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2015/08/08

「川の東京学」メモ モツと石鹸。

話題が生まれ消費されるスピードも量もすごいものがある。とくにツイッターなどのSNSが普及してからは、話題は一気に拡散し、まったく相手にされないか、むしゃぶりつくされるかして、捨てられ、忘れられる。井戸端会議の超早回し。

酒さえあればよい、テレビもないしハヤリなどにあまり興味がないおれは、その激流を、ボンヤリ眺めたり眺めなかったりしながら、フト気になることがあって、昔の『散歩の達人』なんぞを見るのは、超早回しの巻き戻し作業。

ついこのあいだ、寄ってたかってバカ騒ぎがあった、レバ生食のことだ。

『散歩の達人』2001年4月号は、まったく偶然なことに、第一特集が「浅草・隅田川」であり、第二特集が「昭和的酔いどれ船「大衆酒場」考」なのだが、おれは第一特集で「浅草天丼怪食術」なる奇怪なものを書き、おかげでこの号が手元にあるというわけなのだが。

浅草から隅田川の向こう側に墨田区がある。墨田区というと石鹸メーカーが多いことは知られていると思うが、読者投稿欄に「墨田区は石鹸工場の町なのです」という投稿がある。そこで投稿者は、こんなことを書いているのだ。

「元々は一つの工場で修行していた弟子たちが、暖簾分けされて、各地で事業を立ち上げたので、日本で作られている石鹸のほとんどが会社同士、協会の連結でつながっています。/実は母の勤めていた町工場も、諸事情で閉鎖した時、取引先に常時卸していた仕事を協会の会社同士で振り分けたほど、その師弟関係は今も強いものです」

じつに、職住近接の東京低地のローカルな共同体の姿が簡潔に描かれている。

墨田区に石鹸メーカーが多いワケは、この投書にも書かれてある。「明治政府が、将来は洋装になり、革の需要が増えると見込んで、革のなめし産業を墨田区の荒川の辺りに集中させて、副産物の油脂から様々な油脂産業も発展しました。/その一つとして石鹸も作られるようになったのですが」

革のなめし産業は屠場と密接な関係があり、いまは墨田区の向島地域になってしまった、かつての南葛飾郡寺島地域には、屠場があった。押上小学校のサイトには「旧道・たから通りの屠殺場通りあたり」といった文言があるのだが、この屠場から、肉・枝肉は食肉として流通し、皮や油脂などは、それぞれの用途にしたがったが、内臓は傷みやすいこともあって屠場の周辺で消費された。

については、どのように内臓が出回ったか、都内の屠場が1936年に芝浦に一本化されてからも、いろいろな流れがあったようだが、それはともかく、墨田区のモツ酒場をめぐるフォークロアは、この地域の石鹸やいろいろなことにつながっている。

生レバ食の背景にある、職住近接の東京低地の共同体の文脈には深いものがあり、何かを語りかけているようだ。

以前もふれた、工藤博海さんは、「「下町酒場ブーム」の盲点:葛飾の風景の変遷から考える」に、「30年前の京成沿線の酒場には、ホワイトカラーの立ち入りを許さない雰囲気があった」と書いている。その「濃密で排他的な共同体意識」を批判する人たちもいるのだが、先の投書を読むと、濃密であって当然だと思う。

カネさえ出せば誰でも受け入れる、フラットでノッペラボウの消費空間で「個性的な自己愛」に固執するより、はるかに健全な文化が、そこにはあるように思う。

ところで、『散歩の達人』の第二特集「昭和的酔いどれ船「大衆酒場」考」には、「日本で初めてレバ刺しを出した店」として知られる、東向島の丸好酒場が載っていて、おかみさんが「レバーなんか肉のおまけで付いてきたんですよ。店を始めた昭和20年代は、みんな気味悪がって1日1食も出ない時もあったわね」と言っている。

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