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2015/06/06

生きることが批評である生き方、『小さくて強い農業をつくる』久松達央。

001本書のタイトル『小さくて強い農業をつくる』だけを見れば、近年は農業に対する関心が高まっているようだけれど、なにかしら農業に関心があるひとでなければ、あまり興味がわかないかもしれない。

それに、本書は、晶文社の「就職しないで生きるには21」のシリーズの一冊で、「これから」がある若い人たちのための本のようでもあるのだ。

ところが、この本は、トテツもない本で、「これから」がない72歳のおれのようなものが読んでも、大いにおもしろく刺激になる。フリーランスや、仕事を引退してフリーになっている人たちの、「生き方」にも関わる内容だ。

大いに刺激になり、また自分がしてきた仕事と関係することが多く、「うーむ」「ふーむ」「そうかなあ」と、いちいち考えて咀嚼を繰り返しているうちに、ただでさえ読書スピードは遅いのに、読み切るのに時間がかかってしまった。

昨年11月30日発行のころ、編集者が柳瀬徹さんということがあってだろう頂戴した。じつに、内容の濃い厚い本を何冊分も読んだ、充実した気分。うん、これでおれの死ぬまでの人生は、ますます楽しくなる、ツモリでいる。

プロフィールなどによれば、著者の久松達央さんは、1970年茨城県生まれ、慶応大学経済学部卒業後、帝人株式会社に入社、工業用機械の輸出営業の仕事のち、1998年農業研修を経て、独立就農。現在、7名のスタッフのいる株式会社久松農園、代表取締役。年間50品目以上の旬の有機野菜を栽培し、ソーシャル時代の新しい有機農業を展開している。

ということだが、久松さんは、新しいタイプの「社会革命家」なのだ。「ソーシャル時代の新しい有機農業を展開」という表現にも一端がうかがえると思うが、本文の最後は、こう結ばれている。

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 僕が提唱する小さくて強い農業が、各県で100軒、日本全体で5000軒くらいになると、そのシェアは全体の1%に達します。農業者の1%が小さくて強い農業に変わったとき、農業全体が少しずつ動き出します。そうして雪崩を打ったように日本の農業が大きく変わっていく姿を生きているうちに見るのが、僕の密かで意地の悪い夢です。

………………………………

なかなかすばらしい明快なビジョンだと思う。新しい革命家は、何かを倒そうとするより、「変態」といわれてもいい、自分が「グッと」くるものを追及し築きあげようとする。

本書の帯には「自由に生きるための農業入門」とあるが、自由に生きるためには、明快なビジョンを持つことが、必要だ。それと自由な批評精神。

著者の略歴からすれば、いちおうエリート・コースからのスタートだった。しかし、「第一章 一流企業サラリーマン、華麗に道を踏みはずす」であり、この「華麗に」は、もしかすると編集さんのシゴトかもしれない、久松さんの「合理」な本文には似つかわしくないカッコつけたところがあるが、とにかく、道を踏みはずし、「なんとなく農業」に転がり、「第二章 新人農家「農家に向いていない」ことを思い知る」というアンバイで、「君は農業に向いていない」と言われ、そういう批判を受け入れたところから、久松さんらしい農業への取り組みが始まる。農業が好きだし、やりたかったし、負けたくなかったからだ。

そして、「第三章 言葉で耕し、言葉で蒔く。チームで動く久松農園の毎日」、つまり小さくて強い農業の実践が生まれ、育っていく。このあたりに、久松さんのトテツもなさが、いかんなく発揮される。

「農作業の言語化・数値化は、体で覚えるセンスのない自分が、苦肉の策として始めたものです」

「仕事が言葉に落とし込めている=属人化させない仕組みがあることによって、仕事が「人」ではなく「機能」で見えるようになるのです。ある目的が達成されるためには、どんな条件が満たされなければならないかがはっきりしていると、誰かのせいにして終わり、になりにくいのです」

