鰹節とソウダ節。
「一強多弱」というのは、自民党が勝ち続ける近頃の政界のことらしいが、ほかにも似た状態があって、ダシなんぞもそうだ。
動物性のダシというと鰹節のダシ、植物性のダシというと昆布のダシ、「木枯れ」だの「羅臼」だのという割には、ほかのものについての知識はヨワイ。
多様な全体をとらえる前に、いいとなるとそのことばかりになる。これはもう、ダシの問題をこえる、ちゃんと個性を捉えて評価できない、なにかニンゲンとしての欠陥があるような気がする。
というほど、大げさではないかも知れないが、なんだか、すごくおかしいことになっている。
ある店で、うどんを食べて、「うまかった、このダシは、ソウダを使ってますよね」というと、そこの主人がすまなさそうな顔をして、「うちあたりじゃ、鰹節はコスト的に使えませんからね」という。
「いやあ、十分うまいですよ」と言ってしまってから、なんだかおかしいと思った。鰹節を使うべきところを、ソウダでも十分ですよ、と言っているような気がしたからだ。これでは、主人と同じ状態だ。いったい、なぜ、こんな妙な気分にならなくてはならないのだ。
うまものはうまい、で、よいではないか。そういう単純なことにできないのか。
例の和食がナンタラ遺産になってから、ますます、鰹節と昆布のダシが優秀で、ほかは「劣等」と言っているわけではないのに、劣等以下というか、埒外、もう視野にすら入らない、見えてない感じだ。
そういうムードに取り囲まれ、鰹節じゃなくて、すみません、いや、これで十分ですよ、などとお互いにへりくだらなくてはならない。
気がついてみれば、こういうオカシイことは、あちこちにあって、根強い優劣観や上下観とあいまって、批評眼を競い合うような選良主義がはびこり、多様な個性を尊重しあうなんて、遠いことのようになっている。
しかも、上等な材料を使えば、よい仕事人として評価され、でないと向上心もないダメな仕事、ダメな人間と烙印を押されかねない。
悪い立地、金もあまりとれない客を相手に、精一杯のことをやっていても、上等なものを使っていないだけで、評価の対象にならない。
だいたい、鰹節であらずば節にあらずという感じで、鰹節以外は「雑節」である。それに、ソウダ節は、とくに業務用の分野で、たくさん使用されているのが実態ではないか。ソウダ節の個性を生かし上手に使うことこそ、評価されるべきだろう。
これはもう、ほんとうにおかしなことになっていると思う。そこんとこ、ニンゲンとして、どうなんだ。
野暮な雑民であるおれは、怒りにブルブルふるえ、鰹節ほどの人間でもないくせに(という言い方はオカシイかな?)、良質を知る良質なニンゲンの面をしているやつらを、ブチのめしたい気分なのだ。
暴力ハンターイ。
一強の暴力ハンターイ。
もっと、ありふれたもので、生活を楽しもう!
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