快楽が足りない!
今日は「快楽」だの「セックス」だの「エロ」だのが、頭の中でグルグルしている。
昨年末の恩田えりさんとのトークでは、「和食無形文化遺産一周年」のことから始まって、日本料理をめぐる伝統や文化について、あれやこれや話しているうちに、話題が「快楽」のことになった。
というのも、そのトークの少し前に、おれがツイッターで「快楽」をつぶやいていたからで、えりさんが、アレなんですかと。
いまツイッターをチェックしてみたら、こんなぐあいにつぶやいていた。
「まだまだ快楽が足りない。快楽を悪とする考えや政策を捨てよう。快楽を推進する政党を!」(0:39 - 2014年12月7日)
「快楽が足りない。必死すぎる。」(0:46 - 2014年12月8日)
「快楽は求めるものでなく、身をまかせるものなり。もっと快楽に身をまかせましょう。ああ、快楽、快楽。」(0:51 - 2014年12月8日)
いずれも投稿の時間からして酔っていたにちがいない。だけど、おれは、酔っているときのほうが、いいことをいうらしいのだ。でも、このつぶやきは正気でも同じ、トークのときにもいったが、おれは「快楽主義者」なのだ。
総選挙前だったので、「快楽を推進する政党を!」なーんて書いているのだが、いまのように快楽を「悪」とするような風潮が大勢である状態は、かなり「不健全」だし、民主主義からはほど遠い、と正気のときも思っている。
最近も、ライブドア・ニュースに、こんな見出しの記事が載った。
安藤美姫にスケート連盟激怒 異例の自粛要請も空振りし周囲困惑
2015年1月3日 17時0分
http://news.livedoor.com/article/detail/9637324/
この記事の最後は、このように終わっている。
「以前から、スポーツ選手が私生活面でも過度に保守的な純潔さを求められ、自由な恋愛なども許されずに選手たちが窮屈な思いを強いられる日本の状況に異議を唱えてきた安藤。賛同の声も多いそんな安藤の“進んだ”価値観が、日本で受け入れられる日は果たしてくるのだろうか。」
まあ、こんな記事が載っている日本だからねえ。
で、今日、たまたまド厚い本『談100号記念選集』をパラパラ拾い読みしていたら、「5章 人生」の、植島啓司さんによる「快楽のさまざまな様態」が目にとまった。これが、すごくおもしろい。
植島さんは、宗教人類学者で、日本内外の大学の教員や研究者をやりながら、「40年以上、世界各地で調査を続けている」。
「そもそも快楽というのは、人間が生きていくうえで、他人や世の中とうまく適合するために必要不可欠なものだと思います」「しかしながら、これまでの倫理観の強い日本の社会では、快楽は悪であるという考えが主流でした。勤勉や努力をよしとする倫理的な束縛の中で、快楽は非常に逃避的なイメージでしか捉えられることがなかった。じつはそれは、世界との適応/不適応の問題であって、善/悪の問題ではないにもかかわらずです」
「特に、ここ二〇〇年くらいの間、日本は非常に倫理観の強い社会構成によって、快楽が罪悪視されてきました」
これは、食文化の問題と深く関係するのだが、それはともかく、「純潔」にこだわっている連中がのさばっているから、セックスのことが善/悪のことにゆがみ、これって、少子化の一つの原因でもあるまいかと思うね。
で、植島さんは、「さて、そうやって快楽を罪悪視することでいい社会になったかといえば、そうとはいえません」
そりゃそうだ。植島さんは、ちっともよくなっていない例をあげたのち、こういう。
「今や、われわれをこれまで律してきた倫理・道徳に対して、徹底的に批判を加えねばならない時期に立ち至っていると、僕は思うのです」
おれは、ここで大拍手を送った。
いやあ、おもしろい。さらに、さらに、「日本の社会では子供の快楽は非常にたくさんあるのに、大人の快楽は乏しい。(略)飲む・打つ・買うという快楽しか存在しないというのは、非常に貧しいと言わざるをえません」
ああっ、おれは、その飲む・打つ・買うですら不十分だ。
「しかも、日本の遊びは、セックス一つとっても、バリエーションが非常に乏しい感じがします」と、セックスのバリエーションについて、誌面をさく。なるほどねえ、快楽もエロも貧しいねえ。
「快楽をめぐって、もう一つ気になること」として「過度な耽溺と、過剰な潔癖」をあげている。いろいろなことで、のめりこむか、排除か、になっているわけだ。
「一度いいとなるとそればかりを奨励し、悪いものとなったら徹底的にダメだとなってしまう。どうしてこれほど病的な「潔癖症候群」が生まれてしまうのか。人間は長く生きることに価値があるのではなく、いかに生きたかが問題だと思います」「現代のアメリカも日本も、分別顔した中年の国になってしまったかのようです。」
で、最後に「快楽の本質とは何か」について、ご自分が好きなギャンブルの例をあげ、述べたのち、こうまとめる。
「それは、セックスにも似ています。自分の思いどおりにするよりも、何かの手によって思いどおりにされる快楽の方が、はるかに大きい。不確定要素が強いほど、快楽は高まる。それこそが、快楽の本質だと僕は思います」
はあ、何かの手によって思いどおりにされたいねえ。かくして、おれの頭は、快楽とセックスとエロで、ぐるぐるしながら、なにかやらかしてみたいと思っているところ。なのだが…。
はて、今日は、何を書いているのやら。とりあえず、エロトーク第3弾を企画しようかな。
当ブログ関連
2014/11/14
『談 100号記念選集』。
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