっきょく「ただ飲むだけ会」となった。

北浦和の「狸穴」で知り合った会社員のS男さんと、ちょうどメールがあった野暮連Y女さんも誘い、15時半から大宮のいづみや。ビール、酎ハイ、まだ先が長いのに強い梅割りまで飲んでしまった。

17時ごろ東大宮へ移動。そもそも、上京して7年、30歳のS男さんは東大宮で飲んだことがないというので、案内することになっていたのだ。東大宮駅で、狸穴の常連26歳の会社員K女さんも合流し、20代、30代、40代、そして70代の酒豪が揃った。

まずは「鉄砲屋」。焼き物をどんどん頼み、ホッピーをがんがん飲む。あまりに飲むので、途中で焼酎をボトルでとったほうが安くあがることに気がついたが、気がつくのが遅すぎた。河岸を変えようと「コタツ」へ。ところが、なんと、コタツが満席。コタツが満席なんて、貸切かと思ったが、そうではなく満席なのだそうで、おどろいたが、けっこうなことだ。では、気分を変えてワインの店にしようと、東口のガルプキッチン。赤ワインのボトル2本を空けたところで、「やっぱり最後は狸穴だ!」ってことになり、北浦和へ。

もう狸穴に着いた頃には、おれは泥酔状態、何を話していたか思い出せない。狸穴は、「北浦和のゴールデン街」をコンセプトに、いまや昔の面影を無くしつつある新宿のゴールデン街よりゴールデン街らしい酒場だ。とにかく、ただ飲みまくり、都内まで帰るY女さんとおれはお先に失礼、たぶん23時すぎにヨレヨレ泥酔記憶喪失帰宅。

昨日16日は、やや二日酔いだったが、雑司ヶ谷のみちくさ市と、池袋ポポタムの福田紀子展(四月と十月文庫『わたしの東京風景』原画も展示)へ行き、夕方から打ち合わせ1件の予定、11時ごろ家を出る。

天気もよく、みちくさ市は大にぎわい。あれやこれやの人たちと会い、あれやこれや言葉を交わし、本も3冊ほど買い、目白通りを歩いてポポタムへ。ムトウさんが店番をしていた。福田さんもいた。福田さんの絵は、印刷で見るより、はるかにエネルギッシュだ。竜巻のエネルギーのよう。静かな絵も何点かあったけど。すごいな~。

打ち合わせの相手と連絡を取り合い15時半に新宿。まずは落ち着く店で打ち合わせをしようとライオン。いくらか全体像と核心が見えたあたりで、石の家に移動。腹が減っていたので、いろいろ食べて飲む。どうせなら、企画に絡んで見ておいたほうがよいバーへ行こうと、「猫」へ。

日曜日で休みかも知れないと思って行ったが、次の連休の振り替えとかで開けていた。でも、いつもの常連も客もいないから、マスターも飲んで、機嫌がよい。めずらしくよくしゃべり、なんと、写真まで撮らせてくれた。これはもう、おれが73年ごろから通って、絶対にありえなかったこと。マスターもトシをとって丸くなったか。でもまだおれより若いが。こういう無頼なバーは、新宿でも、ここぐらいになった。床のコンクリートも、ところどころガタピシ。マスターの話が、こんどの企画のツボで、行ってよかった。

いろいろ企画が動き出した。これからは共著や共同企画などを積極的にやっていく。

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2014/11/14

『談 100号記念選集』。

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B5版の週刊誌サイズ、599ページ、厚さ4センチ!

「かつてない知の百科全書」と「談」編集長の佐藤真さんはいうが、ハッタリじゃない。

『談』は、公益財団法人たばこ総合研究センター[TASC]が、年3回、発行している雑誌だ。

「1973年の創刊以降、「変化する時代の社会の大きな流れを読み解き、次の時代に生きる価値観を模索する」ため、人間の嗜好、人間の欲求、人間の価値観の変化について100号にわたり語り合ってきた。誰もが経験したことのない大転換期に直面している現在だからこそ、あらためて読み返したい40本の対談・鼎談・インタビューをここに収録した。」…腰巻から。

