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2015/08/26

「生活の質」に、ボー然。

いろいろな質のなかでも、「生活の質」ほど、めんどうなものはない。そもそも、その基準や視点というのを定めにくい。そして、とかく「文学的」になりがちだ。これを、科学的に理解するなんて、できるのだろうか。

と思って、あまり考えないでいるから、「共生社会再考―人びとの「生活の質」のために」なんていう文章を読むと、えらく驚いて、しばらくボー然としてしまう。

それは、『TASC MONTHLY』8月号に載っている、三重野卓帝京大学文学部助教授の寄稿だ。

その書き出しで著者は、「わが国において、共生社会という言葉が使用されるようになったのは、1990年前後に遡ります。当時、産業社会は高度化しましたが、そのなかで人びとの人間関係が緩み、疎外感を味わう人も増えました、そのため経済成長のみならず、人びとの「生活の質」という暮らし良さについての考え方も必要になりました。その後、ひと、もの、お金、情報が地球規模で飛び交うグローバル化が本格的に進み、そういう時代状況において人びとの連帯、社会の統合の重要性に注目が集まってきました」と述べる。

おお、そうか、「生活の質」といえば、収入がいくらあって、どこに住んで、どんなもの食べて、どんなものを持って、どんな趣味や遊びをして、つまり、どんな時間やカネの使い方をしてといった、きわめて個人的なレベルのことだと思っていたが、そうではないのだな。

もちろん個人レベルのこともあって、たいがいは、そのレベルの「文学的」な話が多かったのだけど、「暮らし良さについての考え方」の基準や視点があるのだ。

著者は、著者も委員を務める、内閣府の「共生社会形成促進のための政策研究会」2005、2006の「共生社会を考える横断的視点」を紹介する。

詳しくは、こちら内閣府のホームページにも、のっている。
http://www8.cao.go.jp/souki/tomoni/19html/k-1.html

いやあ、驚いた。

しかし、一般的には、あまり議論になっていない、よく考えられていない「生活の質」について、官僚や専門家たちが集まって、どんどん先に議論し考えをまとめて、モデルがつくられてしまうって、これ、「生活の質」にとって、シアワセなことなのだろうかと思ってしまうのだが、一般的な認知や議論が足りないからこそ、こうして書かれているのだろう。

これまでの日本的な私小説的な視点による「生活の質」ではなく、もっと考えなきゃいかん。

なーんて思いながら、つぎのページをめくると、「サクセスフル・エイジングとは何か、高齢期の生き方モデル」という文章なのだ。これは、杉澤秀博桜美林大学大学院老年学研究科教授が書いている。

もうおれのような齢になって、こういうものを読んでも「手遅れ」という感じだが、老年に限らず、エイジングと「生活の質」は、大いに関係する事柄だろう。

確かに、「共生社会」という言葉が使用されるようになった1990年前後から、「成熟社会」ということもいわれるようになったのだが、生活の質やエイジング(齢のとりかた)については、20年以上過ぎても、必ずしも成熟してないし「大人」になっていない、つまりは、経済成長の時代のアタマのままが多すぎる気もする。

いま消費をリードしてきた、「いいもの」「いい生活」話なんか、そのアタマに依存したり無難に従うものであるようだ。そして、そういう楽しい正しい文化的な豊かそうな話をしているうちに、片方では、これまでのクニの枠組みは緩くなり、格差は拡大し、「統合」が危うくなるなかで、マイナンバーを推進する内閣府なんぞによって、政府主導の新たな「統合」のカタチとして、「生活の質」やエイジングのモデルができあがり、それに従うことになるのか。

ボー然とせざるを得ない。

でも、気を取り直して、考えなきゃいけないのだな。

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