「逆に「人」をブラックボックス化してしまって、「機能」に切り分けないと、「気をつけろ」「気合いで乗り切れ」以上のことは言えなくなってしまいます」

こういうことに関連した記述が多いのだが、人間の言葉やコミュニケーションは何のためなのかという本質を、よく考えている。

「第四章 「向いてない農家」は、日々こんなことを」は、久松農園のあれこれが、茶飲み話の雑談のように語られるが、じつに豊かな思考の連続なのだ。

大風は、作物やハウス、さまざまな設備や備品にまで被害をもたらす。

「大風から作物を守る方法はないかというと、そんなことはありません。お金さえかければ、方法はいくらでもあります。費用回収が大変なだけです」と述べたのち、「そもそも栽培とは、目的に対する合理的なアプローチを考え、置かれている条件の下で、持っている経営資源をどう配分するか、というゲームです」という。

言われてみれば、その通りなんだけど、こういう説明は、思いつかないのが、普通ではないだろうか。このあたりにも、農作業の言語化・数値化をめざす、久松さんのトテツもなさが表れている。

この四章の雑談のようなものには、天気や気候との付き合い方や、食のことにもふれている。「うまい」「まずい」問題を、因果関係と相関関係の混同という視点から批評していたり、おもしろい。なかでも、ここだ。

「今の日本で、とりたてて問題にするほどまずいものなんてそうそうないのです。でも、「お!」とはならない。「まずくはない」と「お!」の差が、小さいようで大きい。そのギャップを埋めるのが、小さくて強い農業の役目です」

食と味覚に対する、久松農園のビジョンとでもいえるか。どこまでも言語化が徹底している。

「まずくはない」でも「お!」とはならないあたりに、おれの関心である「普通にうまい」が存在するわけで、そのギャップは大いに気になるところだ。

以下、「第五章 向いてない農家、生き残るためにITを使う」「第六章 カネに縛られない農業を楽しむための経営論」「第七章 強くて楽しい「小」をめざして」と続く。

結論をいえば、この本は、さまざまな属性を落とせるだけ落とし、芯だけにしてみると、「生きることが批評である生き方」の本といえるだろう。

「就職しないで生きるには21」シリーズだけど、久松さんは就職したことがあるし、「農作業の言語化・数値化」という発想は、もしかすると最初に就職した会社の現場での影響もあるかもしれない。現在の農園も会社の代表取締役とはいえ組織で動くようになれば就職したと似た状況になる。

けっけきょく、どんな状況であっても、強く自由に生きていくためには、生きることが批評であるような生き方が必要であるということだ。

この本を読んで、そんな老後のツカイミチを考えてみるのも悪くない。批評精神を失わず、久松さんのようなビジョンを持った人たちと歩んだほうが、おもしろくて楽しい人生が、何歳であってもあると思う。

もちろん、同じことを同じようにする必要はないし、たとえば、おれが関係しているゲストハウスの経営なども、とくに若い人のために、小さくて強い経営をめざしてきた。

本文のところどころで、農業に対する一般的なステレオタイプなイメージを打ち破りながら、農業以外のことでは批評精神らしからぬステレオタイプな見方をしているところもある、久松さんは、とても批評精神に富んだ方で、それがキチンと自己にまで向けられるている点は、なかなかできることではなく、本書のおもしろさでもある。最初に引用した本文最後の締めが、「僕の密かで意地の悪い夢です」なんてね。

ま、それで踏みはずすことにもなったし、また小さいが強い農業へ向かうことにもなった。

大雑把な言い方になるが、日本の農業は、ということは「農協農業」はということだが、批評精神が育ちにくい環境だったというべきか。よくいわれる「親方日の丸」。それで、さまざまな問題の自立的解決が難しくなっていることが少なからずある。だからこそ、小さいが強い農業の可能性があるのだとも、読める。農業だけのことじゃないが。

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