佐藤さんは、「『談』でお話を伺った学者、科学者はのべ400人、そのなかから40本を厳選」という。

「転形期」といわれるイマがいつから始まったかは、いろいろな考えがあるし、分野によっても異なるし、「転形期」なんぞ意識せず以前のままの考えの人もいる。しかし、変化は、70年前後からあらわれ、「脱○○」が流行語にまでなり、73年のオイルショックを契機に、さらに顕著になった。

おれが30歳になる年、1973年4月号からスタートした本誌は、たしか[TASC]のPR誌として企画されたと記憶している。

おれは、このタイトルが決まる企画会議を、横で見ていた。『大衆めし 激動の戦後史』にも書いたが、おれは71年に、都内の企画会社に転職した、その会社が、本誌の企画に関わっていたからだ。

その企画会社は、ハウスオーガンとよばれる企業出版物の編集制作を請け負う部門と、広告制作を請け負う部門の、二本立てで営業していた。つまり、編集者集団とデザイナーやコピーライターなどの広告制作集団がいた。この二者は、壁で仕切られたスペースで、仲があまりよろしくなかった。どちらかというと編集者は、ビジネスについて理解がなく、金儲けのために広告活動をする連中を軽蔑しているフシがあった。

おれは、「企画開発」という、総合的なマーケティングをやる新しい部門のために採用されて、どちらかといえば広告制作集団寄りの仕事だったが、新規の企画であればどちらの仕事にも関係する立場だった。

編集制作部には、出版界でヒットを飛ばしたことがあり、自民党の政治家とも深い関係のある、自負心の強い取締役編集長Fさんがいて、広告制作部なんぞは潰したいぐらいの気持ちだったし、新参者のおれがその企画会議で口をはさむ余地などなかった。ってわけで、横から見ていた。

その企画会議では、「変化」を、どうとらえていくか、なにが求められているか、ということだったと思う。

佐藤編集長は、あとがきで、「『談』が、何より読者に新鮮に映ったのは、ジャンルにとらわれない人選とジャンルを超えることの快感にあったのではないかと思っています。当時、盛んに学際的アプローチが賞賛されました。それだけ学問のタコツボ化が進んでいたということでしょう。そうした現実に対して、活字メディアという限界はあるにせよ、学問領域の壁を超えて意見を戦わせることができる場があるということに、読者は素直に反応したのだろうと思います」「『談』の特徴を一言で言えば、このジャンルにとらわれない、ノンジャンル性にあります」と述べている。

ここで彼がいう「当時」は、「『談』の編集に本格的にかかわるようになった32号(1984年)は、グレゴリー・ベイトソンの「ダブルバインド」をめぐるわずか48ページの小冊子でした」の頃で、それが書店売りでバカ売れしたのだ。

創刊企画のころは、「学際」ということがいわれ始めたばかりだった。本誌は、その底流にある変化をとらえ、ジャンルを超える「談」の場として、構想された。本誌が掲げるスローガンでありコンセプト、「Speak,Talk,and Think」は、そうして生まれた。

「談」というタイトルが決まったときは、Fさん始め、関係者はよろこんで興奮していた。それだけ期待が大きかったといえる。

初代の実質的な編集長はFさんだったが、二代目の実質的な編集長になる栗山浩さんが編集に参画し始めたころ、おれの「会社クーデター」があり、おれが経営の実権を握り、Fさんは取締役クビ、栗山さんが実質的な編集長になった。そして、佐藤真さんが入社した。

このあいだ佐藤さんたちとの飲み会で佐藤さんにいわれたのだが、佐藤さんを面接して、その場で採用を決めたのはおれだったそうだ。その日は、おれの誕生日だったそうで、面接が終わると「飲みに行こう」といわれ一緒に飲んだとか。あの「会社クーデター」がなかったら、おれが佐藤さんを面接することもなかっただろう。

しばらくして、実質編集長の栗山さんのアシストとして佐藤さんが加わるようになり、やがて佐藤さんや栗山さんがアルシーヴ社を設立、『談』を続けた。栗山さんは49歳の若さで逝き、佐藤さんが『談』の編集に本格的にかかわるようになったのは、その頃だったのではないかと思う。

佐藤さんは、三代目の編集長として、その本領を発揮したようだし、『談』は、企画から実務の面にまでわたって、得難い編集長に恵まれた、と、本書をパラパラ見ながらシミジミ思う。

Fさんは、すでにこの世の人ではない。『談』が雑誌コードをとっての一般書店流通に踏み切ったのは、いつのことだったか思い出せない。佐藤編集長になってからだったか?

