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2015/07/20

フリーライターはフリーなのだ。

東京新聞に連載の「エンテツさんの大衆食堂ランチ」は、月に一回、30回をこえて、まもなく3年になる。凡庸なうえにも凡庸な連載なのだが、厨房の汚い店を2店、取りあげている。もちろん、厨房の汚れ具合については、書いてないから、読者にはわからないはずだ。

汚れにも、いろいろあるが、この2店の場合は古い店で、油汚れが積もり積もって、これほどになると業者でも入れて掃除しないかぎりは無理だろうなあという感じだ。どちらも掲載の前に3回ほど行ったことがあって、味や客の入りについては、問題がないことは知っていた。ま、生き残りの古い店に問題があることは、ほとんどない。どちらも地元民に愛されている食堂なのだ。

ある時、料理の先生に訊いた。「料理の先生ともなると、先生という立場があるし、汚い厨房の店をすすめるわけにはいきませんよね」。料理の先生は、当然ですと答えた。

そういうものなのだ。それぞれ立場によって、見える事実も、評価も異なる。

おれは「フリーライター」という肩書で、とりわけ「フリー」に立場を置いている。フリーからすれば、厨房の汚れなんぞはノープロブレム、むしろこんなに汚い厨房の食堂が、なぜ長く愛され続いているのかということのほうに興味がわく。

フリーライターというのは、無署名原稿だろうが、広告宣伝文だろうが、なんでも書くという意味の「フリー」のほかに、どんな型にもはまらない自由に、意味があるとおれは思っている。あるいは、どんな型でも選べる自由もある。

ただ、これは「成功」のためには、得策ではない。どんな業界にも成功する型(モデル)があり、セオリーだの文脈だのがあり、もっとややこしいそれぞれ好みの嗜好などもあり、ある種のヒエラルキーの秩序に従っている。

そこからはずれる自由は、かなりリスキーなのだ。だいたいね、業界で力を持っているひとや、学者や文化人として名高い、著名な方々の共感は得られないし後押しを受けられない。なんのバックボーンもなくフリーなんて、無謀に近い。

フリーライターという、業界の最下層から昇るには、厨房の汚れ一つについても、先生の立場に従い、イケマセン、ダメ、といっていたほうが無難なのだ。

そして、ところが、実際は、全体のシステムは硬直化と閉塞化へ向かってきた。売れる「正しい」型だけを追いかけるようになるからだ。

昔、おれが「プランナー」の肩書で現場の仕事をしていたころ、いわゆる「ABC分析」というのがつきものだった。「パレート曲線分析」といわれたり、いろいろな方法があって、いろいろな使われかたをするが、ようするに、全体を大きく左右する商品構成や在庫管理に関するもので、よくある小売店の例としては、上位30%を占める品目で売上の70%を占める売れ筋の把握とコントーロールがテーマになったりする。

これは安定的なマーケティングには欠かせない数字のカラクリだが、問題は、上位30%を占める品目で売上の70%を占める売れ筋だけで、全体が成り立っているわけではないということだ。

あとの売上の30%を占める商品の70%を無視するわけにはいかない。そこで、いつも議論になるのだった。コンビニを例にすれば、売場全部を売れ筋の商品だけにしても、経営は成り立たないからだ。

当時、人事関係のほうのマネジメント・リサーチをやっている人たちのあいだに、このABC分析に似たようなことがあって、それは「2:6:2」論というのようなものだった。つまり、選良の2割、普通の6割、ダメな2割の構成から、ダメな2割を切ってしまうと、組織としてはガタがくるという話しだったと思う。というのも、ダメの烙印を押されたグループが、評価のされにくい足腰を支えているからだ。

全体を引き上げるには、選良な2割を伸ばすより、底上げの対策をしたほうがよい、だけど、たいがいの経営はダメのほうを切ろうとする、ということをめぐる議論だった。これは、組織文化をめぐる議論としても、おもしろかった。何に限らず良質部分を持ちあげていればよいというのは、わかりやすく楽である。ただ、それと全体はちがう。

一年間ぐらい四国へ毎月通って仕事をしたことがあって、食品に強い大手商社の社員と知り合って、よく酒を飲んだ。彼は、一人で四国全体を担当していた。大きな会社だし、本社の人間で彼に関心のあるものはいないと言っていた。本社から見たら、どうなってもよいダメ人間でしょ。だけど、売上は、必要なのだと。出世には関心がないが、四国が好きで、四国で仕事ができることや、その仕事に誇りを持っていた。

厨房が汚い食堂のあるじにも、矜持のあるひとがいる。矜持があるなら、もっと厨房をキレイにしろよ、という感じだが、汚い厨房にダメ出しをする先生方の矜持と、矜持の持ち方がちがうのだ。それは生きる場所のちがいでもあるし、視線のちがいでもあるだろう。あるいは思想のちがいかもしれない。

全体をヒエラルキーでみるか、機能でみるかは、思想が関係しているようだ。

とかく日本人は細部に賢く全体に疎いといわれる。そういう問題でもなさそうだが、細部に賢い方が「正しい」とされやすく、大事にされたり共感が得やすのは確か、かな。細部に賢いと、ほかの見方ができなくなり、結果、全体に疎くなる、ということもありそうだ。

おれは、右サイドバーに書いてあるように「それゆけ30~50点人生」の下層フリーライターなので、そのあたりから自由に見ると、汚い厨房でも、悪くない店はあるから、楽しい。それから、汚い厨房の店主のように、あまり威張れない立場の人たちの矜持も、魅力的だ。

似たように、ダメだしされそうな人たちが頑張っていることはいろいろあって、社会という全体は、なかなか奥深いと思う。

当ブログ関連
2014/08/27
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