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2016/04/30

唯一人の長い付き合いの親友が亡くなった。

おれには、長い付き合いの友人、お互いに「親友」と呼べる関係が少ない。1960年代の20代からの親友が三人いたが、どういうわけか早死にで、二人は60歳前後に亡くなった。そして生き残っていた一人が、25日の夜に亡くなった。

いま気がついたが、三人とも、おれより一歳上だ。そして三人とも社長業が長かった。60歳前後に亡くなった二人は、社長現役で亡くなった。

25日に亡くなった、最後の一人は、激しい競争のなかで、自分で育て上げて大きくした会社を、神経をすり減らすM&Aのすえに、売り渡した。

そういえば、三人とも癌だった。60歳前後に亡くなった二人は、手術を断り、運にまかせた。25日に亡くなった男は、3年前に大腸癌が見つかり手術、順調に回復と思ったが、その後、肝臓に転移が見つかった。もともとC型肝炎だったこともある。手が付けられない状態で、治療を受けながら、長くないことを覚悟したようだ。

昨年、いつ会えなくなるかわからないから、飲めるうちに飲もうと彼が言うので、中野で飲んだ。それが、お互い、最後の別れのつもりだった。そして、その通りになった。

覚悟は、していたが、亡くなった知らせが届いたときには、やはり驚いたし、残念な気持が激しかった。

彼とは、おれが初めて正社員で雇われた会社で知り合った。1965年頃だったか、おれは22歳ぐらいということになる。

かれにもおれにも、大変なことが何度もあった。

彼が最も大変だったのは、やはり、会社を売り渡すときだっただろう。なにしろ、自分が育てた社員に対する愛情が深かっただけに、その決断は大変なことだった。それに、アメリカのフランチャイズ本部との関係など複雑な問題もあった。

おれの手元に、彼がA4にビッシリ書いた149頁の文書が残っている。「マージャー」というタイトルだ。

彼の人生も含め、その会社に関わるまでからM&Aの成り行きを綴ったものだ。自分が育てた会社を売り渡すという、耐えがたいほどの苦渋の中で、これを書き、そして耐えた。

この文章は宅急便で送られてきた。そのときの、おれ宛の手紙には、こうある。

遠藤哲夫様
これは小説か?
はっきりしていることは、この作業に集中しなかったら、半年はもたなかったことだ。会社を売ること、その結果目の前で繰り広げられることは、熱愛中の女を他の男に取られて、その上彼らの結婚式に出ているようなものだ。
「人間一生に一冊は小説が書ける」というが、そんなたわごとを引っ張り出しても慰めにならないほど、集中力が切れそうな半年だった。あと半年残されているが、どうなることやら。
元来短気なのだろうが、結構我慢を覚えてきた。しかしここからはどこで切れるか自分でも予測がつかない。
ともかくこの文章を先ずあなたに送る。これは小説か?あなたの答えを待つ以外にない。

以上全文。日付は2002年7月2日で、本人の署名がある。

彼の会社の売買は、ニュースになった。いま調べたら、会社の売買契約が締結したのは2002年1月8日だった。彼の会社は、某有名企業グループの100%子会社になったのだが、その日から1年間、彼は役員としてその会社に出社し、いろいろなことを「引き継ぐ」仕事をしなくてはならなかった。

彼は出社をし、新しいご主人様のもとで、「熱愛中の女を他の男に取られて、その上彼らの結婚式に出ているようなものだ」という苦しみを毎日のように味わっていた。それが、「あと半年残されている」。

彼は、切れることなく、一年を終えた。この文章を書く作業に集中していたからか。書いて、いくらか気持の整理がついたからか。

おれは、読んだあと、これを出版したいのか聞いた。彼は、吐きだしたかっただけで、とくに秘密にしておくこともないが、どうしても本にしたいということもない、あんたに読んでもらったらそれでよいと言った。

さて、彼が亡くなって、この文章を、どうしたものか。

とにかく、お疲れさま。

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2016/04/28

「食べる」「つくる」「考える」。

『日々これ好食』(鎌倉書房、1979年)という本がある。その編著者である山本容朗さんは、「編者のあとがき」で、「普段、あまりナマの声を小説の上でも吐かないタイプの小説家や評論家でも、ことがエッセイになると、事情は一変する。作家の随筆には、彼らの本音や、肉声が、ふんだんに出てくる。」と書いている。

「作家」ですらそうなのだから、作家の域から遠い、おれのような者が書く文章は、「本音」や「肉声」がナマナマしく出まくりだ。もう、てめえの価値観を臆せずに押しまくるし、自分の美学に酔うし、隠しているつもりの人間の悪い柄というか人間性も、出まくり。

