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2015/04/09

4日の「川の東京学」浦安フィールドワークは、大いに楽しく有意義だった。

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参加野暮11名。13時、東西線浦安駅集合だった。いつもはダラダラとしか集まらない、好き勝手やりたい放題言いたい放題の野暮が、数分遅刻の一人を除いて時間までに集まるというイジョーさ。野暮も「ヤル気」をみせることがあるのだ。

「川の東京学」は、昨年、小岩の野暮酒場で、有馬さんとおれが、山本周五郎の『青べか物語』の話になったときアイデアが浮かんだ。

この小説は、昭和の初め、1925年ごろの浦安が舞台だ。とくに江戸川岸にあって「蒸気河岸」と呼ばれる、浦安と、東京の深川や両国などを結ぶ「通船」の発着所あたりと、そのそばの運河(境川)に沿って成り立ってきた浦安のまちとひとが中心になっている。

有馬さんとおれは、人びとやまちが川でつながっていた時代が、すぐそこにあったことについて、ああでもない、こうでもないと話し合っているうちに盛り上がり、「川の社会学」ってのをやろうということになった。

最初の1回目は、野暮酒場でトーク。今回から「川の社会学」を「川の東京学」に変えて、まずは浦安フィールドワークとなったしだい。

「フィールドワーク」などと学術っぽい表現だが、野暮は単なる野暮で、野暮なニンゲンとして歩きまわるだけだ。

浦安駅に集まった一行は、まず、駅前のコンビニで、酒とツマミを大量に買って、各自その袋をぶらさげ、片手にはアルコールの缶を持って飲みながら歩くという姿になった。10人ものニンゲンが、そのような格好でまちを歩いていると、じつにアヤシゲで、通行者のなかには不審な眼を向けるひともいた。

最初に向かったところが、浦安橋。この橋が完成したのは1940年(昭和15年)で、江戸川をはさんで東京と千葉の浦安は、初めて「陸」つながりになった。とはいえ、交通機関のほうは、まだまだ「通船」が活躍していた。

浦安橋から江戸川土手沿いに、蒸気河岸があったところへ向かう。船宿、釣り船、屋形船などが営業している。その中に、『青べか物語』に「船宿千本」の名で主人公並に登場する、船宿吉野家があった。このあたりが蒸気河岸と呼ばれていたところだ。吉野家の看板には、「山本周五郎著「青べか物語」の船宿千本」とあるが、観光名所的な派手さはない。作家も作品も、どちらかといえば地味だし、『青べか物語』は地元のひとにとってはビミョーでもあったようだ。

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現場に行ってみて、まず地下鉄東西線の鉄橋が、昔の蒸気河岸にあるのに驚いた。もちろん電車に乗っていては気がつかないのだが、船から電車になっても、浦安と東京をむすぶ「場所」が同じなのだ。

その近くに、境川の水門があって、みごとな桜が二本、咲いていた。その下で、本格的な宴会となった。

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しばらく飲み食いして、境川に沿って歩く。運河の護岸壁は、戦前のまま残っているところもあり、あるいは今風遊歩道風なデザインへの改修が進行中のところもあるが、川筋は変わっていない。

家並みも、ところどころ古い建物が残っている、川には船もつながっている。昔は川筋が街道筋の役割を担っていて、川筋に沿って人びとの暮らしが営まれていたことがよくわかる。古い銭湯が、3か所も営業中なのは意外だった。

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ということで、「東京ディズニーランド」のイメージや東京の住民を引き受ける郊外ベッドタウン以前の、古いが今にも通じるところのある海辺川辺のまちの記憶の発掘は、思っていた以上の収穫があった。

途中で宴会休憩をやっているが、けっこう歩きに歩いて、何キロ歩いたか、川筋から離れ南行徳の大衆食堂に腰を落ち着けたときには17時だった。

あとはもう、飲む、食う。この大衆食堂は、歴史40年だそうだが、よかった。そして二次会は、南行徳から西船橋へ出て、やきとり屋。ここで一人合流し合計12人。

もうにぎやかなこと、途中から酔って覚えていない。泥酔記憶喪失帰宅。

さてそれで、次回は、5月4日(月曜の休日)、野暮酒場でトーク。楽しみだ。

これからも、つげ義春の川辺を歩いたり、フィールドワークとトークを重ねることになる。どんどん面白くなりそう。

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