
10月30日、歌舞伎町へ行ったついでに、靖国通りからの歌舞伎町入口を全部撮影しておこうと、西の端の西武新宿駅の横の通りから東へ、順番に撮った。すると、東通り入口の西側角のビルがなくなっていた。工事の塀で囲われ、解体の最後の作業中という感じだった。
東通りは、新宿駅西口から、新宿通りの高野の前を靖国通りへ向かう道が、靖国通りに突きあたる正面ぐらいになる。もう一本西側はさくら通り、東側は区役所通り。
1974年、おれは30歳、このビルのたしか5階にあった選挙事務所へ出向していたのだ。このビルの隣、東通り入口の東側角のビル、これはまだ残っているが、その3階か4階も同じ選挙事務所だった。
そのことについては、以前にもちょっとだけ、このブログに書いている。どこまで書いてよいかわからないが、ついでだから、もう少し書いておこう。
74年の7月7日は、「保革伯仲」がいわれるなか、もしかすると保革逆転がありうるかもしれないと注目された、第10回参議院議員選挙が行われた。「七夕選挙」として話題になったが、保革逆転を阻止するため、自民党は大きな二つの手を打った。一つは、党として初めてタレント候補を数名たてた、もう一つは、「企業ぐるみ選挙」と批判されたように、各候補それぞれに応援する企業を割り当てた。
企業ぐるみ会社ぐるみで特定候補を応援することは、別にめずらしくない。いまでも続いていて、違法ではないかと裁判沙汰になることもある。そういうやり方を、堂々と選挙方針として進めたわけで、批判は相当あった。
岩波日本総合年表には、選挙投票日直前の7月2日に、「中央選挙管理会委員長掘米正道、参議院選挙につき個人の資格で、〈企業ぐるみ選挙〉を批判する異例の見解を発表。7.4橋本自民党幹事長、職権濫用、選挙の自由を理由に委員長を東京地検に告発」との記述があるぐらいだ。それぐらい自民党は必死であり危機感があったといえる。
タレント候補は全国区のみで、宮田輝、山東昭子、齋藤栄三郎、糸山栄太郎、森下泰、それから鳩山威一郎も含まれていたかもしれない。6名か7名だったと思うが、正確に思い出せない。とにかく、橋本幹事長の直轄のようなかたちで、特別選対会議がもたれた。
おれは「大物候補」といわれた宮田候補のキャンペーン企画を受注した会社に在籍していたから、そこからの出向だった。記憶がはっきりしないのだが74年早々から、これは確かだが投票日のあと8月一杯までだった。この出向は、おれの人生で最も濃かった日々、といえる。
どんな仕事になるのかわからないまま「社命」に従い行ってみると、いきなり「宮田輝秘書」の名刺を持たされ、総務と遊説の責任者ということだった。総務と遊説というと、参謀格の幹部をのぞく、ほとんどのスタッフと業務が指揮下になる現場の責任者だった。
このビルのワンフロアーは広く、エレベーターから最初の部屋は応接スペース、次がおれもいる事務室で、参謀格の幹部数名ほどのデスクや、10名ほどのスタッフのデスクや作業のスペースがあり、その奥が会計責任者の部屋、その奥が事務長の部屋、その奥に泊りのスペースがあり、おれは投票日の3ヶ月ほど前から、ここに一日置きに泊ることになった。
隣のビルのワンフロアーは、うぐいす嬢の研修トレーニングや、彼女たちも含めたアルバイトの控室だった。
ほかに指揮下ではないが連絡を密にしておかなくてはならない事務所があった。「企業ぐるみ」ということで宮田候補を応援するのはトヨタ自販(当時)で、この九段の本社ビルに選対の事務所があった。「企業ぐるみ」は、自民党側が企業に割り振った候補を応援するのだが、企業側には、それぞれ「事情」があった。