昨日のブログに書いた、発売中の『散歩の達人』5月号「食堂100軒」と、先月号の「酒場100軒」を、あらためて見て、そういうことを、つくづくしみじみ感じた。

もとはといえば、そういうことでなくて、外食舞台におけるコンニチ的傾向を、これをもとに大雑把な分類ができるのではないかと、試みていたのだが、本音や肉声のあまりのおもしろさに、そういう冷静な観察などは、すっ飛んでしまった。

ま、おれなんぞは、「書く」という表現は、恥を「かく」ものだと思っているので、丸裸になるのを恥とは思っていないし、インターネット上でdisられても、知らん顔されているより名誉ぐらいで、気にならないのだが。

とにかく、さまざまなメディアや、そこにのせるさまざまな表現方法を生んで、それらが、大変エライ文化だというぐあいになっている、人間世界というのは、おもしろいですなあ。

などと、ぐにゃぐにゃ考えていた。

とりあえず、本音や肉声は別にして、「食堂100軒」「酒場100軒」に共通する点は、雰囲気も含めて「場」を中心に語る人と、食べ物や飲み物といった「モノ」を中心に語る人と、技術などお店の人に属することも含めて「ヒト」を中心に語る人、それと、少ないが、「私」を語る人、というぐあいに分類ができそうだ。もちろん、きれいキッパリと分けられるのではないが。

でも、この分類だけでは、おもしろくでもない。もっと、なんですね、この特集を通して見えた、それぞれの登場人物の深層心理的深層思想的深層価値観的人生観や性格…といったわけのわからん深層を探る分類でないと、なにしろ、これほど雑多な「100」が集まって、せっかく本音や肉声があらわなのだから、もったいないのだ。

飲食のことは、ほんと、おもしろい。

ところで、冒頭の『日々これ好食』は、山本容朗さんが選んだ「二編の小説と四十八の随筆」から成っている。

これを三つの章に分類しているのだが、それは「正確ではないが、食べる、つくる、考えるという心づもりである」と「編者のあとがき」にある。

「食べる」も「つくる」も食べ物のことだが、「考える」は食べ物だけではなく食べることも含まれる。

飲食関係のエッセイというと、「食べる」と「つくる」に偏りがちだが、ここに「考える」を加えているのは、さすがだなあと思った。

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2016/04/27

発売中の『散歩の達人』5月号「食堂100軒」で、大宮の「いづみや本店」を紹介。

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先週末に発売になった『散歩の達人』5月号は、「20周年記念企画」の第二弾ってことで、食堂特集をやっている。先月号の第一弾は酒場だったし、次号の第三弾は喫茶というぐあいの、20周年記念の連続三特集なのだ。

001「エンテツこと遠藤哲夫が立ち寄る食堂酒場」として、大宮東口の「いづみや本店」が、見開き2ページで載っている。

おれの文章は600字弱といったところ。ほんのちょっとだけ、クサイ表現を盛った。

企画書では1ページだったから、写真がよくて、見開きになったにちがいない。金井塚太郎さんの写真が、いづみやの情景を、うまく撮っていて、すごくいい。

おれが一人で立ち寄る時間帯は、平日の午後2時から5時ぐらいのあいだが多い。その5時ごろの取材だったのだが、近頃のいづみやは、いつ行っても客が多い。そして時間帯によって、客層が変わる。この時間帯は、おれ同様の「高齢者」が最も多い時間帯だ。ま、平日の昼間ヒマしているのは、この年代が多いのだから、当然だろう。

いつも、その高齢者御同輩に埋もれるようにして、なにかの定食か丼物やチャーハンで、ビールを一本あける。そのままの様子が、写真になった。

この写真の、おれの埋もれぐあいもいい。先日、数人で酒を飲んだとき、「一歩前へ出る」や「もう一歩高いステージへ」より「埋もれている」のが好きである、目立ちたくない、もう一歩の押しがない、そういう人間だっている、というような話をしていて、それは「裏日本」育ちのせいかと、おなじ「裏日本人」のSさんと盛りあがった。そんなことで盛りあがっても、よいことはないのだが、控えめのタチというものだ。

散達から声がかかったのは、ひさしぶりだ。

『散歩の達人』の初仕事は、1997年4月号の第二特集「大衆食堂の逆襲」だった。編集協力とコラムの寄稿だった。このときの肩書は、「フリーのプランナー・ライター」になっている。肩書に中途半端に「ライター」を入れ始めたころのようだ。

今回の肩書は、「著述家」になっているが、いつものように、肩書やプロフィールなどは編集さんにまかせている。「著述家」は、『dancyu』2016年1月号「いい店って、なんだ?」特集のときに、dancyuの編集さんが初めて使ったのではないかと思う。名刺は「フリーライター」なのだが、なかなかその通りにはいかない。

