金太郎飴マーケット。
金太郎飴というのがある。金太郎飴本店(http://www.kintarou.co.jp/)なんてのもある。その金太郎飴のマーケットのことではない。
閉塞がいわれだしたのは1980年代後半からだと思うが、どんどん閉塞化が進み、近頃では金太郎飴化したマーケットが増えたという印象を持っている。
「クラスタ」という言葉もよく使われるようになったが、趣味や好みでクラスタ化し、どこを切っても同じような顔ぶれが、同じように褒めあったり、感動しあったり、ケチをつけあったり、悪口を言いあったり、怒りあったりしている。それは金太郎飴を切っても切っても同じ顔が出てくるのに似ている。
お仲間一体感マーケットでもいえるか。おなじクラスタ同士が、相互に何かを提供し合い、相互に買いあうことで成り立っているのだ。いや、正確には、成り立っているかどうかわからない、ただお金や人も含め動きはある。だけど、その金太郎飴の中だけのことで、広がりはない。
しかし、金太郎飴の中の人は、広がっていると思っていることが、少なくないようだ。とくに「東京」という中心にいる人たちは。
それは、インターネットの普及などで、バラバラに存在あるいは潜在していた金太郎飴の小さな切れ端が、どんどんつながってきたからだ。つまり、東京のどこかにいる金太郎飴と、地方の田舎町にいる金太郎飴がつながって、1センチが、1メートル、1キロ、10キロ……と、気持悪いほど細長くつながってきたにすぎない。
もちろん、それでも、マーケットは増えているとはいえる。増えてはいるが、広がっているのとは、ずいぶんちがう。
これは、本人たちだけが、金太郎飴をなめあって、いい気持になっている、ある種の自己愛と自家中毒マーケットなのだ。つながりがのびているうちはいいが、似た者同士が似たような共感で消費し合っていたら、タコが自分の足を食っているようなもので、どうなるか、先は見えている。
たとえば、最近もまた有名書店の閉店で「出版不況」が話題になったが、いつものようにデジタルマーケットが原因にされ、自らが陥っている金太郎飴マーケット状態は、問われることがない。
金太郎飴には、裾野がない。たいがいなんでもそうだが、熱烈に好きな人たちによって、マーケットは閉鎖化し、消費し合いながら滅んでいくものなのだ。
すでにもう、書店自体が、ハイカルチャー・ハイファッション化する傾向にあって、作業着を着た酒臭いオヤジみたいなのは排除される構造にある。いわゆる労働者風情など、ハナから相手にしていないのだ。たとえワークマンショップがのびていても。
ま、出版の話になってしまったが、メディアや出版などは、元来は、異文化・異種・異質なものをシャッフルする機能を持っていたはずだ、流通業もたいがいそうだったはずだけど。それが、メディアや出版自身が、金太郎飴構造を熱心に進めているように見えるいま、その機能は、どうなっていくのだろう。
またもや、例によって、セレクトショップ系とファストショップ系の二極分化、なーんて言い古された「分析」で、お茶を濁しているのだが。
戦争でもなく平和でもなく、野暮、という可能性を考えたいものだ。ってことで、野暮を言ったから、今夜は、野暮酒場。
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