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2016/05/07

ものを食うという態度。

獅子文六『食味歳時記』中公文庫の解説に、おれはこう書いた。

「本書は副篇の『食味随筆』を含め、味覚の悦びの随筆であるが、『ものを食うという態度』を考える書でもある。数ある文士のお気軽な味覚談議と、そこは、かなりちがう」

獅子文六さんは、本文のなかで、こう書いている。

「料理人は、よく味見(あじみ)ということをやり、猪口かなんかで、汁なぞの加減を、ちょいと味わって見るが、あの場合は、純粋な鑑定家の態度であっても、ものを食う人からは、遠いのである。ものを食うという態度は、そんなものではない」

このあと、利き酒と飲酒についても同じようなことを述べ、さらに、こう結ぶ。

「料理の鑑賞ということも、あまりむつかしいことをいい、あまり純粋さを求めようとすると、鑑賞そのものの成立を、妨げることになる。私が食通という語を信ぜず、強いて、そんなものになろうとすれば、不幸の道を歩くことになると、考えるのも、その点にある」

そして、こう続けて展開する。

「しかし、むつかしく考えさえしなければ、ウマい料理も、優れた料理人も、厳然として、存在するのだし、それを愉しむのは、生きる知恵の一つである」

このあたりが、獅子文六さんの、「ものを食うという態度」についての核心部分のようだ。

だけど、近年はとくに、「単品グルメ」のようにモノを絞り、微に入り細に入り、わざわざむつかしく考え、むつかしいことをいうのが、ハヤリのようだ。

生きる知恵の一つとして飲食を愉しむのではなく、不幸の道へと誘うような情報や知識がハンランしている。

それは「通文化」の大衆化ともいえそうだが、なぜか優れた「プロ」の領域に近づくことが向上であるかのような思想や態度が根強い。

獅子文六の『コーヒーと恋愛』(ちくま文庫)を読んだ。

これは、まさに、先の「料理の鑑賞ということも、…」をテーマにしたような話だ。

モノは、料理ではなく、コーヒーなのだが。

コーヒーをわざわざむつかしく考え、むつかしいことをいう対象にしている人たちがいる。「コーヒー道」なるものをめざしている男もいるし、コーヒーを「入れる」のか「立てる」のかを議論したり、また入れはしないが、鑑賞力のある、コーヒー好きを自認する男もいる。ようするに、「純粋」に、コーヒーを入れ、鑑賞しようとする人たちだ。

あれこれむつかしく考える人たちは、自分でキチンと入れる「純粋」を追求する人たちであり、インスタントコーヒーといった「通俗」を軽蔑している。

この構造と、新劇を「純粋」とし、テレビドラマなどは「通俗」として軽蔑する構造が絡む。まるで「純文学」と「通俗小説」を絡めた感じでもある。

とにかく、コーヒーを入れるのが大変上手な女がいて、これが脇役として人気のテレビタレントで、稼いでいる。そして、純粋なコーヒーを求め「コーヒー道」を確立し女を後継者にしようと目論む年配の男がいて、ほかに、女の入れるコーヒーが毎日飲めるならどんな犠牲でも払うという「純粋」な新劇イノチといった若い男がいて、すったもんだあってのち、二人の男は女に結婚を迫るが、女は敢然と拒否する。

「あたしのコーヒーばかり、狙いやがって、あたしを愛してくれる奴は、一人もいやしない」と、女は「自分のコーヒーの特技にも、嫌悪を感じ」「生涯、インスタント以外は、コーヒーに手を出さぬ決心で」、「コーヒー道」に向かっている「可否会」も脱会。

女は、「純粋」だ「通俗」だといった観念の世界から自らを解放し、晴々とする。

獅子文六さんお得意のユーモアと皮肉で、「モノにコる」性癖の異様さの滑稽を描き、笑いとばしている。

ふりかえってみるに、いまどきは、このテレビタレントの女とは価値観が逆になっている動きが、やたら目立つ。人間として評価し評価され好かれることを望むより、モノにコり求道者のごとく何かに詳しいことでチヤホヤされ、チヤホヤしあい、そして、自分で商売するならともかく、生活を愉しむためには必要のないことまで、むつかしくいい、むつかしく考えることを競いあい、ひとの上に立とうとしているようだ。

これは、獅子文六さんがいう「不幸の道」なのではないかと思ったのだった。もっと普通に生活を愉しめないものか。どこかで価値観が逆立ちしているのではないか。なかなかオモシロイ問題だ。

獅子文六さんは、『食味歳時記』でもだが、イキイキと自由に飲食や生活を愉しむ態度を大切にしている。

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