それはともかく、『散歩の達人』の仕事を、ザ大衆食のサイトからテキトウに拾ってみると、こんなぐあいだ。

1997年11月、12月号横丁特集で、「横丁が消える日」「王子さくら新道・柳小路」。

2001年3月、4月号浅草特集で、コラム「浅草天丼怪食術」。

2002年8月、散歩の達人ブックス『東京定食屋ブック』で、企画協力と原稿。

2004年7月、散歩の達人ムック『東京夕暮れスタイル』で、コラム「ビールと焼そばで考えた」。

2004年11月、12月号にコラム「とん汁青春論」。

2006年9月、10月号「掘り出し本に一本!」で、『明治西洋料理起源』の紹介。

ほかにもあるかも知れないが、散達から声がかかったのは、10年ぶりぐらいのことにちがいない。

ザ大衆食のサイト、2005年6月20日に、

『大衆食堂の研究』1995年発刊から10年
大衆食堂の逆襲
『散歩の達人』1997年4月号
http://homepage2.nifty.com/entetsu/siryo/santatsu_gyakusyu.htm

を書いている。さらに10年たって、これを読んでみたら、この20年間の、大衆食堂や散達をめぐる「変化」が見えて来るようで、おもしろい。

「いづみや」も、最近は、20代の客が増えている。かれらは、「昭和」や「レトロ」にひたりたいわけじゃないし、そこに惹かれているわけでない。

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2016/04/21

解説を書いた獅子文六『食味歳時記』中公文庫復刊が今日から発売。

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2016/04/08「4月21日発売。獅子文六『食味歳時記』中公文庫が復刊、解説を書きました。」に書いたように、今日から書店に並び始めるようだ。

中公文庫(中央公論新社)@chuko_bunkoの公式ツイッターでは、このような告知があった。

獅子文六『食味歳時記』が復刊。明治の横浜に生まれて以来の食味遍歴を背景に、ユーモア作家が残した味覚随筆の名品です。「ウマいものはウマい」と気取らず「食う」著者のスタイルは、現代日本のグルメ指向とは一線を画して、新鮮にして痛快です。解説はエンテツこと遠藤哲夫さん。
https://twitter.com/chuko_bunko/status/722967159425519617

解説は4000字(7ページ分)ほど書いたが、要約すると、このツイートのようなアンバイになる。
amazonで予約していた方は、すでに昨日のうちに入手していたようで、「解説も痛快」というコメントをいただいた。

本が出来あがったのは、先週の15日金曜日で、今週の月曜日18日に大手町の読売新聞ビルにある中央公論新社へ行き、担当の編集さんと初めて会い、本をいただき、「みますや」で一杯やった。

おれが中公文庫の、しかも獅子文六の解説を書くなんて、ある書店の方は「意外ですね」といい、あるフリーの編集者は「えっ」と絶句したほど、予想外のことだ。まるでカラーのちがう世界と思われても当然だろう。もちろん知り合いはいない、解説の話は1月26日にいただいた突然のメールから始まったのだ。

ライターは本の売り上げで評価されるものではないというタテマエがあったにせよ、おれのような売れないライターに解説を頼むなんて、かなりの冒険にちがいない。いまどき、そんな冒険をする編集さんがいるのか、どんなひとだろうと興味津々で会いに行って飲んだのだ。

じつに愉快な酒だった。「なるほど」と思うことが多々あった。

獅子文六のこの本は、とにかく面白いし、飲食に関心のあるひとは必読の名著だ。資料的価値も高く、おれは『汁かけめし快食學』などで引用している。

前にも書いたように、いま獅子文六が再び注目されていて、とくに火付け役になったちくま文庫から、新たに数冊出ている。明治生まれの文士なのに、いま読んでも古臭くなく、新鮮だ。ほかの小説やエッセイなども、あわせて読んでいただけるとうれしい。

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2016/04/20

東京新聞「大衆食堂ランチ」42回目、三鷹 いしはら食堂。

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おれは、基本だらしないタチなもので、なるべくキチンとするよう心がけているつもりでも、もともと習慣ができてないから、スグだらしないほうへ流れる。月に1度のこの連載を、ここに掲載するのも遅れがちなだけでなく、今日はおどろいた。毎月送られてくる掲載紙を、ほかの資料などと一緒にテキトウに積んであるのだが、見当たらないものがあるのだ。

なんでもドンドン捨てるクセがあるから、うっかり捨てたのだろうか。以前そういうことがあって、新聞社の方からコピーを送ってもらったことがあるからなあ。

蒐集癖とは無縁だし、整理も苦手だし、書いたものに執着もなく、キチンと取っておくほうでない。だから、ここに掲載すること自体、メンドウだからやめてしまえばよいのだが、そこをやめずに、だらしなく続けるところに快感がある。てなことで、今回から掲載紙面の画像も載せることにした。

こうすれば、掲載紙を広げてスキャンし、そのあとファイルに綴じる、という流れができるんではないかと期待してのことだが、はて、どうなるか。

それはともかく、この三鷹のいしはら食堂は有名店、人気店だから、ご存知の方が多いだろう。だけど、なにしろ、ここ東大宮から三鷹は遠い、はるか彼方の空の下、以前都心に住んでいたころと違って、近年はほとんど注意も向かない。この店のことは、すっかり忘れていた。すみません。

