『栄養と料理』で栄養と料理を考えてみる。
『栄養と料理』3月号(女子栄養大学出版部)をいただいてから2週間以上がすぎてしまった。はあ、どうしていつも、なんだかんだ、いろいろ重なるのだろう。とはいえ、いろいろ重なると、重なったからこそ見えてくることもある。今回は、とくに、以前読んだことのある、味覚がらみの資料を集中的に読めたのが、よかった。
味覚や料理に関する本ばかり読んだが、栄養の話は、ほとんど出てこない。というのも、たとえば丸元淑生の『いま、家庭料理をとりもどすには』や『悪い食事とよい食事』などは、味覚や料理の話としてはツマラナイから、最初からはずしてあるからだ。ツマラナイというのはいいすぎで、一度読めば、二度と読む必要がないというほうが正確か。
とにかく、栄養と料理は、けっこう矛盾している関係なのだ。栄養は、料理の片面だけ、あるいは一部だけでしかない。食文化からみれば、料理は食文化のことだけど、栄養そのものは生理であって、食文化ではない。
ただ、栄養に、どういう態度や考えでのぞむかは、文化のことで、これは食文化だけではなく、健康に関する文化や、人生哲学のようなものまで関係する。それは栄養は生理のことだから、生命のことでもあるからだ。つまり、自分の生命=肉体とどう向き合うかは、それぞれの生き方のことが深く関係する。
ところが、いわゆる栄養の専門家のような人たちは、簡単にいえば、人間はみな健康のために生きている、健康のために生きなくてはならない、と、考えているようなのだ。
その態度が、じつに「説教臭く」て、あまりよい印象がない。それに、栄養にからんで、「癌にならないための食事」とか、エセ科学っぽいアヤシイ話も多く、ウサンクサイ印象が蓄積している。おれのなかに蓄積しているだけかもしれないが。
そのイメージが『栄養と料理』にまでかぶって、この雑誌は、昔のクセで、ときたま本屋でパラパラ立ち読みをすることはあっても、買ったことはない。
昔のクセというのは、1970年代は、仕事柄、会社のカネで毎号見ていた。商品開発やメニュー開発や販売促進では、イチオウ目を通しておかなくてはならない雑誌だった。
あのころは『三訂日本食品標準成分表』の時代で、これは仕事で必須だったから、一部は丸暗記するぐらい覚えていた。
ところが、『三訂日本食品標準成分表』は、1963年の改訂版だが、つぎの四訂版が出たのは1982年で、その間、三訂を信じているほうもオカシイのだが、でも、みんなこれを基準に仕事をしていたのだ。で、四訂が出て見たら、三訂とくらべ、100g当たりの成分が大幅にちがっている食品が、けっこうあったのだ。
そりゃまあ20年近くも改訂されてないのだから、とうぜんのことなのだが、おれは、それでアタマにきて、それから、一切、この成分表は見なくなった。こんなアテにならないものを根拠に、ああでもない、こうでもないやってきた自分がバカバカしく、ついでに栄養の専門家たちにも、興味を失った。
そもそも、食物の成分などは、たとえば野菜などは、とれたてとスーパーに売っているようなものとは、ちがう。おなじ魚でも、とれた海によってちがう。
ま、そういう話は、よい。
『栄養と料理』だけど、この雑誌は、健康オタクの一般(女性)誌と栄養業界誌と女子栄養大学PR誌がまざりあったような内容と作りで、この3月号は、おもっていたより、おもしろく読んでしまった。
もくじのつぎの見開き、久間昌史さんの写真と文がよかった。「食を魅せる くまの眼」ってことだけど、写真家の文章というのは、なかなかよいものが多いね。ニンゲンやモノを観察する態度のちがいだろうか。
「「台所遺産」を見に行こう」が、おれもアチコチの遺跡を見に行っているので、興味深かった。
特集「やっぱり気になる!?女のコレステロール」は、更年期を迎える女性に対象をしぼっているので、単なる善悪論でなく、話が具体的で説得力があった。
おれの周辺には、更年期を迎えるか突入しているひとが多いので、おもわずマジメに読んでしまった。説教臭くもなく、押しつけがましくもなく、ようするに「自分の体と向かい合っていくことがとてもたいせつなんですね」ってことで、おわる。では、どう向かい合うかは、栄養学のことではないからだろう。だけど、そのへんがまあ、どうなのか、難しいところを避けて、けっきょく「自己責任」か、という感じでもある。
体の悪いひとは、栄養は切実な問題であるように、日々の仕事や暮らしも健康なひとにはない切実なことを抱えている。コレステロール対策に「運動」があるけど、もともとそれだけ運動できるヒマがあるなら体を悪くしない、というひとも少なくないだろう。
どう自分の体と向かい合っていくか、あるいは、うまいものが食べたいという欲求と、どう向かい合って行くかがないと、やっぱり栄養オタクや健康オタクための話になってしまうような気がする。ってことで、内澤旬子さんの『身体のいいなり』を思い出した。
それはともかく、詳しくは知らないが『栄養と料理』にとって、栄養オタクとか健康オタクは、コアの読者かもしれないが、なんの雑誌でも、課題はコアの読者の外側をどう開拓できるかだろう。
この雑誌をいただいたころは、『ku:nel』のリニューアルをめぐって、一部の人たちがナンダカンダ騒いでいた。どちらかといえばコアな読者だった人たちばかりのような感じだったが。ファンの深情けという感じもあった。
だけど、この『栄養と料理』は、そういう、ギョーカイ人が注目するような、カルチャー誌とかライフスタイル誌とはちがう。そういえば「食はエンターテイメント」の『dancyu』とは対極にある雑誌だ。いまどきの、オシャレな「上質」といわれるデザインの雑誌ではないし、そういう系統のファンなど見向きもしない雑誌だろう。
だけどおれは、もう「本好き」とかいう人たちが好む、ある種のテイストに食傷気味だから、この雑誌の、ちょっとダサイぐらいの大味のデザインに、なぜかホッとするものがある。メイン・ターゲットが50代女性ということだが、おれもトシのせいか、本文の文字がデカイのもよい。ヤボでノビノビした感じは、よいものだ。
それはともかく。栄養と料理という矛盾あるテーマを一緒に謳うなら、やはり、サヴァラン様の『美味礼讃』に立ちかえるのがよいとおもう。この本は、たいがい、文学的な箴言ばかりもてはやされているが、もとのタイトルは『味覚の生理学』であり、生理と栄養と料理と美味の関係などを語っているのだし。「精力」のつく料理の話もあるしね。
なのに、栄養の専門家たちときたら、栄養があるものはうまい、和食は栄養学の理にかなっているとか、食は生命なり、などなど、そういうことをいっていればコトがすむとおもっているのか、なんだか論理は乱暴だし深みがない、だいたいツマラナイ。いったい、サヴァラン様の『美味礼讃』を、どのように読んでいるのだろうかとおもう。
テナことを考えたのだった。
とにかく、健康に関心があるからとか、体が悪いからとかだけではなく、健康な人間でも老化するわけで、つまり肉体の生理は変化するわけで、それと共に味覚も変わるわけで、日々の味覚の愉しみが、どう生理や栄養と関係するかぐらいは、普通に知っておいてよいことが、もっとあるとおもう。十年一日のごとく「体によいから」「体に悪いから」栄養学じゃダメだろう。
とりあえず、本屋で『栄養と料理』を手に取ってみよう。たばこは吸わない方がよい、酒はほどほどに、といったステレオタイプで非文化的な文言を無視して見れば、それなりにナルホドとおもうことがある。でも、栄養学者ってのは……。
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