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2015/06/21

「生活の底」と「労働の底」。

「77歳の建具屋さんから聞いた言葉が忘れられない。「体だけで働くやつは労働者っていうんだ。頭と体で働くやつが技術者。頭と体と心で働く人は芸術家っていうんだ。本物の職人は芸術家じゃなきゃいけない」 」

ときどきネットで見かける。このあいだ、ツイッターでも見かけた。誰かがツイートし、RTが重なって広がっていた。たいがい、「名言」「感動した」などのコメントがついて、肯定的な反応だ。

ネットで調べると、「77歳の建具屋さんから聞いた言葉が忘れられない」という部分は変化があるようだが、そのあとの文は、ほとんどそのまま、2010年頃まで簡単に遡ることができるが、もとの出典は、わからない。

「体だけで働くやつは労働者っていうんだ。頭と体で働くやつが技術者。頭と体と心で働く人は芸術家っていうんだ。本物の職人は芸術家じゃなきゃいけない」

おれは、プッと吹き出してしまう。まさに、根拠のない循環論法の見本。しかし、このように信じ込んでいる人たちが、少なくないようだ。

もちろん、そういう人たちが、誰でも頭と体と心で働けば芸術家であるというのなら別だ。頭と体と心をフルに使わなくては食べていけるだけの営業収入をあげられないタクシードライバーを、最高の芸術家として称賛するなら別だ。

だけど、そうではないだろう。この「名言」には、「労働者」と「技術者」と「芸術家」という言葉と、「体」と「頭」と「心」という言葉を使いわけて、芸術家と心をヒエラルキーの一番上に置き、その次に技術者と頭、一番底に労働者と体を置く、思想がある。その上で、「本物の職人」を主張している。

この思想は根深く根強い。

飲食や食品の分野にも、よく見受けられ、料理は芸術でございます、なーんていう芸術家気取りの「料理職人」もいる。食の職人は、もてはやされるが、食の労働者は、かなり「底」の扱いだ。

たえず、誰かを下に置き、自分を上に置かなくては気が済まない人は、少なくないのだが、そのために利用されるのが、飲食や食品だったりする。

こういうことが、とんでもなくあって、たとえば、ブロイラーだの無精卵だのを見下す人たちがいる。それらを、心置きなく食べられるよろこびは、簡単に手に入ったものではないし、もちろん、そこに生産者もいれば労働者もいる。にも関わらず、頭も心も使わない、単なる儲け仕事の労働とみなされる。

いわゆる「グルメ」による職人気質や職人仕事礼賛の、片側の影に置き去られていることがある。

最近、津村記久子という作家が気になり、少しずつ本を読んでいる。『二度寝とは、遠くにありて想うもの』(講談社、2015年)の「お菓子の行列の足元」で、こんなことを書いている。

「ドーナツを食べたい時にスイーツを食べたいとは思わないし、スコーンを買ってきた時に、ちょっとスイーツを買ってきたとは言わない。スイーツという異様な広範囲をフォローする言葉には、何か、その菓子本来の実力を覆い隠してしまうベールのような作用がある。/そのくせ、グリコのいちごポッキーのことはスイーツとは言わないし、ブルボンのバームロールのことも、ロッテのチョコパイのことも、スイーツと言っている人は見たことがない。スーパーで特価で売られているものはスイーツではないのだろうか。どれも優秀なお菓子なのに。スイーツ選民主義なのか。」

なかなか、おもしろい。「スイーツ選民主義」は、機械仕事と量産品と労働者の蔑視にもつながりそうだ。

と、こんな影のことを書いているより、頭と体と心で働く人による食べ物を礼賛していたほうが、支持や人気を得やすい。書いたものも売れるだろう。頭と体と心で働く人の仕事を称賛することで、書き手も、芸術家らしき職人たちの仲間入りができる。そして「選民」になった気分を味わえる。確かに、そんな構造もあるようだ。

だけど。だ。

絵の仕事をしている武藤良子さんが、昨日のブログで、すごいことを書いていた。それを読んで、いま、こういうことを書いているのだが。

「生活の底」というタイトル。話をかいつまむと、こうだ。

絵の仕事が減って、「生活の底が抜け落ちるまえに金の入る当てを探さなければいけない」事態になった彼女は、近くの大学の食堂で、夕方から4時間働く仕事に就いた。

「生活の底」で就く仕事というのは、たいがい「労働の底」でもある。そこで、彼女は、体も頭も心も使い、こんな喜びを得る。

「腹を空かせた学生たちにラーメンやカレーをよそい皿を洗いながら、昼の人たちが広げた鍋や釜を洗いまた次の日に使えるよう畳んでいく仕事だ。はじめたころは悲鳴をあげていた身体がしばらくすると慣れ、湯のはった寸胴鍋を持ち上げられたときは嬉しかった。周りの人たちの仕事を見ながら効率よく動きたい。ラーメンもカレーも定食もなるべく早くうまそうによそいたい。教わったことを繰り返しのなかで覚えやり切れたときは嬉しかった。」

で、彼女は、その生活と仕事のことを、友人知人に話す。「えー学食のおばちゃんかよ。」という言葉が返ってくる。

「学食も、おばちゃんも、その通りなのだが言葉の端に侮蔑があった。もしも仕事先が本屋やレコード屋や美術館のような場所だったら、えー本屋のおばちゃんかよ、と彼らは言わないだろうと思うと可笑しかった。ただ少しだけその分野の事情にたけるだけで、扱っているものが文化的なら自分が文化的になれるわけではないことは、本屋やギャラリーで働いたことのあるわたし自身が一番身にしみていた。」

このあとの短い結びが、すごいのだが、読んでもらったほうがよい。
http://d.hatena.ne.jp/mr1016/20150620

それにしても、武藤さん、うまい文章を書くなあ。

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