2016/04/07「美術系同人誌『四月と十月』34号、連載「理解フノー」は16回目。」に書いた、牧野伊三夫さんの『僕は太陽をのむ』(四月と十月文庫6、港の人)の出版記念会のとき、岡崎武志さんと立ち話になり、岡崎さんにこの食堂のことを言われて、そういえばと思いだしたのだった。

なにしろおれの記憶装置がだらしないうえ、トシもあって、どんどん忘れる。困ったものだ。

岡崎さん、ありがとうございました。

とにかく、いしはら食堂は、入口に「安い、うまい、早い、品数多い」を掲げているのだけど、その通りなのだ。そのうえ、とても居心地がよい。

この店では、「ごはん・みそ汁・つけもの」を定食とよび、これが200円というのが安い。そして、おかずは100円前後から各種揃っている。おれはメンチカツ1個とあじのフライ1個を組み合わせてもらい、それにポテトフライ、こういう注文ができるのもうれしい。510円で満足の食事ができた。

昔の大衆食堂は、定食メニューはなく、こういうスタイルが多かった。この食堂ができたのは40年ちょっと前だそうだから、このスタイルのままやってきたのだな。

ってことで、先週の15日は、第3金曜日で、東京新聞に連載の「エンテツさんの大衆食堂ランチ」の掲載日だった。すでに東京新聞Webサイトでご覧いただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2016041502000189.html

この4月15日の朝刊は、前夜午後9時26分ごろ、熊本県益城町で発生した震度7の地震がトップニュースだ。まだ地震はおさまる気配もない。

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2016/04/17

「究極」と「至高」と「丁寧」。

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おれの印象だが、グルメ談議の世界で無造作に使われていた言葉、「究極」や「至高」は、まだ惰性的に使われることが多いとはいえ、いくらか下火になっている感じがする。かわって、というか、追加的にというか、「丁寧」が、いまやトレンドといってよいぐらいだ。

これをどう見たらよいのだろうと考えるうちに、そもそも、いったい、「究極」や「至高」は、いつ頃から大々的に使われるようになったのか、気になってボチボチ調べていた。

で、とりあえず、このへんはマークしておく必要があるなと思われるものがあった。

『ビッグコミックスピリッツ』にて1983年20号より連載『美味しんぼ』は、物語の始まりからして、東西新聞文化部の記者である山岡士郎と栗田ゆう子が「究極のメニュー」作りに取り組む漫画であり、当初から「究極」という言葉は使われている。

で、1988年7月発行の『美味しんぼ』15巻のタイトルは、「究極VS至高」なのだ。

この巻の第一話が「究極VS至高(前編)」で、東西新聞の競争相手である帝都新聞が「『至高メニュー』作りに取り組むことにした」というニュースで始まり、第二話、第三話と展開する。

第一話が、何年何月の初出かは知らないが、おそらく一年以内のことだろう。しかし、そのころを思い出しても、「究極」や「至高」は、それほど使われていたわけじゃないと思う。同じころから話題になった、文春ヴィジュアル文庫のB級グルメ界隈でも、ほとんど使われてない。

また、『美味しんぼ』の連載が始まった、80年代前半は、山本益博さんの『東京味のグランプリ』が売り出し話題になっていたが、そこでも、「究極」や「至高」は、ほとんど見当たらない。

ま、料理や味覚を評するものが「究極」だの「至高」だのと言っていては、始まらないのだが。

だけど、『美味しんぼ』は、違った。このあたりが、「究極」や「至高」の震源のような気がする。

このいかにもバブリーな浮ついた言葉は、むしろバブル崩壊後のB級グルメ談議の分野で盛んに使われることになった。という記憶なのだが、そのへんは、これからトレースしてみたい。

いかにもバブリーな言葉が、なぜバブル崩壊後の、しかもB級というステージで、もてはやされてきたのかは、面白いことだと思う。

そして「丁寧」。

最近、WEBで「台東区・墨田区・江東区エリアが『オシャレタウン』に変貌した理由」という記事を見かけた。
(SPA! ) 2016年4月14日(木)配信
http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/spa-20160414-1070663/1.htm

これは「川の東京学」にも関係する内容だけど、それはともかく、このエリアは、「大都市東京にありながら、どこかレトロな雰囲気も『丁寧に暮らす』が信条の若者にウケた要素だ」ということらしい。そして「東京の下町が『イースト・トーキョー』になっていた」と、ウエスト・ト-キョー的な見方を披露している。

