溝口久美さんが遺したメッセージ。
この2、3日、「溝口久美」の検索から当ブログにアクセスしてくる方が何人かいる。
元ミーツ・リージョナルの編集者、溝口久美さんが急逝されて5年目の命日がきたのだ。
亡くなった正確な日にちは、知らない。2010年の、11月17日から18日にかけての夜中のことだったらしいし、おれがそれを知ったのは19日で、溝口さんのご遺体が故郷に帰り荼毘にふされたのが20日だった。
溝口さんと最初で最後の仕事になった、2009年7月1日発行のミーツ・リージョナル別冊『酒場の本』で、溝口さんが言い遺したことを、また思いだすことがあって、あらためて大切なことだと思っている。
つまり、溝口さんは、表紙に「いまや『酒を飲む場』を求める時代ではないのだろうか」と書いた。
そして本文大扉のリードでは、最後をこう結んでいる。
酒場を流行軸でとらえることの
無意味さに気づいたいま、
われわれが酒場に求めるのは、
そこで過ごす
「何ものにも代えがたきひととき」
なのではないだろうか。
さあ、そんな酒場へと、還ろう。
ほんらい、アタリマエのことだと思うが、「流行軸」の風は強く、アタリマエがなかなか難しい。だから「還ろう」なのだ。
最近この言葉を思い出したのは、「酒とまちづくり」に関するエッセイを依頼されて書いたからだ。その雑誌は、まもなく刷り上がるらしいが、「酒好きと酒と酒蔵と『町』または『ふるさと』」というタイトルで4000字ほど書いた。
詳しくは発行になってから紹介したいが、もともと飲食と場所は大いに関係あるし、とくにその場所の更新に関わる積極的な面が、「まちづくり」といった場合、いろいろ関係する。
「まちづくり」や「地域の活性化」とかいうのは言葉はよくないと思うが、ようするに言葉はいろいろでも、場所の記憶の更新を意味する。場所の記憶が更新され、活き活きと息づいているかどうか。
そこに、酒や酒飲みがどう関わっているかというのは、なかなかおもしろいことだし、それは時代によっても変わってきている。そのあたりを、自分の飲酒史あたりもからめながら書いた。
溝口さんが言い遺した、「いまや『酒を飲む場』を求める時代ではないだろうか」について、もっとよく考えなくてはならないと思ったのだった。
この言葉は、昨今の「日本酒ブーム」といわれる「純米酒ブーム」を考えると、対照的に際立つ。なので、エッセイでは、ほんのちょっぴりだが、「純米酒ブーム」のオカシイところについてもふれた。
今日は、溝口さん追悼の意味もこめ、ザ大衆食のサイトに、『酒場の本』のページをつくった。まだ書き足すが、とりあえず公開。…クリック地獄
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