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2015/09/23

「おもてなし」と食事文化と料理文化。

なんでも「文化」という言葉がつくと神々しく、おしゃれで上等かつ上品なイメージで扱われやすいが、意味も概念もはっきりしないまま、テキトウに使われることも少なくない。それも仕方ない事情があって、おれも、アイマイなまま使うことがある。

たとえば、「食事文化」と「料理文化」だ。この関係は、アイマイで困ってしまう。その結果、「食事文化」という表現は、あまり使うことなく、「料理文化」ですましていることが多い。料理文化に食事文化を包括させてしまうのだ。

ところが、ちかごろ話題の「おもてなし」というのは、どう考えても食事文化のことになる。

しかし、これは「料理」をどう考えるかにも関係する。もし、料理を、「食べる技術」と考えれば、食べるところまでが料理に含まれるから、少し無理はあるが「おもてなし」は料理文化でも問題ないようだ。

だけど、おれは、料理については、「味覚と、それを求める調理法(技術)」というふうに考えている。それは「料理は食べる技術」であるにちがいないが、料理文化を考えるときは、もっと空間を限定したいということがある。

整理すると、食事文化は食卓を中心とする空間の文化、料理文化は買い物を含め台所という空間を中心とする文化と考えている。

パチパチパチ、これでよい。

とはならない。中心があるかぎり、周辺のアイマイ領域がある。

それが、ぶっかけめしをやるときに、露呈する。

先日の、つるかめ食堂歌舞伎町の文にも、おかずで出てきたハムエッグをどんぶりめしにのせて食べたと書いた。

ハムエッグや目玉焼のときによくやるテだが、これは、ハムエッグ丼または目玉焼丼として出てきたものではなく、自分の手で、そのように作ったのだ。これは、食べる準備でもあるが、ハムエッグ丼または目玉焼丼として料理を完成させる作業でもある。そういうことは『汁かけめし快食學』にも書いた。

問題は、「おもてなし」だが、元来は「主」と「客」があっての儀礼や応接といったことに関する文化であり、むかしの公家社会や武家社会の有識故実を継承しているものだろうから、食は、儀礼や応接に従うもので必ずしも中心ではない。歴史的に、その空間は「客間」など特別なもので、食堂や居間ではない。「おもてなし」と「食事」のあいだには、別のメンドウがある。

『大衆めし 激動の戦後史』89ページ、「料亭とは、なんぞや」の項では、日本料理業界団体の文章から「もてなし」に関する引用をしていて、そこには、こうある。

「日本料理はもともと、個室での接待を基本としていますので、そこに仲居さんなり芸妓さんが居て、心のこもった「もてなし」を受けつつ賞味してこそ、日本料理の本当の素晴らしさも発揮されます」

「もてなし」は、日本料理の賞味に不可欠とも読めるが、カクゴの出費が必要だ。それに「心のこもった」というのがクセモノだろう。

でもまあ、日本料理業界は、「おもてなし」がトツゼン脚光を浴び流行語になるはるかまえから、これを日本料理の様式の一環として、それなりの料亭料金を稼いできたわけで、「おもてなし」が流行語になってから、「おもてなし道」なるものを登録商標にして商売の道具にしている連中とはちがう。

ちかごろは、「スーパーコンパニオン」という職業があって、宴会の食事の席について、「心のこもった」もてなしをしてくれるらしい。しかも社員旅行ぐらいで楽しめる。男性体験者から話を聞いたことがあるが、食欲の満足というより性欲の満足で、なかなか、けっこうなものらしい。これも「おもてなし」の、イマに生きる伝統か。

なにかというと「道」であり「心」であり「人」になり、際限のない「向上」をはかろうとする。そのシワ寄せを背負う「人」もいる。

そうではなく、品質とサービスが行われる空間をしぼり、その機能や金銭や労働や時間などを「適切」に組み立てる方法もある。空間を限定し文化を考えることは、そのためにも必要だ。文化は神々しいものでなく、科学的に検討してこそ、世間の生活に役立つ。

話がそれた、いや、なにか結論のある話ではなく、いま「おもてなし」に関する資料を見ていて、頭に浮かんだことを書いたまで。

ついでに、少し前、あるスガれた大衆食堂で、ハムエッグをハムエッグ丼にして食べた写真を載せておく。この食堂は、7人ほど入れば一杯になるカウンターだけで、80歳すぎのおばあさんが1人でやっている。いい店で、東京新聞に連載の「エンテツさんの大衆食堂ランチ」に載せたいのだけど、がまんしている。

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