「“お金や時間ではなく、質にこだわる意識の高い人たち”としてサードウェーブ系男子なる言葉も登場」ともある。

「究極」や「至高」のごとく、もう歯の浮くような話なのだが、「丁寧」は、そんなことになっているのかと驚いた。

「丁寧」は、仕事や料理に対する、近年の最高の褒め言葉であるようなのだが、「究極」だろうと「至高」だろうと「丁寧」だろうと、「いいもの」「おいしいもの」談議に共通しているのは、人間や食べることに対する洞察に欠けるか弱いものが非常に多いということだろう。歯の浮くような言葉だけが躍っているのだ。

その辺は、大いに興味深い。

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2016/04/14

空気と水と食パン。

きのうのベーカリーのことで思い出した。「空気と水は金になる」とか、「空気と水で利益を稼ぐ」といったような話がある。いまでも言われているかもしれない。

ことによると原価がタダ同然の、水そのものも空気そのものも商売になるけど、それだけではなく、水でこねたりのばしたり、さらに加熱するなどで、ふくらませて容積を稼ぐものには、たいがい言えるのだ。

パン、とくに食パンのように、シンプルなつくりのものには端的にあらわれる。

おれがベーカリーの仕事をした1980年代中頃までは、まだ食パンは腹応えが大事で、小麦粉を十分に使用しズッシリとしたものが、「いい食パン」として、売れていた。

コンビニでも、弁当やにぎりめしを主力にするまでは、パンの棚の食パンがかなりをしめていた。食パンは、ディリーの食品だから、客の足をよびこむ大事な商品だった。おれが関係していたコンビニでも、新規出店の店では、必ず食パンと牛乳の安売りをして、客の獲得をはかった。

ところが、その「いい食パン」というのは、小麦粉を十分に使用するためコストがかかる。つまりは、あまり水でのばしたり、ふくらませたりができない。手でにぎっても、離すともとの形になるぐらい、しっかりつくる。

それでも、コンビニの場合は、体力もあるし、販促商品だと思って利益は少なくても、やっていた。

ベーカリーの場合はどうかというと、食パン以外の菓子パンや調理パンなどで利益を稼ぐように、商品を構成した。食パンさえよければ、まず客が来てくれる、来たついでにほかのパンも買ってもらい、そこから地元に人気の利益が稼げる商品を育ててゆく、というやり方だった。

菓子パンや調理パンは、食パンほどシンプルなつくりではなく、空気と水の利用のコントロールの幅があり、またほかのものを添加することで、付加価値を盛りやすい。

80年代を通じて、いわゆる「多様化」がすすみ、「菓子パン」や「調理パン」という言い方ではおさまらないぐらい、様々なパンが売られるようになった。

いつごろからか、パンのなかで食パンの相対的位置が低下したことも関係あるのか、「ふわふわ」な食パンが「いい食パン」という流れになった。

米のめしを食べるときとおなじように、食パンそのもので腹持ちを維持するというより、いろいろなものと食べて、満足するようになったのだろうか。

もともと日本の食パンは、日本にしかない「ふわふわ」と言われていたのに、さらに、なに、その「ふわふわ」がウリって、どういうことだ、という感じで、ちかごろのスーパーやコンビニで売っている包装食パンは、空気を食べているみたいだ。

こういう流れの中では、とうぜん重量に対する疑問も出るだろう。なにしろカロリー計算もうるさくなっていることだし。

どういうイキサツかは知らないが、包装食パンには、「1斤は340g以上です。」という表示が見られるようになった。いつからこんな表示がつくようになったのか、検索したら、2012(平成24)年5月からのことで、新しい。

日本パン公正取引協議会
http://www.pan-koutorikyo.jp/display.html

デフレ下とくにリーマンショック以後は、どんな商売もコスト削減に追われている。このように最低グラム数を表示しなくてはならない事態にまでなったのか。見た目は、空気と水で、大きく、白くふわふわでうまそうだが。

飲食や味覚の話というと、うすっぺらなふわふわ浮ついた話が多いのだけど、食パンまでふわふわしてしまったのだな。

空気と水がなければ生きていけないが、空気と水ばかりで中身のない話とブツがはやる。安っぽくて、かっこ悪くてもよいから、ゴツゴツ中身のある話やブツが欲しい。

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2016/04/13

手作業マーケティングの時代があったのだ。

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資料を整理していたら、昔の仕事、パン工場の移転とベーカリーレストランやパン売店の開設に関する、もろもろの書類が出てきた。なつかしい。

もう30年前、1985年前後のものだが、経営や市場や販売に関する分析の計算が、ぜんぶ手作業だ。しかも、パンの一個あたりの原価計算は、何十何銭の単位まで。たぶん電卓を叩きながらだったにちがいない。いまでは金さえ出せば簡単に手に入るメッシュデータにしたって、地図をもとに自前で作成している。

