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2016/06/21

書く作業と相対化する作業。

昨日は、14時に大宮駅で待ち合わせ、ジョナサンへ行って獅子文六と『食味歳時記』について話し合った。

考えれば考えるほど、獅子文六はおもしろい。戦前の中産階級の生まれ育ち、つまりは「お坊ちゃん」なのに、その片鱗をほとんどひきずってない。それに明治20年代生まれの文士なのに、文章が、ちっともふるくない。

とくに獅子文六について、詳しく調べたわけではないので、なんともいえないが、これはおれにとっての、「獅子文六のフシギ」だ。

『食味歳時記』が、よくある作家さんたちのうまいものエッセイと異なる点の一つは、全体的な視点があることだろう。「視野が広い」という言い方もできるかもしれないが、それでは少しちがうようだ。

そして、比較し相対化していく思考の作業が、よくやられている。自分自身もシッカリ相対化している。これは「謙虚」という言い方ができるかもしれないが、そういうアマイことではない。

全体的な視点がなければ、比較も相対化もうまくできないのだから、これは一つのことだ。まとめてしまえば、「合理的」ということになるか。それでは、人柄が含まれにくい。

とかく、飲食の分野の話は、細分化してみる傾向が顕著で、全体的な視点を欠きやすい。とうぜん、比較も相対化もうまくいかない、なにより著者である自分を相対化できない。「日本スゴイ」も、そのたぐいだし、関連し近頃の「だし」の話などは、ほとんどそれだ。それのミニ版の「私はスゴイ」は、いたるところにある。そういうことが支配的な「時代」なのだろうか。

「よい」となると一点の曇りもなくよい。普通なら、そんなことはありえないのだが。単純であり、単純なものが好まれる。言い方によっては、「幼稚」とか「大人げない」ってことになるか。

名のある作家が書いた、うまいものエッセイでも、そういうのを見かける。人間として、オトナでなくても、文章は上手に書けるようになるのだから、そういうこともある。そこに共通しているのは、全体的な視点の欠如(構造が把握されてないこともある)と、相対化の作業が欠けたり不足していること。

ようするに獅子文六は、大人なのだ。でも、こういう言い方では、かなりダメだ。もっと魅力的な、人柄も気になる。

そういうことを考えたりした。

それで、ジョナサンでイチオウ仕事の話は終わり、16時ごろだったかな、いづみや本店へ移動。なんと、あの広い空間がうなっているほど大勢の客。

さらに、18時ごろ、三悟晶へ移動。

20時すぎ、彼女は新幹線で帰った。おみやげに新潟の枝豆をもらった。そうそう、獅子文六と『食味歳時記』と枝豆の話だったのだ。獅子文六は、よく対象を観察・鑑賞している、五感のすべてを使って。「鋭い」のではない「よく観察・鑑賞している」のだ。だから書けることがある。

東大宮へもどって、早かったので、移転したガルプキッチンへ寄ってみた。前よりライトな内装で、こっちのほうがよいようだ。

泥酔ヨレヨレ帰宅。

そうそう、先日、福島から出張上京の男が帰りの新幹線に乗る前に大宮(やはり、いづみや)で会った。そのとき県産品の県内消費のモンダイの話になったのだが、昨日も、似たような話しをしていたな。東京市場との関係をどうするか。県産品と県内消費と東京市場に横たわる大きな矛盾だ。

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2016/06/19

ひさしぶりに血液検査を受けることになる成り行き。

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17日の金曜日、打ち合わせのため駒込へ行った。駒込は、すっかりご無沙汰している。その間に、どんどん変わっている。巣鴨のときわ食堂も出店したしね。

それにしても、駒込駅北口から古河庭園のほうへ向かって下っていると見えた銭湯「亀の湯」は、この道を以前に何度か通っているのに、いままで気がつかなかった。

かつてはつながっていたであろう商店街のアーケードが、ここだけ「亀の湯」と一緒に残っている。この残り方はなかなか興味深い。

打ち合わせの結果、とにかく血液検査をして、肝臓のアンバイを見ることになった。それによって、書く内容も変わるだろうドキュメンタリーな進行。

毎年、市から健診をせよとの通知がくる。いつも封も切らずにそのへんに投げておくので、ハテ今年のはあるかなと探したら、先一昨年の分から開封しないままで見つかった。

ついでに見つかった、以前の健診のファイルには、いくつかの健診の結果があった。最後に人間ドックを受けたのは1991年と記憶していたのだが、その結果は見つからない。1987年のものがあったが、その翌年に急性肝炎で入院し、そのときもその後も、1991年までは毎年検診を受けているはずだ。

