« オノマトペな味覚。 | トップページ | 催し3つ。 »

2015/01/28

「ハレ」と「ケ」の味覚。

食文化系の文章によく出てくる語彙に、「ハレ」と「ケ」がある。柳田國男の発見らしいのだが、いまでは、非日常=ハレ、日常=ケ、というふうに使われることがある。

おれは、この語彙を、そのように使用することは、ほとんどない。

もちろん、ハレは非日常にちがいないのだが、それには、ワケがある。

とくに飲食については、「ハレ」といえば、単なる「非日常」ではなく、行事など歳時記に従った生活におけるハレであり、「儀礼や祝祭、年中行事など非日常の時空間、節目折目」における飲食のことだ。

柳田國男の時代には、それが明快に存在した。

いまでは、「儀礼や祝祭、年中行事」など関係ない非日常が、日常のなかに、いくらでも存在する。日常的ではないが、「儀礼や祝祭、年中行事」とも関係のない非日常の飲食が、けっこうある。

普段は縁がない飲食だけど、なにやらテレビや雑誌などで評判だしと、山の手のオクサマなどが声をかけあって、いわゆる下町のやきとん屋などを訪ねるのは、非日常だが、「ハレ」とは違う。

それに類似することが、けっこうあるのだ。大衆食堂など縁のない日常のひとが、社会冒険や社会見学をするように、そこを訪ねるのも、「非日常」だ。ある人たちにとっては、鴬谷の信濃路を訪ねるのは、とても非日常的デキゴトである。それを非日常だから「ハレ」というのは、同時に、それとは違う日常を「ケ」というのは、おかしい。

だけど、単純に、「非日常=ハレ、日常=ケ」というぐあいに使われる場面も多い。

それは、あまり目くじらをたてるようなことではないかもしれないが、「ハレ」の飲食には、観念的な味覚が付き物だったし、それが、日本人の味覚の「上品」なモデルとなっていたことを忘れてはならないだろう。

しかも、その飲食では、季節ごとの情緒や、行事にまつわる伝承や物語性などが、味覚に関係した。江原恵が指摘した、日本人の「観念的味覚」と深く関係するところなのだ。

はあ、酔って書いているから、わからなくなってきた。おれにとっては、酒を飲むのは日常、飲まないのは非日常。この日常を「ケ」とはいわないし、この非日常を「ハレ」とはいわない。しかし、飲まない日が、なんらかのワケありの「精進潔斎」の日ならば、「ハレ」ともなるかな。そーいうこと。

| |

« オノマトペな味覚。 | トップページ | 催し3つ。 »