「食べ物がおいしくなる状況を作り出そう!」。
昔から、有名店の店主が書く、食通談議のようなものは、たくさんあった。そういうものとは違うが。
生産者やメーカーや飲食店などが、ウチはこんなにうまいものを提供している、それは、こうこうこういうものを使って、こうこうこういうふうにして、と、細かいことまで説明し優秀性や優位性をアピールするのは、商売として当然だろう。
そして、各種メディアや、おれのようなライターなどは、消費者の立場で、それをできるだけ正確(客観的)に評価しながら、上手に伝える。
というのはタテマエで、実態としては、提供者側の代弁者であったりパブリッシャー機能を果たしていることが少なくない。
だって、いいものはいいし、もっといいものを知って欲しいし、知りたいというひとがいるのだから、いいでしょ。
どこも問題がないようだし、そういうことで本が売りやすくなったり売れたりすることが多い(会社お買い上げをねらったマーケティングもある)。ますます、メディアやライターは、生産者やメーカー、飲食店などに接近していく。
そこに、いろいろおかしなことがあるのだけど、癒着になれてしまえば、いい湯加減の風呂に入っているようなもので、業界全体がドップリそれに浸かって過ぎてしまう。もちろん、読者も含めて。
だけど、そうではない活動をしている人たちもいる。ときどきこのブログでも紹介してきた非公式物産展など。
『トランヴェール』6月号(特集で「大地の芸術祭}を扱っている)には、「ひと味違った食のプロジェクトで注目される現代美術家のEAT&ART TARO」さんのことが紹介されていて、オッ、と思った。
「もともと調理師をしていたTAROさんがアートの世界へ入ったきっかけは、「おいしいものって何だろう?」というシンプルな問いだった。とかく食材や調理法にばかりこだわりがちだが、料理のおいしさは、どんな場所で食べるか、誰と一緒に味わうかなど、状況によって変わる。ならば、「食べ物がおいしくなる状況を作り出そう!」という遊び心が活動のベースになった」
いま、書きながら思いだしたが、似たような活動をしている人たちがほかにもいるが、みな現代美術系のアーチストだ。アートというのは、因果律では把握や表現が難しいことに分け入ることができるのは確かだと思う。もっと「文章家」も含めて、こういう関心が広がってほしいね。
読者様だって、自分が知りたがっているていどのことを知って満足するのではなく、もっと先まで奥まで考える歓びがあるはずだ。「食べ物がおいしくなる」には、状況以外にも、いろいろある。そこに一個の人間としての、生活の可能性が、豊かにあるはずなのだ。その豊かさに、手を伸ばしているだろうか。
それはともかく、野暮酒場などは、開催のたびに「食べ物がおいしくなる状況を作り出そう!」の精神にあふれ、安酒でもおいしく飲める状況を作り出して楽しんでいるのだから、もう大変なアート空間ですね。
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