『談』のコンセプトは、しだいに歓迎され流れになりつつあるとはいえ、一部のことで、ジャンルにとらわれた閉塞から脱するには、まだまだのようだ。一面では、チマチマした自分の自己実現にこだわり、ますます小さなタコツボに入っていく動きもある。ちょっとした食い違いや批判に神経をとがらす、「横断的」ということが難しい日本の文化や社会がある。

そうした遅れが、弊害になりつつあるともいえるし、ますますジャンルをこえて、聞き、語り、考える、「Speak,Talk,and Think」は必要になるだろう。

「第1章 人間・主体性」「第2章 他者・共存」「第3章 科学的理性」「第4章 情報」「第5章 人生」「第6章 身体」「第7章 知覚・脳」「第8章 生命」と、刺激的な内容が揃っている。

それにしても、2200円は、安い。ジャンルにかかわらず、志のあるひとは、手元においておくと、大いに役立つにちがいない。

デザインは、戸田ツトムさんが長い。戸田さんと組んで、吉田純二さんもいたね、元気でしょうか。

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2014/11/12

酒を飲んでいるだけだから、酒を飲んだ話しかない。

日田について書くことが、まだまだたくさんあるが、この間の泥酔日常、とくにヨレヨレ泥酔意識喪失帰宅のメモを残しておこう。

先週7日木曜日は、15時ごろから場末の酒場で飲み始めた。打ち合わせもしながらで、話が面白いこともあって、すぐさまビールから焼酎ハイボールへとエスカレート、調子がついた。

2軒目からは1人。ひさしぶりにアメ横の「魚草」へ行った。厚岸の大きなカキが4個で1000円のサービス。大きいし、4個もいらない3個にしてちょうだいと言い、蒸してもらった。すると大将が、1個はホタテの焼いたのにしてくれた。ビールから大七、あまりのうまさにウニも注文、大七もおかわり。

偶然にも、イノセさんの後輩にあたる方がいて、某在外大使館員をしているが所用で帰国中とか、イノセさんに「生きています!」伝えて欲しいといわれ、名刺をあずかった。

というわけで、酔えばマッスグ変えるには早すぎる時間だし、もしかするとイノセさんが在宅かも知れないという口実もあり、北浦和で途中下車。まずは北浦和クークーバードへ。ライブのない日で、キンミヤをロックで飲みながらおしゃべり。

そして「狸穴」へ。途中のイノセさん宅は真っ暗。狸穴では、ホッピー。最初は1人だったが、ほぼ1杯の客になり、隣の埼大生とおしゃべりしているうちに途中から記憶がない。23時過ぎまで飲んでいたようだ。つまり泥酔記憶喪失帰宅。

それでも、イノセさんにメールをしていて、返事があった。台湾の高尾にいると。ショーバイとはいえ、忙しい人だ。

翌8日の朝は少々二日酔いだったが、正午からの四月と十月文庫5『わたしの東京風景』出版祝い会に参加するため、やっとこさ起きて10時半ごろ家を出た。会場は西荻のこけし屋で、とおーいのだ。

長い司会の挨拶、長い牧野伊三夫さんの挨拶に続いて、乾杯の音頭をとる南陀楼綾繁さんの挨拶が、また長い、乾杯のビールを持ったまま、朗読つき!長かったが、なかなかよい話だった。やっと乾杯、どんどん飲んだ。ひさしぶりに会う方も、多く、楽しく、酒がすすむ。

いつもの脱稿旗返還と授与の儀式。前回、四月と十月文庫4は、堀内孝さんの『マダガスカルへ写真を撮りに行く』だった。堀内さんは、宮城に住んでいるから、脱稿旗を持って会場に来ていた。この文庫がキッカケとなり、福音館の月刊「たくさんのふしぎ」最新12月号は、堀内さんの文と写真による「マダガスカルのバオバブ」なのだ。できたばかりのそれが、会場に並んでいた。