よくまあ、こんなメンドウなことをやっていたものだが、だから仕事になったともいえるのだな。

すでに8ビットのパソコンやワープロ専用機が出ていたが、まだ高価で、手作業が普通だったのだ。いまならありえない。

このころから5年たたないぐらいのうちに、おれは表計算ソフトが搭載のパソコンやワープロ専用機を使って作業するようになっていたから、手作業最後の時代といえるか。

このときは、都内の山の手線駅近くにあったベーカリーを、多摩地方へ移転、工場の拡張とベーカリーレストランと直営売店をあわせて3ヵ所開設する計画で、立地の調査から各施設の立ち上げまでやった。

おれは立ち上げがすんだら手をひく仕事だから、たしか2年間ぐらいか、この事業のために新設の会社の役員もした。

その後、この会社はいろいろあったらしく、社名も店名も変わったようだが、少し前、直営売店の一つの前を通ったら、元気そうに営業していた。

ベーカリーの商売は、面白いもので、普通の小売り店や飲食店というと「立地産業」といわれるぐらい好立地かどうかが大きく影響するが、ベーカリーの場合は、必ずしもそうではない。というのを知ったのは、このときだった。

もちろんやり方によるが、あまり条件のよくない、普通の小売り店や飲食店なら避ける立地でも成り立つ方法がある。仕入販売のパン店では、そうはいかないのだが。

それは、「焼き立て」が武器にできるのと、パンの種類と味覚と製造原価と利益の関係にコントロールの幅があるからだ。その組み合わせ方で、いろいろ可能性が広がる。

いま、この東大宮にも、駅から離れていて、商店街でもなく人通りも少ない住宅街で、しかも高圧送電線の下という立地で、けっこうにぎわっているベーカリーがある。

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2016/04/12

浦和、翌日は池袋、快飲大飲。

先週末、8日(金)は、浦和駅19時集合で飲み会だった。久喜のYさんからのお誘いだったから、いつものように3,4名かと思って行ったら、7,8名の方がいた。会場の居酒屋に着いてから3名ほどの方が加わり、合計11,2名だったか。以前、Yさんと一緒に飲んだ川口のWさんが、あれ以来。

「浦和会」ということで3回目だそうで、埼玉の住人を中心に亀有の人と厚木のほうの人と高崎の人もいた。ほとんどのみなさんが、営業や販売関係だけど、3人の方が会社を辞めたばかりで、1人は有給消化中、1人は新しい土地での仕事が決まりかけ、1人は求職中だった。いまや転職は普通か。若いし、自分の意思での転職。

にぎやかで楽しい飲み会だった。営業関係の人は、おれもそうだったが、話が拡散的だから、面白い。それに、聞き上手が多いから、話もはずむ。さて、「5年後」は、どうなっているか。日本のことや、東京のことや、ギョーカイのことだけど。

23時ごろまで、大いに飲んで語った。記憶喪失にはいたらなかったが、泥酔よろよろ帰宅。

翌日9日(土)の朝は、少し酒が残っていたが、昼までには回復。15時に池袋駅西口で待ち合わせだった。ひさしぶりの広報のイシカワさんと社長のヤマシタさん。イシカワさんが、ひさしぶりだから、3人で顔を合わせるのはひさしぶり。もう、ガッチリ飲もうということで、この時間の待ち合わせになったのだ。どうかしてる。

まずは、ふくろ。ここで、ヤマシタさんの仕事グループの、初対面、かわいいチバちゃんが登場。見るからに、IT技術者でオタクで、かわいい。

おれは気がつかなかったが、ヤマシタさんが気がついた、イシカワさんがほっそりとなって、「仕事のしすぎでしょ」「過労死ペースで仕事をしているから」。まったくねえ。いまの日本、大小のメディアで偉そうにしている口うるさい評論家みたいな連中のために、労働現場は死んじゃうよ。

そういえば、態度の悪い「パワーブロガー」のことも話題になったな。ダレ、とはいわないけど。べつにパワーブロガーばかりじゃなく、ちょっと何かを書いて、ちょっと売れたぐらいで、何様気取りで、取材に応じるのは当然という態度で臨んでくるライターとかいる。

ま、売れないやつだって、メディアという大小の権力を背景に偉そうにする。これ、いまに始まったことじゃないが、片方では、昔ほど新聞や雑誌などが威力あるわけじゃなし、見方によっては虚妄の権威と化している。そのことを自覚してない関係者も少なくない。

でも、一般としては、イチオウ、メディアには低姿勢でいないとってことで、オトナの付き合いでやっていると、ますますつけあがる。そんな連中がメディアまわりには、けっこういるのだな。

こういう連中に限って、有名で強いほうに寄り添いたがるから、弱い立場の現場は、ますます疲弊する。

てな悪態はテキトウにして、とにかく飲んだ。ふくろのつぎは、偉そうにしない、馬鹿にされてもよい、安っぽいの大好きコースで、清龍本店。で、ここで清酒をアレコレ飲んでいるうちに、カラオケへ行こうという話になったのだな。

