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2015/07/18

東京新聞「大衆食堂ランチ」33回目、上野・肉の大山。

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昨日18日は、第三金曜日、東京新聞に連載の「エンテツさんの大衆食堂ランチ」の掲載日だった。

今回は、上野の肉の大山で、チキングリルサルサソースってのを食べた。すでに東京新聞のサイトでご覧いただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2015071702000186.html

ほんとうは、以前から500円の大山丼(和牛スジ煮込み丼)を食べてみたいと思っているのだが、ランチタイムの早いうちに行かないと売り切れになってしまうから、根性のないおれは、いつ食べることができるか。

この連載は、凡庸なものを、凡庸に書くよう心がけている。さらに、今回は、味や食べた感想について、まったくふれてない。たしか、こういう書き方は2回目ぐらいだ。

たいがいグルメな文章というのは、食べ物や味覚をめぐり、凡庸でないものを選び、それをどんなに凡庸でないかを伝える凡庸でない文章か、あるいは、凡庸なものなのに、さもさも凡庸でないかのように伝える凡庸でない文章が多い。

凡庸でないものを選んで書くのは、凡庸なものを書くより、モノに依存できるから、その分、書くのはやさしい。ただし、凡庸でないものを、正確に評価できているかどうかということがある。

そこんところを、自分の見識や感覚に自信を持って書いているひとも多いのだけど、なんてのかな「おれはよいものをたくさん知っているぞ、おれは並の凡庸なものに満足する人間とはちがうんだ」という、人間としてのダメさ加減がすけてみえるものも少なくない。ま、人間としてダメでも、売れればよいのはたしかなのだが。切ないことではある。

凡庸なものを凡庸な文章で書くのは、難しいから、いろいろチャレンジだし、力をつけるにはよい。問題は、それで読者がよろこぶか、ということなのだ。世間の、とくにテレビのグルメな番組に飼いならされた人たちは、「凡庸でない」ものに刺激を受けやすくなっている。

しかし、ま、凡庸でも、やりようはあるのだな。そりゃそうだ、世間の大部分は、凡庸で成り立っているのだ。ようは、凡庸を、どう肯定していくかになる。

この連載の読者の反応は、割りと早くでるが、本紙とWEBでは、読者層が、かなり違うようだ。以前にチョイと書いたことがあるが、WEBの場合は、だいたい反応のパターンが決まっている。本紙読者には、やはり高齢者が多いようで、ファックスでいただくこともある。

とにかく、いまや、なんてたって、どこかしら少しでも非凡じゃなきゃ、注目されない話題にならない。メディア環境は、供給過剰ということもあって、凡庸でないものに飼いならされやすくなっていると思うが、WEBのほうが、SNSの影響もあって、凡庸でないものへの瞬発的な反応が強いようだ。たとえ「本好き」であっても。

これは、昨今、民主主義や衆愚政治にも、関係していると思われる。

おれは、「ありふれたものをおいしく」といったぐあいに、凡庸を肯定しながら生きる人たちが、最も信頼できる読者と想定している。かなり少数派だろうが。

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