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2015/09/10

もっと近代を消化して先へ進みたいものだ。

根をつめて「まち」がらみの資料を読んでいたら、くたびれた。けっきょく、ようするに、近代を消化できないでいるために、より複雑になっているってことが、いろいろあるのだな。

食については、もうたくさんあって、たかがカレーライスの歴史にしても、近代を消化しきれないままだし、だからこそ「近代日本食とは何か」が問われるのだけど。

食における「手づくり」「職人仕事」崇拝の背景も同様、近代の、とくに合理を消化しきれないがゆえの近代への反発がある。産業化、機械化、工業化、大きな組織=「悪」。これに対して「善」として、手仕事、職人仕事、小規模生産と商いが、ロマンとしてある。

その根っこには、儒教思想の影響があって、これを克服するのは、大変だ。とくに、その垂直的価値観が、しっかり根をおろしているし、「手づくり」「職人仕事」崇拝の根っこは深いのだな。ってことを、イヤというほど、感じざるを得ない。

「まち」をめぐっては、近年「小商い」というのが注目されているようだけど、昔からまちは、中小零細業者で成り立っていたのに、なぜこれがいまさら話題になるのだろう。商店街が激退しているからか。

そこには、あいかわらず、近代を消化しきれてないロマンがあるようにも思える。近代的な企業組織やシステムへの反発もあるようで、それをさかのぼれば、けっきょく江戸の商人職人みたいなことになってしまう。

ま、「江戸しぐさ」なんていうインチキもあるのだが、食の分野でも江戸回帰に類することは、何度も繰り返し蒸し返され話題になりやすい状態が続いている。

いったい、いつになったら、この近代を消化して先へ進めるの?という感じ。

もっとも、少し前に紹介した、『小さくて強い農業をつくる』の著者の久松達央さんのように合理の人もいるけど、「小商い」が目的のわけじゃない、ちょっとちがう。「ソーシャル時代の新しい有機農業を展開」のための「小さくて強い農業」であるし、図体だけ大きくて中身は旧態依然の組織より、はるかに近代的な手法やシステムで動いている。

ある意味では、「大」か「小」かより、大事なことがあるのだ。近代に生きるとはであり、近代的経営とはであり、それを自分のものにできるかどうかという。近代を消化していけば、そういうことになるだろう。

あと、「まち」の関係者がよくいう、まちの再生なり活性化の成功のカギをにぎるのは「わかもの、よそもの、ばかもの」という話だが、それは、地域や業界に固く根をおろしている垂直的価値観があって、その固い殻を破って行動する力となるからだろう。それはそれで、けっこうなことだが、ひとり一人が、もっと近代をキチンと消化して、先へ進むことを考える必要があるのじゃあんまいかと思ったのだが。

そういうことにも「近代日本食とは何か」を考えることは大いに役立つはずだ。とくに「ぶっかけめし」なんぞは、しつこい垂直的価値観を蹴散らすものだしね。

近代のフリをした、旧態依然の思考やモロモロが多すぎる。

当ブログ関連
2015/06/06
生きることが批評である生き方、『小さくて強い農業をつくる』久松達央。

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