それで、三軒目は、清龍のレヂのおにいさんが安くて安心とおすすめの近くのカラオケへ。とにかく、歌って、飲んだ。このあたりから記憶がアイマイになり、おれは、スーダラ節、チャンチキおけさ、銀杏BOYZ青春時代を歌ったのは覚えている。

最後は、以前から気になっていた、アボチョイ池袋店。ここで、ビールを飲んでハギスとフィッシュアンドチップスを食べたのと、イシカワさんがホームまで送ってくれたのは覚えている。

翌、10日(日)は、終日、肉体がでれでれ状態で、使いものにならなかった。

浦和や、都内でも池袋あたりで飲んでいると、帰りが楽でよい。

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2016/04/08

4月21日発売。獅子文六『食味歳時記』中公文庫が復刊、解説を書きました。

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すでに予約受付が始まっているけど、4月21日に中公文庫から発売の、獅子文六『食味歳時記』の解説を書いています。

文庫の解説を書いたのは初めて。しかも、中公文庫。しかも、獅子文六の作品。おれが解説でよいのかと意外だったけど、書けた。

これは、1997年版(写真)の復刊。解説の依頼をいただくまで知らなかったが、ちかごろ獅子文六が再び読まれているのだそうだ。

1997年版の解説は、尾崎秀樹だ。

「サヴァランはグールマンディーズを定義して、「味覚を喜ばすものを情熱的に理知的にまた学習的に愛する心」としている。日本でのグールマンディーズを挙げるとすれば、村井弦斎、木下謙次郎、本山荻舟にはじまり、北大路魯山人、辻嘉一、小島政二郎、谷崎潤一郎、獅子文六とつづく。/獅子文六は昭和三十六年に『飲み・食い・書く』を角川書店から刊行し、昭和四十三年には『食味歳時記』を文藝春秋から出版した。他にも未収録の食のエッセイは少くない。/この文庫に収められた「食味歳時記」は文字どおり、食に関する歳時記だ。昭和四十三年の一月から十二月まで『ミセス』に連載された。」

と、尾崎秀樹は書いている。はて、おれは、どのように書いたでしょうか。ご覧になってくださいまし。

『ミセス』の連載終了と同時ぐらいに文藝春秋から出版になり、その翌年、獅子文六は文化勲章を受章、その一か月後に76歳で亡くなっている。

1979年1月に文春文庫からも刊行された。

詳しいことは、見本が届いてから、このブログに書きます。とにかく、よろしく~。

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2016/04/07

美術系同人誌『四月と十月』34号、連載「理解フノー」は16回目。

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おれが同人でもないのに「理解フノー」の連載をさせてもらっている、美術系同人誌『四月と十月』34号が発行になった。

今回の表紙は、三梨朋子さんの作品だ。三梨さんは、映像作家であるけれど、映像作家というのは、むかし何人かの映像作家と仕事をしたことがあるけれど、かなり幅広い分野をカバーしなくてはならない。なにしろ、映像って、言葉も音も光も動も絵も…、ま、この世のすべてを映像にからめとり、編集するわけだから。絵だって、自由自在に描くのだな。いろいろやれて、ちゃんとまとめる。

おれのばあいは、いろいろなことに手を出し、いろいろやってきたけど、さっぱりまとまりがない。いわゆる「表現」にかぎらないし、これ一筋という芯がない。バラバラ事件のようなあんばいなのだ。

だけど、ちかごろ、一見バラバラの中にも、共通して関係しそうな「論」にであった感じなのだ。それで、そのことを今回の「理解フノー」に書いた。

題して、「ダンゴムシ論」。わたしの心は、ダンゴムシよ、という話だ。

それはともかく、「アトリエから」に掲載の、同人のみなさんが作品と共に書いている文章がよい。いつも、こう書けたらよいのになあと思う。人間性のこともあるが、「ライター」という人種は、書くことに意味を持たせすぎと感じる。

「四月と十月」のサイトはこちら。取扱い店の案内もあります。
http://4-10.sub.jp/

「四月と十月」といえば、先月の7日に、牧野伊三夫さんの『僕は太陽をのむ』(四月と十月文庫6)の出版記念会があった。場所は銀座6丁目の音楽ビヤプラザライオン。顔の広い牧野さんの出版記念会らしく、多彩な人たちが130人も集まった。二次会にも50人も残り、とにかく、楽しい、いい会だった。

このことは書いていると長くなるから、やめよう。同人の鈴木安一郎さんが撮って、ツイッターにあげたナイスショットを、埋め込んでおく。最後の挨拶で、牧野さんが涙をこらえた一瞬。

その四月と十月文庫だが、おれの「理解フノー」をまとめて出すことになっていて、だけど、ズルズルまとめるのをのばしていたら、自分の本は出し終って、あとはひとの尻を叩くだけになった牧野さんが、「3月中に原稿をまとめること」と厳しくいうので、イチオウ3月31日に仕上げて送った。連載のものをふくらませたり、新たに書いたりしたのだが。はて、どうなるでしょう。