脱稿旗は、鈴木伸子さんと福田紀子さんの手に渡った。四月と十月同人のミロコマチコさんと加藤休ミさんが、腹話術風のものをやった。これがもう爆笑もので、笑っているうちに写真を撮るのを忘れてしまった。鈴木さんと福田さんを人形に見立て、腹話術風をやるというものだった。いつもは気難しそうな鈴木さんが、ミロコさんにいじられるままになっていた。

同人で、イラストレーターのイソノヨウコさんは音曲家の柳家小春さんでもあるが、小春として三味線をひき、めでたい長唄などを唄った。鈴木さんの小学校時代からの友達のバレーレッスン風エクササイズのような実習風のものや、福田さんのご主人が、なぜか、アイロンかけの芸を見せたりした。

楽しくおわりに近づき、手締めは、前回に続き、おれがやることになっていた。日田で覚えてきたばかりの「日田式手締め」は、「よお~チョンチョン、よう~チョンチョ」と2回やるのだが、おれは今回は著者が2人なので、「よお~チョンチョン」で締めることにした。「二本締め」ってことになるか?うまくいった。

会場は15時までだった。もちろん2次会がある、この時間の西荻で開いているのは「戎」ぐらいだ。

西荻南口の通りは「戎」が何軒もあって「戎通り化」しているが、そのうちの一棟を貸切、ぎゅうぎゅうに詰めて40人近くいた。四月と十月はミロコさんを始め、若い女性の同人が増えたので、ひときわにぎやか。そして、ミロコさんが、この日できあがって届いたばかりの新作絵本『オレときいろ』を持って立ち上がり、ページをめくりながら朗読。タイトルもよいが、いい本だ。とどまるところをしらない大ブレイク爆発驀進ミロコパワー、まだまだやってくれるだろう。

同じテーブルの南陀楼さんに、乾杯の挨拶、話はよかったけど長すぎる!と言ったら、「え~、長かったかな~、へへへ」。

もうみなさんかなりできあがってきたけど、戎は2時間で追い出されるのだ。3次会の会場は中野の「ブリック」。いくらか帰った人もいたけど、2階を貸切状態。ボトルを何本あけたでしょうかねえ。エロ話で盛り上がりましたねえ。

さらに、帰る人もいたが、誰もいなくなるまで帰らない人もいて(おれとか)、一度締めて、同じ場所で4次会に突入。それでもまだ20人近くいたと思う。おれはもう泥酔状態、思い出せる場面はコントンとしている。つぎつぎ繰り出されるミロコさんからの質問にテキトウに答えていたような気がする。そういえば、ミロコさんが泣いていたけど、おれが泣かせたわけじゃないだろうな。

解散は22時過ぎだったかな?

四月と十月文庫、来年は、3冊か4冊の刊行予定になっている。そのうちの一冊を書くのがおれで、ブリックでは、牧野さんほか、発行元「港の人」の社長、編集を担当してくれる方もいたので、進行について打ち合わせがあった。というのを、うっすら覚えていたていどだったが、何を話していたか思い出せない。

翌日9日、牧野さんから、「昨晩打ち合わせをさせていただきましたとおり以下のようなかんじで進めさせていただきたいと思いますが…」とメールがあって、えっ、牧野さんは酔っていなかったのか。とにかく、「理解フノー」を再構成したり、書きおろしたりの作業が始まるようだ、と、まだ他人事のような。

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2014/11/11

いま、森を見よ。「三隈川かっぱめし」の巻。

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最初の写真は、「日田きこりめし」や「三隈川かっぱめし」がある寶屋のレジまわり。

前のエントリー、寶屋さんで「日田きこりめし」を食べたのは11月1日の昼のことで、「三隈川かっぱめし」は夜の「かっぱめし完成祝賀会」のときに食べることになっていた。

ところが、その前に、16時から、ヤブクグリの懇親ボーリング大会があるというのだ、ちょっと体力的に自信がないなあと思ったが、初めての土地、初めての人たち、懇親することに意義ある、参加することにした。

