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2015/01/10

発売中の『dancyu』2月号に、おれのフチが欠けた酒器が載っている。

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先月末、いや、昨年末に、掲載誌が送られてきていた『dancyu』2月号は、すでに6日に発売になっている。

特集は「日本酒クラシックス」のタイトルで、毎年恒例といってよい、日本酒特集。「家呑みを語る あの人の、この盃 呑みたくなる酒器」というページがあって、おれが愛用の酒器が、おれのコメントもついて載っている。

ほかにご登場のみなさまは、落語家の春風亭一之輔さん、文筆家の木村衣有子さん、グラフィックデザイナー、作家の太田和彦さん、フリーアナウンサーの平井理央さん、漫画家の吉田戦車さん。

おれの肩書きは、いつも「フリーライター」でよいのだが、そういうわけにもいかないらしく、編集サイドにまかせている。今回は「大衆食堂の詩人」と。

ま、ついでのおりにご覧ください。

ところで、その酒器。もう長い間、どんな清酒を飲むにも、これしか使ってない。

ずいぶん前にフチが欠けてしまった。そのまま。だいたい、皿でも欠けたぐらいでは捨てないで使っているから、特別に思い入れがあるわけじゃないけど、ほかにリッパな盃があっても使う気がしない。おれ自身、無欠を誇れるような人生でもないし。いまでは、すっかりおれの心身に馴染んでいる。

掲載のついでに、いつごろ買ったか調べたところ、1980年代の始め、美濃で買っていた。80年代は、美濃や瀬戸へ、何度か行った。江原生活料理研究所の開設や、しる一の開店、そのあとほかの飲食店の開店の手伝いなどが続き、半分は仕事。それから、バブルのころは、関西へ遊びついでに寄ったりもした。

この酒器は、織部焼だが、そのころおれは(茶をやっていたわけじゃないが、日本料理に関係するから)、わびさび茶から大名茶へ、とくに有楽、織部、遠州あたりへ興味が移っていた。それで、美濃でこれを見たとき手を出した。

80年代始めのころは、東京のデパートあたりでも、織部焼はめったに店頭に並ぶことはなかった。おれの記憶では、織部が一般に広まったのは、『美味しんぼ』がきっかけで、魯山人が一般に知られるようになってからだと思う。魯山人から織部を知ったという人も少なくないだろう。

ちなみに、中公文庫の『魯山人味道』は1980年の発行、『魯山人陶説』は1992年の発行、ビッグコミックで美味しんぼの連載が始まったのは1983年。

80年代、美濃や瀬戸の窯や町を訪ねて、最も衝撃的だったのは、瀬戸の変わりようだった。80年代始めは、まだ「瀬戸物」の町だった。町の中心部を流れる川に沿って、瀬戸物屋が軒を連ねていた。

だけど、瀬戸の窯は曲がり角だというウワサもあった。一つは、原料の鉱山が先細りのこと、一つは、発展する名古屋や豊田などの住宅地として期待が高まっていること。原料は輸入に押されてもいたが、鉱山や窯の土地は、住宅地への利用のほうが「経済効果」が高くなる動きにあった。

80年代の後半、瀬戸を訪ねたときは、軒を連ねていた瀬戸物屋は、見た目、半分以下になっていたし、とくに小さな店舗は壊滅状態で、無残なさびれぐあいだった。わずか数年のあいだの、この変貌には、びっくりした。

行くたびに焼物の話を聞いて親しくしていたオヤジの店も空き家になっていた。その前で、しばしボーゼンとしましたね。

そのオヤジは、焼き物にとりつかれ、自分で窯を持ち、とくに「利休茶碗」に近づくため苦労していた。いくつも作っては捨てを繰り返していた。そのなかの、いくらかマシという一つを、オヤジがくれるというのでもらって、飾っておけばよいものを、そういうココロのないおれは、めし茶碗に丁度よいので使い、いつもおやじのことを思い出していた。その茶碗は、十年少し前、うっかり落とし、割れてしまった。

この酒器を見ていると、そんなことまで、思い出すのであります。

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