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2015/06/11

豚レバ刺し問題、もう一度。

豚レバ刺しなど豚肉の生食が禁止になるというので、昨日までは、この話題が激しい消費の対象になって、ずいぶんにぎやかだったが、今日はもう遠い昔のことのようにキレイサッパリ忘れられたようだ。

でも、この話を蒸し返すと、またもや「キーッ」なひとが騒ぐだろうか。でも、まあ、事後検討ということで。

というわけで、2015/05/30「豚レバ刺し問題。」の続きを、忘れないように書き残しておきたい。

そこでは、最後に「豚レバの生食の危険は指摘されていることで、それ自体にどうのこうのはないが、リスクと禁止の措置のあいだ、それと文化の関係は、十分論議されたようには思われない」と書いたのだが、どうもスッキリしない成り行きだった。

その一つは、そのものが持つ危険性と、リスク対応の関係だ。

食品の放射能汚染問題では、大いに話題になったリスクだが、ちょっとでも放射能(あるいは放射線とか)はイケナイ、ゼロでなくてはいけないという「1か0」に対して、「1か0」ではなく、リスクを正確に判断する重要性とリスクの数値が議論になった。

そのことで、ま、あいかわらず、ゼロでなきゃいけません「キーッ」というひとはいるし、そういう不安は無くならないと思うが、「1か0」ではなく、リスクを正確に判断する重要性とリスクの数値が議論になったことは、いろいろな理解を深め考え方を掘り起こすうえで、よかったと思う。

ところが、今回は、「1か0」で、簡単に、ゼッタイいけませんということになってしまった。放射能汚染問題では、リスクを正しく判断しようと言っていたひとまで、「1か0」で、ゼロ回答なのだ。

とにかく、「E型肝炎ウイルスに感染するリスク」「サルモネラ属菌、カンピロバクター・ジェジュニ/コリ等の食中毒のリスク」「世界では、豚からの有鉤条虫、旋毛虫等の寄生虫への感染の報告がある」ということなのだが、では、そのリスクの数値は、どのように議論になっていたか。

というと、ほとんど、議論になっていない。なにやらの報告にもとづき、危険があるからイケナイ、リスク即禁止、リスクは無くす、というやり方なのだ。

これでは、前回も書いたように、豚生食を土地(場所)のフォークロアとして生きてきた人たちに対して、まったく無理解で乱暴なやり方だし、文化的なアプローチとしては、かなりの手落ち手抜き強引な決め方だと思う。

せめて、その習慣性の高かった東京の下町の、たとえば前のエントリーでも引用した今回の措置に意見のある「かどや」などの店や、その客の調査をするとか、地域の豚生摂食率と発症率のデータを示すなど、もともと摂食の地域差が大きいはずだから、以前から摂食機会の多かった店や地域にしぼった調査により、もっと摂食実態に即したデータや根拠や判断が必要だったのではないか。そういうことは、あったのだろうか。

そもそも、報道によっても、今回の禁止措置は、個体固有の感染や発症のリスクの高さではなく、牛レバ刺しを禁止にしたことによって豚レバ刺しの需要が広がったことによる。つまり、摂食機会の増大による、措置なのだ。食べる機会が少なければ法的措置など必要ないし、そういうリスクなど、ほかにもいろいろある。こう書くと、それでは、いわゆる「ジビエ」についても禁止措置を、と官僚たちがよろこびそうだが。

ほかの策もあると思うのだが、議論にならず、いちばん官僚たちが頭を悩まさず、やりやすい措置に決まっていく。それに世間も簡単に同調する。「嫌煙ファシズム」を思い出してしまった。

特定の地域やことであれ、人びとによろこばれ、続いていた文化が、いとも簡単に破壊され、忘れられる。もともとそこにどんな文化があったかも、関心がないのだから、いまでは、そこにどんな文化があったかも気にするひとはいないのではないか。

万事がこういう調子で進むようになったら、未来は暗い。憂鬱で、豚レバ刺し食って死にたくなる。でも、死ぬ確率が低すぎるが。

関連→2015/06/15「モツ煮狂い」と「川の東京学」。

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