それにしても、日田にはボーリング場も、その同じ建物に映画館もあるのだ。映画館やボーリング場があるなんて、いまや、よほどの文化的な町といえるだろう。14時から牧野さんたちはヤブクグリの役員会があったので、おれは1人で日田の町を散歩してから、ボーリング場へ行った。何十年ぶりかのボーリング、一挙に3ゲームにはまいった。しかし、20名ほどの参加者は初対面の方が多かったが、たちまちよい懇親になった。

日田の町のことは後日書くことにして、はやく「かっぱめし」を食べることにする。

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ボーリングのあと、「かっぱめし完成祝賀会」の会場は寶屋4階だった。19時過ぎに着いた。そこは、正面に舞台まである大きな宴会場だ。そして舞台には、なんと、「かっぱめし完成祝賀会」ではなく、「遠藤哲夫さん、ようこそ大分県日田市へ!」とあるではないか。「日田きこりめし」と「三隈川かっぱめし」を食べて感想を述べるプログラムは聞いていたが、このように迎えられるとは。恐縮しながら、もう流れにまかせるしかないとカクゴする。

40名ほどいるみなさんに紹介され、カンパーイ。早速、「三隈川かっぱめし」を食べることになった。「きこりめし」は丸型だったが、こちらは縦長だ。なんだか楽しそうな牧野さんの絵が一杯の包装紙には、「丸太の筏の巻き寿司」とある。開くと、「きこりめし」のときのように、ふわ~んと杉の香りがたった。この匂いにはかなわないね、食欲が刺激される。

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容器は、杉をスライスしたものを、紙のように折り曲げて作られていた。なかなか手の込んだ技術と仕事だ。(これは食べたあと、折り曲げたところをほぐすと、平たい一枚になるから持って帰れるはずだったが、酔っぱらって忘れてしまった。もったいないことをした)

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輪ゴムをはずし、ふたを開けると、三本の海苔巻きが、そのまま切らずに入っていた。玉子焼きと鶏と漬物が付いて、にぎりめし弁当の「変形」といえるが、これが「丸太の筏の巻き寿司」というわけだ。それに「かっぱめし」という名前がついているには、楽しい物語がある。

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包装紙の表には、三隈川の案内絵図を囲んで、「日田昔話より おいらとヤブじい」の絵物語がある。「おいら」というのは、河童のことだ。それを見ながら、海苔巻きをかじるのだ。これが楽しい。筏見たての海苔巻きは、もちろんカッパ巻だが、3本それぞれ味がちがう。

河童伝説のあるところ、川や水と切り離せない生活があった。日田も、そうだ。三隈川は、かつて筏が行きかったところで、川岸には製材所も多い。それに、昼間散歩したときに見たが、大きな屋形船が何艘も係留され、川には鴨がたくさんいた。鮎が棲み、鵜飼も行われるという。そんな土地の物語もオカズにしながら食べる弁当は、ここならではの楽しさがあった。

しかも、この海苔巻きの海苔は、三隈川が筑後川となって注ぐ有明海の海苔だという。その話を、ヤブクグリでかっぱめしの開発を担当したかたがするのを聞いて、素晴らしいと思った。

おれは「川の社会学」を思い出した。川がつなぐネットワーク。もともと林業など山の生活は、河口や海辺の町と密接な関係にあった。林業の「再生」は、川がつなぐネットワークの「再生」でもあるのだろう。

何重にもうまい「三隈川かっぱめし」だった。

実際、寶屋さんの手による「日田きこりめし」や「三隈川かっぱめし」は、味がしっかりしている割には、やさしいさっぱりした味で、とてもうまかった。町に、こういう食堂があるのは、心強い。

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当ブログ関連
2014/10/23
泥酔野暮トーク「川の社会学」。

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2014/11/10

いま、森を見よ。「日田きこりめし」の巻。

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北九州での『雲のうえ』の取材のあと11月1日に日田へ行ったのは、「ヤブクグリ」の企画による、「ヤブクグリ弁当部 寶屋謹製」の「日田きこりめし」と「見隈川かっぱめし」の2種類の弁当を食べ、9月に発売になったばかりの「かっぱめし完成祝賀会」に参加するためだった。

それがとんでもなく面白い展開になるのだが、今回は、あとから発売の「かっぱめし」は後日にして、最初に発売になった「きこりめし」についてのみ書く。

画家の牧野伊三夫さんが日田に通い「ヤブクグリ」なるものをやっていると知ったとき、最初は、ヤブのなかを歩きまわる活動をしているのかと思った。牧野さんなら、そういうミョーなことをしていてもおかしくはない。