けっきょく、1997年の血液検査の結果が、最新ということだ。「健診」ではなく血液検査のみ。

肝機能関係の数値は、GOTが130、GPTが108、AL-Pが444、γ-GTPが99で、いずれも平均値より高い、赤字マーク。平均値におさまっているのは、LDHの377だけ。

ほかの赤字マークは、「尿素窒素」という肥料みたいな名前の数値が6で平均以下。

CRPというやつが、4+。

結果の高い数値を鉛筆で丸く囲ったりしたのは、たぶん医者が説明してくれたのだろうけど、覚えていない。でも、そう厳しいことをいわれた記憶はない。

そのときは、いろいろ湿疹が出るので医者にかかったのだが、「ダストアレルギー」と診断された。それ以上検査をすれば、アレルギー物質を特定できる可能性もあったが、「可能性」だし、わかるまでどれぐらい検査費用をとられるかわからないし、そのうち湿疹は出なくなったので、それでオシマイ。

以後、医者には、風邪らしきもので一度かかり、8年前にここ東大宮に越してからは、指の爪の下になにかの菌が入り膿んだのをグサッと退治してもらっただけ。ほかは自覚症状もない。あっても鈍感で気づかないのかもしれないが。

その前もそれからも酒は一日も欠かさず飲んでいるから、こんどの検査でどんな結果がでるか、なんだかたのしみになってきた。

たのしみになって、「健康」ってなんだろう「病気」ってなんだろうと、ほかの仕事を放り出してあれこれ本を見ていると、なかなかおもしろい。チョイと古いがTASC発行・アルシーヴ社制作の『談』1995年51号に、柴田二郎さんが「医療は宗教である」を書いていておもしろかった。

そういえば、「健康」は、「ご神体」みたいなものだなとおもった。「幸福」も、そうか。ま、自分がご神体って日本人が、いちばん多い気がする。「生命体」そのものが「神秘」なわけだけど。

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2016/06/15

『栄養と料理』がおもしろい。

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気がついたら、3月号から6月号まで毎号いただいている『栄養と料理』がおもしろい。前にも書いたが、いろいろ制約があるだろうなかで、したたかで自由自在なつくりを感じる。

「栄養」や「健康」なんて、ウサンクサイうえに辛気臭くて説教臭い押しつけがましい、ケッ、という傾向のあるおれだが、楽しくまるめこまれそうだ。

かといって、もちろんエンターテーメントではない。地味な生活のことだ。そこを、たとえば、最新6月号は、特集が「認知症に向き合うヒント」だが、ともすれば、重くどよよ~んとなりがちなテーマを、じつに軽やかに深く掘り下げる。

「認知症を知ることは、人間とは何かを知ること」という、これは広告ページのタイトルなんだけど、この雑誌全体が、「栄養と料理」を知ることは、人間とは何かを知ること、という姿勢でつくられているのを感じる。

「認知症の人の食事のとらえ方」を読んでいると、人間というのは、こういう「動物」かとおもう。人間である自分自身のことをよく知らない。いつまでたっても。

認知症の人が「食べない理由」が8つまとまっているのだが、それは、裏を返せば人間が食べる理由へとつながる。たとえば理由の7つ目は、「空腹なのかどうかわからない」とある。そんなことがあるのか。あるのだ。

ならば、いまの自分はどうして空腹を覚えたのだろう、どうして食べられるようになったのだろう、アタリマエに食べていると考えたことがない。考えてみて、なるほどなあとおもう。

そして、「介護疲れで倒れないための らくらくパワーチャージごはん」には、おれが汁かけめしの仲間と見るどんぶりやワンプレートのレシピが、どかーんと載っている。これは、介護疲れにならずとも、日々のパワーチャージごはんとして、やってみたくなる。

というぐあいなのだが、今回、とくに食文化的にヒジョーに興味を持ったのは、「減塩時代の食文化を考える」ってことで「『漬物』はどこへ行く?」という読み物特集を組んでいることだ。これは、なかなかしたたかな編集だ。