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2016/04/06

川の東京学2016 vol.0 春の遠足+川の東京学親睦会・3月26日(土)。

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このブログ、先月は更新が一回だけだった。こんなことはブログを始めてから初めて。とくに何かあったわけじゃないが、サボりだすと泥沼的に怠けるクセがあるし、なにしろトシのせいだろう、なんでもメンドウになる、できるならなるべく何もやりたくない。ブログを書く動機や特典があるわけでもなく、好奇心で始めて惰性で続けてきただけなのだから、更新しなくても痛くもかゆくもない。それだけのことだ。

とりあえず復帰にあたり、去る3月26日(土)の、「川の東京学2016 vol.0 春の遠足+川の東京学親睦会」のことから、簡単に書いておくとしよう。

当日は、柴又駅に12時集合だった。おれは、チョイと早めに出て、高砂から歩いた。高砂は京成線と柴又方面へ行く京成金町線の分岐の駅で、ここで降りて柴又まで、ふらふら歩いたのだ。

亀有でも金町でも感じることだが、高砂も、どこか地方都市のような趣がある。そのへんは荒川の西側の墨田区とはちがうなあ、という感じだ。これを別の言い方をすると、東京台地側からは、二つの「川向う」があるといえそうだ。つまり隅田川の「川向こう」と荒川の「川向う」だ。

これをまた別の言い方をすると、東京は、台地と、台地と隅田川にはさまれた低地、隅田川と荒川にささまれた低地、荒川と江戸川にはさまれた低地、ということになり、おなじ「東京」だが、だいぶ顔がちがう。

この日は、さらに江戸川の「川向こう」へ渡り、向こう側の下総台地に登って、東京台地側を見ることになっている。

おれの場合は、東京台地の崖下にある日暮里駅で京成線に乗り換え、東京低地の隅田川と荒川をこえ、柴又駅でほかの参加者と合流、江戸川を渡船で千葉県側に渡り、下総台地に立ち、江戸川沿いを下り、市川で江戸川の橋を渡り、都内小岩の野暮酒場へ、ということなのだ。

柴又駅に集まったのは、13名。おれが初対面のひとは女性の2人連れ。雲はあるが、晴れで、日差しが強い。おれもすでに缶ビールを飲んでいたが、みなさんそれぞれ、飲んだり食べたりで始まる。

柴又帝釈天のなかを通りぬけ、江戸川の土手に立つ。河川敷は、よく整備されていて、市民のみなさまの憩いやスポーツや勝手なレクリエーションの場という感じで、人も多い。

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渡船の乗り場、つまり「矢切りの渡し」は、じつに地味で素朴というより野暮な風情。ま、おれたち野暮にはお似合いだし、へたに観光的に整理されるより、このほうがよいか。渡船は、詰めれば30人ぐらいは乗れるらしいが、われわれだけで貸し切り状態。天気が悪くて波が高いときは、モーター走行とのことだが、船頭さんが、のんびり櫂を使う。これで本日のメインイベントはおわり、という感じだったが、まだまだあるのだった。

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千葉県側へ渡って気がついた「矢切りの渡し」の「矢切」は千葉県側の地名なのだ。渡船も船頭さんも千葉県。

千葉県側の江戸川河川敷は、整理されているとはいえ、市民が集まるところではなかった。閑散としている。それもそのはず、江戸川の土手にあがってみたら、下総台地まで荒涼とした景色が広がる。けっこう耕作放棄地や植えたまま収穫されてない畑も多い。

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矢切りの渡しからこのあたりは、伊藤左千夫の「野菊の墓」の舞台になったところで「野菊のこみち」というような、あまりヤル気のない小さな道標も、この風情に似合っていた。東京低地の江戸川向こうは、土手際まで家がひしめく東京側と、ガラリちがっていたのだった。

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川が遮るもの、つなぐもの。たしか、有馬さんが、川の上下は割りとつながるが、川をはさんだ両側は断絶している、てなことを言っていたが、ナルホド。

下総台地のすそにそって住宅があったが、その後は木々が茂る崖だ。道伝いに上がって見る。標高約24メートルのところから、西の方、東京台地のほうを眺めれば、ビルだらけ。

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台地から下り、江戸川土手を下り、市川市の里見公園へ。戦国時代の里見氏の居城があったところだ。14時半過ぎだったか。花見には少し早かったが、宴会となった。

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1時間ほど飲み食いし、もうひと頑張り。さらに江戸川土手を下り、千葉街道に出て江戸川を渡り、無事に野暮酒場に着いたのだった。16時半ごろだったか。

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二部懇親会にだけ参加の方もいた。途中から酔って、よく覚えてない。よく歩き、よく酔った。

とにかく、幹事役の有馬さんと大村さんが下見までやって準備してくれたので、とても充実した内容だった。詳しいことは、そのうち、ぼちぼち書くとしよう。

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