ところが「ヤブクグリ」とは、「日田杉」で有名な杉の学名だった。それを名前にした、集団というか団体というか群れというか、アメーバのようなグループなのだ。

冊子『ヤブクグリ』「日田」創刊準備号に載っている、ヤブクグリ会員規約によると、スローガンは「いま、森を見よ!」、趣旨は「森を愛する仲間が集い、日田の林業を中心に何か愉快なことをやっていく会」、活動目的は「日田らしい未来の構築」というもので、活動内容や会員資格、「一、人の悪口を言わないこと」といった会則まである。会員は、日田だけでなく、福岡や長崎や京都や東京…各地にいて、「目黒のさんま係」だの「市長係」だの、なにがしかの係を受け持っている。

日田へは北九州市の小倉から、日田彦山線の各駅停車で行くと2時間弱だが、久留米周りの特急を乗り継いで行くと30分早く着くそうだ。牧野さんとおれは各駅停車を選んだ。

197001「きこりめし」は、昨年の東京ADC(アートディレクターズクラブ)賞やグッドデザイン賞まで受賞した弁当だ。

11時ごろ着いて、駅前の大きな食堂、寶屋さんのテーブルに座ると、早速「日田きこりめし」が出てきた。

弁当は、牧野伊三夫さんの絵の包装紙に包まれ、上にのった箸袋には「いま、森を見よ。」の言葉が見える。その箸袋を横に置き、弁当の包装を開くと同時に、杉の香がたった。おお、なんとよい杉の香りだ、いまこの香りを知っている人がどれぐらいいるのだろう。まず、この匂いがよい、食欲がそそられる、うまそうだ。

弁当は、ヘギほど薄くはないが薄いシッカリした日田杉の板でつくられている。形が幕の内弁当のように、四角ではなく丸いのは、ヤブクグリの特徴である木のネバリと、それを丸く加工する技術の誇りか。どことなく不定形で、手づくり感にあふれている。

198ふたをとる。すると、ごはんの上に丸太が一本のっている。いや、これは、杉の丸太に見たてたごぼうだ。これだけ太いままのごぼうだと、見るからに堅そうだ、おれの入れ歯でかじれるか気になる。

箸袋のなかには、やはり日田杉の薄い板で作ったノコギリと箸が入っている。箸は飛騨杉だ。飛騨と日田の関係について書くのも、後日のことにしよう。これらが、出揃うと、なかなか楽しい。しばらく眺めていたくなる。

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のこぎりは、丸太をひくときの大きなノコギリを模したもので、歯が付いている。これで、ごぼうを切るのだという。ごぼうは堅かろう、この薄い木のノコギリで切れるのか、と思いながら歯をあて、ノコギリをひくと、意外にやわらかく、やわらかい木をノコギリでをひくように、歯が入っていく。おお、これは面白い、楽しい。

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こうして食べたごぼうは、これまでに食べたことがないほど、やわらかで風味があって、うまかった。もしかすると、一本の切り立てを食えるから、風味がとばずに生きているのかも知れない。それに、日田の土が関係しているのか、あとで町を歩いているとき八百屋で聞いたら、このあたりのごぼうはやわらかで風味がよいのだそうだ。これはなかなかよい。

おかずは、鶏肉、椎茸、煮たまご、コンニャク、ニンジン、栗など、すべて日田産。色も鮮やかで、正月のおせちのようだった。高菜などの漬物も、いい役をこなしていた。それに、ごはんもうまく炊けていたし、たっぷりあって、お腹いっぱいの大満足だった。

箸袋の表を見たら、「ヤブクグリ新聞」になっている。1991年9月27日に九州北部を襲った台風19号の被害と「林業再生」の話しが載っていた。

この台風は、おれも忘れられない。その日その時、おれは知人の運転する車で、日田から南へ直線距離で50キロばかりの熊本県立野のあたりにいて、林業地帯に向かっていたのだが。白川に土砂ごと流れ込んだ大木が、土手まで破壊するようにぶつかりあいながら、雷が連続して落ちているような激しい音をたて、木の皮と皮がむけた大木で埋まって流れているのを見た。水の流れというより大木と土砂の津波という感じで、じつに恐ろしい光景だった。