『栄養と料理』は、ここのところ「減塩キャンペーン」のようなことを続けている。「フードライター白央篤司の減塩日記」という連載もある。

そして「減塩キャンペーン」の一方で、「『漬物』はどこへ行く?」という特集を組む、このバランス感覚。しかも、この筆者のバランスが、こころにくい。

松本仲子「本来の「漬物」はすでに消滅しています」。熊倉功夫「突破口を探し続けることが重要」、これは漬物の伝統を守るためにということ。一方、政安静子「残るも消えるも、時代の必然」。小川聖子「漬物のあり方そのものが変容」。

減塩げんえんとウルサイんだよ、とおもっているおれも、ついつい読みふけり、漬物と塩と日本の食文化の関係について考えてしまうのだった。

おっと、じつは、そのことではなく、おもしろい連載のことを書こうとしたのだった。

それは、「レシピの変遷シリーズ●「栄養と料理カード」をたどる」というもの。

このカードをご存知の方が、どれぐらいいるだろうか。かつて人気だったカード式レシピの付録。

「栄養と料理カード」とは「『栄養と料理』創刊2号から付録としてついた小さな1枚のカード。材料の分量や料理の手順、火加減、加熱時間、コツなど納得のいくまで試作が重ねられ、カードという使いやすい形で掲載されました。ふりかえるとレシピの変遷が見えてきます。」

女子栄養大学香川昇三・綾記念展示室学芸員の三保谷智子さんが執筆されているのだが、これがおもしろい。

3月号が「カツレツ」、4月号が「卵焼き」、5月号が「ポテトサラダ」、そして6月号が「チャーハン」。どーです、読んでみたくなるでしょう。

もちろんレシピの歴史は必ずしも実際の台所の料理の実態を反映しているわけではないけど、時代と志向や嗜好などの移り変わりが見える。それに、レシピからは、産業と生活の両方が見えてくる。

今回のチャーハンでいえば、1936(昭和11)年12月号では「1人分でごはん350g」だけど、1971年(昭和46)年1月号では「1人分でごはん250グラム」になっている。これが意味するところは大きく多い、いろいろなことが浮かぶ。現在から未来まで。

と、まあ、なかなか読みごたえがあるのだが、さらに6月号では、おっ、とおどろくことがあった。

連載の「食の仕事人」が42回目なんだけど、「政治をもっと身近に!」「食べることで政治を知ろう」と活動している団体「食べる政治」が登場しているのだ。

食べることは政治と直結しているのは確かだ。そして、たいがいその政治を避けるように、よく「飲食の場では政治の話は禁止ね」というかんじが日本的なのだけど、これは良記事。

「食べる政治」のサイトは、こちら。食べ歩き談議や美食談議にうつつをぬかしているだけじゃなく、「食べることで政治を知ろう」。
http://taberuseiji.com/

おれの『大衆めし 激動の戦後史』も、食べることで政治を知るのに役立つよ。民主主義は食べることから、ってことさ。

当ブログ関連
2016/02/27
『栄養と料理』で栄養と料理を考えてみる。

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2016/06/13

「かき箸」のこと。

2016/06/10「農水省は食生活に口をはさむよりやることがあるとおもう。」に書いた、「人前では恥ずかしい『きらい箸』に気をつけて」だが、その記述によれば、「きらい箸」というのは「伝統的なマナー」ということになっているらしい。

この伝統が、いったいどのように伝統なのか、そのことはよくよく考えたいが、その一つである「かき箸」について、そこでは、「器の縁に直接口をあて、箸でかき込むこと。むせてしまうことも」とある。

これは、「めし茶碗」の伝統の否定にもなりかねないとおもう。

拙著『汁かけめし快食學』でも、神崎宣武さんの『「うつわ」を食らう 日本人の食事の文化』(NHKブックス)から引用しながら書いているが、神崎さんが「接吻容器」と形容しているように、器の縁に直接口をあて食べるようにつくられてきた。

ようするに、「器の縁に直接口をあて、箸でかき込むこと」は、日本の食事文化であり、その器と共に日本の伝統のはずだ。

調べごとをしていたら、『東京に暮らす』(キャサリン・サムソン著、大久保保美訳、岩波文庫)には、つぎのような文章があった。

「お百姓さんがご飯をかき込む姿は、戸を一杯に開いた納屋に三叉(みつまた)で穀物を押し込む時のようで、大きく開けた口もとに飯茶碗を添えて、箸をせわしく動かしながら音をたててご飯をかき込みます。これがご飯をおいしく食べる唯一の方法なのです。ご飯というのは体中の隙間を埋めつくす位たくさん食べておかないとまたすぐにお腹がすいてしまいます」

