「川の東京学」メモ 米と麦、深川飯。
農文協発行の「日本の食生活全集」は、大正から昭和の初めヒトケタぐらいまでの食生活の聞き書きを、都道府県ごとにまとめたものだけど、⑬『聞き書き 東京の食事』の後にあるまとめ解説「東京の食とその背景」には、聞き取り調査地の地域区分図があって、それを見ると、なかなかうまいこと地域分けをしていると思う。
この地図は、調査地の一つである四谷番衆町(現新宿区)が、まだ豊多摩郡だったころのものだ。豊多摩郡ほか、荏原郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡は、昭和7(1932)年に東京市に編入された。
地域区分と調査地は、以下のようになっている。とくに「東京湾岸」の設定が面白い。全体の区分は自然条件と生産が基準になっているのだが、まだ東京湾岸では漁業やのり養殖が行われていたからだ。現在は、埋立てにより、これより海側に「東京湾岸」地域があるわけだが、それはともかく。
「東京湾岸」からは本所(現墨田区)・深川(現江東区)・大崎(現品川区)・大森(現大田区)。その北を「東部水田」とし水元(現葛飾区)・日本橋人形町(現中央区)・浅草駒形(現台東区)。
東京湾岸の西北方面は「北部畑作」で四谷(現新宿区)と久留米(現東久留米)。南西方面「多摩川下流畑作」は喜多見(現世田谷区)。その西を「多摩川上流水田」とし七生(現日野市)。その西を北部畑作の延長が囲み、その西側が「奥多摩山間」で氷川(現奥多摩町)。さらに「島部」があり岡田(現大島町)である。
東部水田、東京湾岸、多摩川流域は、「川の東京学」的にみれば、連なる地域として見ることができ、戦前から戦後になって工場が増え続け、いわゆる「下町」的な特徴を持っているといえる。
聞き書きのまとめは、必ずしも区分には従っていない。そこがまた興味深い。
最初の章「市域の四季と食事」は、「東京湾岸」の深川、「東部水田」の駒形、人形町、そして「東京湾岸」の大崎の順。
次の章は「下町の食」であり、「東京湾岸」の本所。次の章が「山の手の食」で「北部畑作」の四谷。次が「大森海岸の食」で大森。次から、「水郷・葛飾の食」で水元、「武蔵野台地の食」は「北部畑作」の久留米と「多摩川下流畑作」の喜多見、「多摩川上流の食」は「多摩川上流水田」の七生、「奥多摩山間の食」は「奥多摩山間」の氷川、「島〈伊豆大島〉の食」は「島部」の岡田、となっている。
このなかで、「俸給生活者」の家庭は、「山の手の食」に登場する「北部畑作」の四谷の家庭のみで、ほかは、職人や商人の家庭と第一次産業従事の家庭で、いずれも一般労働者というより、使用人がいる親方や旦那衆だ。
これは、この全集の特徴であり、だいたい中くらいから中上クラスの家庭がほとんどなのだが、といっても、「俸給生活者」以外は家族みんなが忙しく働いて、家業が成り立っている。
この時代は、「大衆」が流行語になり、「大衆食堂」の呼称が生まれる時代と重なる。その大衆食堂は「白飯」つまり米のめしをウリにしていたことは、すでに拙著などでも書いた。日常は麦飯の地域が圧倒的で、白飯は「あこがれ食」だった。本書のまとめにも、主食糧は、米、麦、イモ類とある。
調査地のなかで、米の白飯を毎日食べているのは、人形町と駒形と本所の家庭と、四谷の俸給生活者の家庭だけで、ほかは、米7:麦3から米3:麦7の割合の麦めしが日常だ。
本所は、両国で浪曲寄席を営む家庭で、こんな記述がある。「夏のごはんは、消化がよくからだによいということで、麦飯になることが多い。お弁当に麦が入っていると、子どもたちはきまりが悪いというので、目立たないように押し麦を使う。しかしそれでもあまり喜ばないので、麦の少ないところを詰めて持たせる」
当時の町場における麦飯の「立場」がしのばれる。
一方、麦飯が常食の水元の家庭だが、自作農であり、「ごはんは、麦を入れると腐りやすいので、夏だけは白米飯である」とある。
まとめ解説に、「東部水田地帯、多摩川上流水田地帯、多摩川下流畑作地帯など、米の自給が可能な地帯でも、幕府の米本位の財政政策により、農民の米食規制は昭和初期まで色濃く残され」とある、これだと農民の自己規制のようだが、そういう米節約の習慣もあったのだろう。一方、聞き書きのほうには、現金収入のために米は優先的に出荷する結果、日常は麦飯だったともある。
とにかく、食や料理は、政権が替わったぐらいでは変化するわけではなく、この時代まで江戸が残り、台頭する俸給生活者と共に、米食が普及する。ここには、ほとんど登場しないが、この時代に、その俸給生活者の家庭に広まったものに、ちゃぶ台がある。
というわけで、大衆食堂と共に、白飯とちゃぶ台の普及から、「近代化」を見ることができるかもしれない。この「近代化」は、戦争と敗戦があって、国の体制は大きく変わったにも関わらず、戦後へと続き、昭和30年代にピークに達する、とも見ることができるだろう。
ところで、深川の左官職人の親方の家庭には、こういう記述がある。「あさり、しじみ、はまぐりなどの貝売りは、年中、毎日のようにやってくる。彼らはたいてい浦安あたりから小名木川のポンポン蒸気に乗って高橋まで来る。あさりやばか貝のむき身に、ねぎのきざみを入れて味噌で煮た汁を、ごはんにかけて食べる深川飯は、冬から春にかけての手軽なごはんである」
まさに、浦安フィールドワークをした「川の東京学」の世界だ。あのときは、この記述に気づいていなかった。
そして、面白いことに、同じ東京湾岸で、深川のすぐ北の本所の家庭では、深川飯というと「あさりと油揚げを具にした醤油味の炊き込みごはんである」
拙著にも書いたが、深川飯は、大きく分けるとこの2種類になる。あるいは、汁をめしにかけて食べることを嫌う家庭では、炊き込みにした可能性があるかも。それは、もしかすると、深川と本所の微妙な違いと関係があるのかもしれない。
当ブログ関連
2015/04/09
4日の「川の東京学」浦安フィールドワークは、大いに楽しく有意義だった。
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