「川の東京学」メモ 「下町言説」。
工藤博海さんの『「下町酒場ブーム」の盲点:葛飾の風景の変遷から考える』は、いろいろなことがギッシリ詰まっていて、これからの「東京」を考える上でも、おもしろい。
メディア側の、よい店を紹介するのは、店にも地域にもメリットがあるはずだという独善的な「上から目線」は、下町に対してばかりでなく、とかく「取材対象」に対して、ありがちな態度ともいえる。
メディアや、編集者や、おれのようなライターは、ある種の「小権力者」であり(業界内で上昇するほど権力も大きくなるが)、その権力の行使として取材に臨む、その側面を自身で理解してない独善があるのは、確かだろう。
それに加えて、土地や場所そこにある生活の文脈から切り離して、店と飲食をとらえ、「東京=山の手」視線で評価したり、文化的文学的に表現する。
「飲み屋にまで下町情緒を見つけようとする」「下町酒場ブーム」には、「下町言説にまとわりつく幻想性」がみられるわけだけど、工藤さんは、「山の手と下町の文化資本の格差を浮き彫りにしていると考える」と指摘する。
ところで、近年流布されている「下町言説」は、いつごろから盛り上がりをみせているのだろうと、手近な資料をパラパラめくって見た。橋本健二さんの『居酒屋ほろ酔い考現学』に、関係する記述があった。「第七章 下町居酒屋の越境体験」。
「小林信彦によると、下町は一九八〇年代以降、素晴らしいところであるかのように語られ始めるが、一九六〇年代には「笑うべきアナクロニズム」の土地であり、公害と悪臭の町とされていた。そして一九六九年に始まる「寅さん映画」が東京の東のはずれにある柴又を舞台にしたのは、すでに旧下町が消滅し、下町人情を主題とする物語がこうした千葉との県境あたりまで行かないと成立しなくなったからだという(『私説東京繁盛記』)
「下町イメージの変化は、私が東京に住むようになった七〇年代後半から始まっていたように思う。というのはこの時期、『女性自身』『女性セブン』『プレイボーイ』などの雑誌が、相次いで下町を特集しているからである。/「のどかな江戸のムード」「しっとりしたとした下町情緒」「昔ながらの手作りの味」など、いまでも使われる常套句は、この頃から増殖し始める」
それで、おれは、「東京ふるさと計画」を思い出した。
「東京ふるさと計画」は、1970年代前半の東京都議会議員選挙で、自民党東京都連の打ち出したもので、のち都知事選で「東京ふるさと」を掲げた鈴木俊一が、革新都政の美濃部を破り自民党が都政を奪還することにつながる(1979年)。おれは、このキャンペーンに仕事で関わり、そのことは、このブログでも書いたことがあるような気がして検索したら、あった。
これだ。
2005/03/19
悩ましい「田舎者」
このキャンペーンは、主に都心から西郊や郊外に展開していた膨張する上京者新都民に対して、東京にもいい「ふるさと」があるよと、ふるさとの発見を促そうというものだった。
当時「ふるさと」の破壊者のようなイメージを背負っていた自民党のイメージチェンジとアップのために計画された。
そこでは、「自然」のほかに、三社祭りがある浅草などの「下町」が「東京ふるさと」として大いに利用されたのだった。「下t町情緒」幻想は、「ふるさと情緒」幻想と大いに関係ありそうだ。
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