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2015/07/06

「料理道」から「料理学」への可能性。

今日は、コーフンした。まだまだ、ずいぶん先のことだろうと思っていた「料理学」の可能性が、グッと近いところにあると知ったからだ。

はあ、こうやって書いていても、コーフンで心臓がドキドキする。

『大衆めし 激動の戦後史』の第1章では、江原恵さんの「生活料理学」構想の成り立ちを述べながら、おれはあまり「学」にこだわっていなかったことも書いている。

江原さんの「生活料理学」は、伝統主義日本料理、それと表裏の関係にあった食通のちのグルメに対しての批判から始まっている。そして、批判するだけでは生産的じゃない、日本の料理は体系を持たなくてはならない、それでこそ、料理を伝統主義日本料理の影響から生活に取り返すことができると考えた。

おれは、いまでもそうだが、「学」や「体系」にはあまり興味がなかった。だけど、「料理論」ぐらいは必要だろうと考えていた。それでまあ、この本にも書いたように、「江原生活料理(学)研究所」の設立になるのだが。

『大衆めし 激動の戦後史』では、「日本料理から生活料理へ」の項で、「「庖丁の冴え」という庖丁さばきひとつで、味もかわる。それが日本料理の哲学だ」という庖丁道の伝統を問題視しながら、「料理は、素材の生物的特性に、化学的物理的に働きかけ美味を得る技術で、「切る」は、その一部」と書いている。

そして、その最も適切な理論モデルとして、玉村豊男さんの「料理の四面体」を紹介した。

しかし、「体系」や「学」となると、「素材の生物的特性に、化学的物理的に働きかけ美味を得る技術」を、科学的に解明することが必要だ。とても個人レベルでやれることではない。

ついでだが、これまでは、料理を科学するとなると、生理学やその流れの栄養学などになってしまい、これは「美味を得る技術」とは違う。

もちろん、『「こつ」の科学』のように、なぜどのように、その調理が必要かといったことを、部分的に科学するものもあったし、料理を科学する流れは、しだいに広まってきてはいる。

だけど、研究学問業界においては、料理の立場はヨワイ。かなり科学的な人でも、料理のことになると、スノビズムに陥ったり、「職人技」の神秘主義や似非科学のトンデモにはまることが多い。これは、ご本人の実料理体験も関係するだろうが、日本で暮らしていると、いつの間にか脳ミソに入り込む、古くからの「料理道」の思想的影響も見逃せない。

ところが、だ。

『TASC MONTHLY』の最新号の巻頭随想は、宮城大学食産業学部准教授の石川伸一さんによる「<超オムレツ>つくってみませんか」。

書き出しは「よく、「料理は科学だ」といわれますが、今、研究を職業にしている私も台所に立つと、つくづく料理はサイエンスだと思います」であり、「できた料理は「化学反応生成物」です。調理に経験やコツは大切ですが、食べものがおいしくなる過程をとことん追求していけば、料理を「科学的な視点」で見ることが不可欠になってきます」と述べている。

おお、すばらしい。おれは、声をあげた。

石川さんは、オムレツを例に話す。ゲル形成やら、見た目の食欲をそそる焼き目のことから、「無重力でオムレツを作る」まで、なかなか具体的でおもしろい。いいねえ、研究学問業界から、こういうことを書く人が出てくるなんて、いいねえ。

プロフィールを見た。

福島県生まれ。東北大学大学院農学研究科修了。博士(農学)。専門は、分子食品学、分子調理学、分子栄養学。著書に、『料理と科学のおいしい出会い 分子調理が食の常識を変える』(化学同人)、などなどとあり、

最後に、「分子料理・分子調理ラボ」(http://www.molecular-cooking-lab.net/)というサイトで分子調理に関する情報を提供している」とあるではないか。

早速、見た。

これだよ、これ。すごい、すごい。まさに「料理学」になるよ、これは。

そうコーフンして、一挙に、このエントリーを書いたしだい。はあ、未来は、明るい。

ただ、それでも、うまさを感じる人間は一様ではない、味覚は個人のものだ。

当ブログ関連
2013/09/14
『大衆めし 激動の戦後史』のもくじと、「まえがき」「あとがき」の書き出し。
2008/10/07
なんて奇怪な平和の中のアヤシイ日本料理なんだろう。

まずは、非科学的な、日本会議のような日本料理道の影響から、早くオサラバしよう。

Asahigura_sijyou

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