30年50年100年かけて育てた木は、また同じような歳月をかけて再生するしかない。しかし、それをやる人が少なくなっている。林業も、こころもとない。この記事には、こうある。「あれから23年。日田市の山々にはすらりと杉が立ち並び、危機は乗り越えたかに見える。しかし、台風19号以降、未だに人が立ち入っていない場所は珍しくないという。木材価格の低迷や担い手不足には歯止めがかからず、林業を立て直す道筋は見えていない。」

そして、「この「日田きこりめし」の収益の一部は、間伐などの山林保全活動に役立てています。」ともある。

弁当は、「ヤブクグリ」の企画だが、作る人がいなくてはできない。そのために一肌脱いでくれたのが、日田駅前の立派な大衆食堂、寶屋の社長、佐々木美徳さんだった。お名前の「美徳」に嘘はない。

「日田」創刊準備号に、「日田きこりめし」が出来るまでが書かれている。「最大の難関は、ごはんの上にのせる杉丸太に見たてた牛蒡作りだった。まず、丸太に見えなくてはならない。そして、割れやすい杉板製のノコギリで切れるやわらかさでなくてはならない。さらに、とびきりおいしくなくてはならなかった。寶屋の佐々木さんに厳しい条件を伝える一方で、牛蒡自体、そんなにうまいものだろうかという懸念もあった。とはいえ牛蒡の丸太は、この弁当の主役。佐々木さんの腕にかかっていた。」

「厳しい条件」をつけられて、佐々木さんは大変だったろう。だけど、みごとにクリア、「面白いし、おいしいと評判」なのだ。

佐々木さんに、弁当をほめると、「うちはチャンポンが自慢だからね」という。大きな店内は、昼飯どきには、うれしそうにチャンポンを食べる客で一杯だった。宴会のときに食べた、ほかの料理もうまかった。

日田きこりめしを食べて、いま、森を見よ。わざわざでも日田を訪ねて、「日田きこりめし」を食べる人が増えますように。1個880円、要予約。

そうそう、食べたあと、ひもでとめてある器をばらせば持ち帰れたのに、バタバタして忘れてしまった。この残骸からも、杉の可能性が見えてくる気がする。もっと杉を使えたら。

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日本初!のこぎり付「きこりめし弁当」の案内はこちら。
http://prefab.jp/post/646

ヤブクグリのフェイスブックページはこちら。いまのところ、おれの写真が続いて載っているけど。
https://www.facebook.com/Yabukuguri

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2014/11/06

北九州→日田→北九州、取材と泥酔、メモ編。

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10月28日に北九州入りするように言われていた「雲のうえ」の取材、12時30分羽田発北九州空港行きスターフライヤーに搭乗。何回か利用しているが初めて窓際の席がとれたうえ絶好の飛行日和、下界を眺めて楽しんでいると、アッというまの到着だった。写真は燧灘と四国。

小倉の指定されたホテルにチェックイン後、すでに26日に北九州入りして取材をしている皆さんと、18時に武蔵で合流することになり、まずは旦過市場の赤壁で角打ち、ふわ~北九州に来た~の気分。のち、魚町銀天の裏側の、「雲のうえ」には登場しそうにない、いまどきのヤンキ―風の男女がやっている新しい居酒屋に入り、刺身でグビッ。北九州に来たら、やっぱり魚だ。

18時に武蔵に着くと、すでに編集委員の3名(つるやももこさん、有山達也さん、牧野伊三夫さん)、ライターの姜尚美さんと写真の齋藤圭吾さんは、この日の取材を終えて到着していた。そして、ほかにも、初めて会う雲のうえのしたの吉井さんや、ほかにもほかにも、どんどん増えて、どんどん自分の名刺は減りひとの名刺が増え、もうなにがなんやら、とにかく楽しく飲んで、わあ~と盛りあがり、たぶん10時ごろ解散で街に繰り出し、よくわからないのだが、最後は丸和前で飲んでいた。

