「政治的現実」というやつ。
さきほどチラッとツイッターを見たら、「政治的現実」という言葉がチラチラしていた。どこか地方議会の議員さんらしい人や、議員さんではない何人かが、この言葉を使っていた。
面白いことに、議員さんがさす「政治的現実」というのは、政治業界内つまり永田町を頂点とする業界内的現実であり、議員さんでない人の場合は日本や世界における政治的現実をさしている場合がほとんど、という違いがあるのだな。
業界にドップリ浸かり、業界のなかでの自分の生き方に腐心していると、業界的現実を世間的現実と思ってしまう傾向は、政治家だけに限らない。出版業界あたりでも、よく見かける。学術業界あたりにも、根強くあるようだ。
よく見かけるし、根強いが、とうぜんながら世間は、そんな業界の事情に関係なく動く。
今日は、佐賀県知事選で国政与党が推す候補が敗れたことをめぐっても、いろいろな「見解」が流れている。沖縄、滋賀に続いて、自民党の3連敗ということだが、「政治的現実」においては、なんでも「タテ」の人間関係で判断するということがある。これも政治業界に限らないが、しかし、近年はタテのエネルギーばかりでなくヨコのエネルギーが強く働くことがある。
経済成長についても、、「タテ型成長」つまり「上」へ向かうエネルギーばかりを計算して、ヨコへ向かうエネルギーで成長することを考えない惰性があるが、このへんも変わってきている。
たいがいの業界内の主流は、あいかわらず「タテ型」志向なのだが、これはもう先細りどころか、競争の潰しあいのガツガツしあいで、展望が開けない。展望が開けないエネルギーはタテからはみ出してヨコへ向かう。ま、佐賀県知事選も、そういうふうに見ることができるかも知れない。
とにかく、広い政治的現実を見れば、ヨコへ向かうエネルギーをショーバイにする機会は増えているわけだ。政治的にも経済的にも不安定度が増すから、ますます機会が増えるだろう。
モンダイは、タテとヨコでは、「よい」基準が異なることだ。それは、カネの動き方動かし方にも関係する。
これもまた一つの政治的現実というやつだ。
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