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2015/10/05

数値化したらプラスになる物事だけを良しとする傾向。

きのう引用した、津村記久子さんが書いていた「数値化したらプラスになる物事だけを良しとする傾向に風穴をあける言葉」は、どの作品にあったか気になるので探してみた。

『二度寝とは、遠くにありて想うもの』(講談社)の「『味わい深い』のふところ」にあった。津村さんの好きな形容詞は、「味わい深い」なのだ。

「『おもしろい』でもいいのだが、もしかしたら、伝える相手はそれをおもしろいと感じないかもしれない、押しつけがましくはなりたくない、という遠慮があって、『味わい深い』と表現するようにする。味覚という、口の中のことが由来している言葉なので、とても個人的な感覚を表す言葉だと思う。そして、個人的ゆえに、あまり他人の同意を必要とせず、中庸なように思える」

そのあと、こう続けている。このことが、おれにも思い当たることがあって、強く印象に残った。

「『良い』には『悪い」が、『きれい』には『汚い』が表裏に付きまとい、マイナスの側には断罪のイメージさえ伴うが、『味わい深い』の対義語といえる『味けない』には、『ま、ひとそれぞれですが』とでもいうような、気持ちの共有を強いない控えめさがあって、そちらも好きである」

そして、先に引用したことになる。

「良い」ことを褒めそやすのに、なんら後ろめたいことはない、「正しい」のだから遠慮もいらない、ということで、とかく「マイナスの側には断罪のイメージさえ伴う」ことを忘れがちだ。

とくに、ここ20年ばかり、雑誌やテレビのグルメコンテンツなどで、「手づくり」「手仕事」「職人仕事」が、「誠実」で「丁寧」で「心がこもって」「うまい」「よい」と称賛され、エラそうにしていることが続いている。

それで、どういうことが起きたか。例をあげると、以前、取材を申し入れた大衆食堂の主人から、「うちは冷凍食品を使っているんですが、いいんですか」といわれたことがあるのだ。

その人とは、いろいろ話したが、彼は自分の仕事に肩身の狭い思い、引け目のようなものを感じていた。大衆食堂の主人たちと話していて、何度か同じようなことがあった。食堂の棚に並ぶ、出来あいのおかずをチンして出すことをとがめる、「庶民の味方」「大衆食堂や大衆酒場の愛好家」もいた。

手づくり・できたて礼賛は、無農薬有機栽培礼賛とも親和性が高い。

おれは、「普通にうまい」を強調するようになった。昔は、出来あいを冷たいまま食べていたのだから、電子レンジの使用でよくなったのであり、悪いことじゃないと主張したりもした。

津村さんは「中庸」という言葉を使っているが、「よい」「上質」の追及ばかりで「スタンダード」「普通」を考えない価値観は、簡単に、自分と異なる人や価値観や仕事や生き方をマイナスイメージに追いやりやすい。そして、片方で独善に陥る。

近頃の「小商い」称賛にしても、なんだか、ステレオタイプの仕事観や労働観がある。それは、世界観の問題もあるだろう。自分が、ただ大きな組織に馴染まないだけのことを、普遍化し、小商いに求めている傾向も見られる。そういうものを読んだ、真面目な会社員のなかには、自分がじつに程度の悪い人生を、がんばりながら生きていると思い、情けなくなる、という人もいる。食うために働くことが、普通ではなく、マイナスイメージになっているのだ。

このあいだ、おれも含めて、それぞれまったく価値観の違う人たちと飲んだとき、共通の知人の話になった。彼は、子どもが幼稚園に入るときの入園申し込みだったか、行列ができるというので、朝早起きして行った。着いてみると、すでに何時間待ちの行列になっていた。彼はどうしたかというと、お金を出して行列に並んでくれる人を頼み、家に帰った。本人が並ぼうが代理が並ぼうが結果に関係ないことだ。それで、無事に入園はできたのだが、妻に「子どもに対する愛情がない」といわれ喧嘩になった。

この話もからみ、価値観の違いと、価値観の違うもの同士が交ざりあうことの意味や交わりかたなどについて、ああでもないこうでもないの話になった。

異なる価値観の存在と尊重を前提に考えることは、なかなか難しいことだし、自分でもちゃんとできているかどうかわからないが、文章を書く上で忘れてはならないことだろう。できたら、「数値化したらプラスになる物事だけを良しとする傾向に風穴をあける」ことを目指したいものだ。

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