翌日29日も30日も31日も、1日2日は日田で、また小倉にもどった3日の夜も、毎晩0時すぎたころには丸和前で飲んでいることになるのだが。

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29日から取材は始まった。今回はうどん特集。姜さんとおれと2チームに別れるので、市役所からは2台のクルマと2人の担当の方がついてくださり、写真の齋藤さんとアートディレクターの有山さんは、2チームのあいだを行ったり来たりしながらすすんだ。

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最初の1軒目は、北九州には少ない蕎麦が有名な蕎麦屋で、取材のうどんを食べたあと、やはり蕎麦も食べてみたくなって蕎麦も頼み、清酒が揃っているので酒も飲みたくなり酒も飲んでしまった。北九州で初めての蕎麦酒は、なかなかうまかった。門司に移動、一軒取材し、一軒で飲み、小倉にもどってバー、のち牧野さんとおれだけ丸和前へ。

30日、6時開店で、うどん玉が売り切れしだい閉店というお店の取材。朝5時にホテルを出て、お店に5時半着だったが、前夜の酒の最後は、やはり丸和前で1時すぎだった。朝は薄暗く冷え込み寒かった。姜さんは昼ごろ離脱、八幡西区のお店を取材したのち、夕方には牧野さん以外の編集委員と齋藤さんも離脱、牧野さんとおれは、また街で飲み、最後は丸和前だった。

15331日は、お店の取材は無し。調べたいことがあって中央図書館へ。これまでの北九州市滞在は10数日といったところだと思うが、いわゆるメジャーな観光はしたことがないので、小倉城なんぞを眺めたり松本清張記念館に行ったりしたのだが、なにより市立美術館分館で3日まで開催の「築城則子 縞の今」を見られたのがよかった。「小倉織復元30周年」を謳った展示は、近代になって途絶えていた小倉織を復元した築城さんの「人」を見るようだった。「素晴らしい!」の一言。

そして夜は、前夜牧野さんに連れられて行ったひろちゃんの店へ、開店早々の6時に、1人で行った。ひろちゃんが、何度も「明日は1人でいらっしゃい」と言ったし、興味があったからだが、ほかの客がいなくなった9時半ごろからは、2人で差しつ差されつで、小学生のときに長崎で被爆した80歳のひろちゃんの話しを聞きながら0時を過ぎてしまい、帰りは丸和前で泥酔。

1日、牧野さんと、小倉発9時15分の日田彦山線各駅停車で日田へ、ヤブクグリを訪ねる小旅。2時間弱で到着。ヤブクグリ会長の黒木陽介さんの出迎えを受け、駅前の食堂、寶山へ。

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とにかく、おれは牧野さん考案?原案?デザイン?の弁当、「きこりめし」と「かっぱめし」を食べ、かっぱめし完成祝賀会に出席して飲むのだ、ぐらいの気軽な気分で行ったのだが、着いてみると、寶山の玄関の案内に「ようこそ日田へ、遠藤哲夫様」とあるし、昼食にビールを飲みながら「きこりめし」を食べたあとはボーリング大会に参加することになり、あれよあれよというまに、楽しいことに巻き込まれ、2日はヤブクグリの製材所で「遠藤哲夫用「理解フノー」執筆構想一献卓袱台」なるものをつくり、それを持って帰るということになる、まったく想定外の展開になったのだった。もちろん、1日も2日も0時過ぎまで飲んだ。

3日、牧野さんは机、おれは卓袱台、担いだり持ったりしながら、日田発12時5分の日田彦山線各駅停車で小倉にもどったのだが、おれの卓袱台が、ちょうど列車の座席に収まる寸法だったので、この上に酒やつまみを置き、しばしの小宴会となった。

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夜は、雲のうえファンククラブ「雲のうえのした」の皆さんと、たんぽぽで7時ごろから飲み始め、取材で北九州に来ていたスペシャルゲストも加わり、午前0時すぎの丸和前が最後にならず、たぶんあと2軒ハシゴし、3時ごろまで飲んだのだった。

4日、1週間ぶりに帰宅してみると、もう雲のうえの取材など遠い昔のような気がして、とても原稿なんか書く気になれない。今夜も丸和前に行きたいな~の気分なのだ。

ひさしぶりの北九州、初めての日田、面白いことテンコ盛りだった、詳細は後日。

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