当時は、首相の田中角栄と大蔵大臣の大平正芳の派閥が、いわゆる「角大連合」で主流派だったが、選挙となると派閥ごとの戦いになる。宮田は、田中派と大平派が争って、大平派が獲得した候補だった。そこにもいろいろ「事情」があった。ところが、トヨタ自販は、田中派と密接な関係があり応援していたのだ。
トヨタ自販の選対のほうで宮田を担当する責任者は、1964年東京オリンピックのバレーで金メダルをとった「東洋の魔女」の一人だった。この方には、いろいろ親切にしてもらった。
ほかに、候補者宅に女性秘書が一名付いていた。候補者は全国を遊説して、たまにしか帰らない。その間は夫人が一人になるので、泊りこみだった。おれは、何日かおきに行って、あれこれ打ち合わせやら、不満を聞いたり。彼女は、選挙中というか公示日ごろ、ある事件で、大変な思いをした。
自民党本部の幹事長室でタレント候補の特別選対会議が開かれるときは、ほかの事務所は事務長が出席したが、宮田事務所だけは事務長ではなくおれだった。みな50代以上、バリッとした恰好のなか、若造のおれが一応上着は着ているが、ノーネクタイにジーパン、長髪でぼさぼさ頭。しかも、候補者の「格」のようなものがあり、宮田はNHKのど自慢や紅白の司会をつとめ理事にまでなった人だから、おれは幹事長席に近い一番の上席に座る。初めてのとき、幹事長には十分怪しまれた。
おれをそこに出席させた事務長は賢明だったといえる。幹事長は田中派だからだ。その立場から、知名度抜群の宮田を自派に有利に使おうとする。なにしろ幹事長だから、なにか要請されたら事務長は正面切って断るわけにはいかない。党員だし、あとあとのことがある。で、おれを出席させておけば無難というわけだった。彼はおれに、「なにを頼まれても全部断って来ればよい」とだけ指示して、おれはその通りにした。幹事長もほかの事務長たちも、宮田が票をとりすぎると「悪影響」が出るということから、ああだこうだいった。ぜんぶ無視。
事務所は、大平派の国会議員の私設秘書、大平派と密接な企業から出向者、宮田個人を応援している企業から出向者、NHKのOBで宮田を応援するひと、将来政治業界に入りたい学生のアルバイトなどだった。
おれの文字通り右腕となったギュウチャンがいて、おれは大いにたすかった。かれは大手アパレルからの出向で27歳ぐらいだった。仕事ができるひとだった。
公示前の日常の事務仕事の大部分は、候補者の遊説と後援会のフォローだ。とくに東京での遊説のばあいは、会場の下見から設営、会場周辺のポスターはりや看板立て、その撤収などがあった。後援会のフォローは、そのための物資や宣材の発送が多い。これら力仕事のほとんどを、ギュウチャンがアルバイトを使って完璧にこなした。おかげで、おれは自分の仕事に専念できた。
とか思いだしているときりがないな、やめよう。
宮田は目標だった200万票をこえる票を獲得。
選挙結果は、「自民党62・社会28・公明14・共産13・民社5」で「7議席差の保革伯仲」といわれた。自民党以外は、まだ「革新」だったのだ。7議席差とはいえ、ここで、なりふりかまわず保革逆転を阻止した自民と、保革逆転ができなかった「革新」の差は大きかった。やがて民社や公明が「革新」を捨て、自民に接近する流れにつながったといえる。
祝勝会と事務所のご苦労さん会は、たしか9月になってからだった。赤坂の四川飯店だった。それから一ヵ月もたたないうちに、いつもおれが乗る事務所のクルマを運転してくれたMさんが盲腸炎をこじらせ急逝した。23歳ぐらいだったか、長髪で快活な青年だった。
煩雑な仕事で多忙だったが、この間、夜遅く、歌舞伎町でよく飲んだ。これ以後、政治の仕事にはあまりはまらなかったが、歌舞伎町には、シッカリはまった。