こんなぐあいに、ちゃーんと観察しているだけでなく、伝統的なご飯の食事の特徴まで把握している。そして、つぎのように続ける。

「労働者とそれ以外の日本人との間に食べ方の違いはありません。誰でも同じように食べます。その時には、イギリスのポートワイン鑑定人のような非常な集中力が必要とされます。話に気を取られてはいけません」

むせないように食べる気をつけ方までふれている。

「きらい箸」の伝統は、このようにめしをうまく食べてきた伝統と現実を否定する「伝統」であるようだ。しかも、それが、日本人全体の正しいモデルであるかのようにいう。こういうことが、農水省主導の食育のわけだから、日本の米食文化は迷走し低迷するのもトウゼンといえるか。

「上」のほうから聞こえてくる伝統とか歴史というものは、偏っている以前に、実態の全体像が把握されてない。ようするに、学説にもなっていないし、どこかの流派や一派のナゾの教条をかざしているだけなのだ。これでは、話にならない。

「人前では」とかなんとかの前に、もっと自分たちの歴史や伝統を生活の実態から調べ、語るべきだろう。

キャサリン・サムソンはイギリスの外交官夫人として1928年から1939年まで日本に滞在した。夫と離婚し、日本に赴任した夫の友人である外交官を追って日本に来たのだ。すごい女性だ。文章からも、率直でユーモアのある、おもしろい気性を感じる。

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2016/06/12

北村早樹子with大バンドライブ@赤坂グラフィティ。

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昨日は、ようするに、赤坂だった、北村早樹子だった。なんだか赤坂の夜に北村早樹子は似合っていた。

18時25分に赤坂見附駅で待ち合わせ。わめぞ一味、北村早樹子ファンクラブという感じの、男5人女1人。

まだどこにも書いてなかったとおもうが、一つ木通りの246号側からちょっと入った左側、いまでも一軒の畳屋があるが、その手前にあった(建て替えられた)古いビルに事務所の別室を持っていたことがあった。赤坂見附周辺では、よくすごした。えーと、シャソンで有名な店も近くにあったな。1980年ちょっと前から80年代前半ぐらいのことだったか。

赤坂ベルビーと一つ木通りのこの事務所があったあいだあたりは、テナントが変わって街が変わっているようだが、ビルそのものは、そのころからのものがけっこう残っている。

246角のファーストキッチンは、あのころの開店だし、きのう行列をつくっていた「俺のフレンチ」のところには、アボガドの寿司(カルフォルニア巻き?)を初めて出したことで有名な寿司屋があって、当時もやはり行列ができていた。

「俺のフレンチ」の角を曲がる前に、通りの先の上を見ると、かつてこのあたりで有名だった三つのキャバレーの一つの名前を看板に残したビルがある。このビルのなかに、「倶楽部」があって、おれはそこによく出入りしていた。

あのころは、そのあたりから先は、しだいに薄暗い通りになった。長く続く黒塀の料亭が建っていたからだ。たびたび料亭政治の舞台になった、「千代新」などがあった。70年代ぐらいまでは、黒いクルマのほかに、人力車も見られた。溜池・新橋方面にかけてあった置き屋から、芸者さんは人力車を利用していたのだ。

「倶楽部」の正体はよくわからなかった。おれは、そのころ渋谷の道玄坂に大きなビルを持つ人と付き合いがあって、彼に目をかけてもらっていた。彼は、ここの倶楽部の会員で、よくここで会ったり待ち合せたりした。ゴージャスとはちがうが、大きな黒い革張りのソファと重厚なテーブルのセットがいくつも空間を占めていた。おれが行くのは、たいがい明るいうちだったが、いつも誰かしら「紳士」たちがいて、碁を打ったり軽く飲みながら談笑していた。紹介されると、いわゆる「社会的地位」のあるひとばかりだった。

彼は、単なるビルオーナーではなく、会社経営の立て直し屋でも、知る人ぞ知るで有名だった。だれでも知っているある大会社が大きなつまずきから傾きかけたのを立て直したり、低迷していたある団体と出版社を立て直し、その後この出版社は、ある分野をリードする雑誌を初め、知らない人はいないぐらいの存在になった。

赤坂の高級なバーやクラブなど赤坂の夜は、ほとんど彼に連れられて行って知った。帰りは、いつも彼のハイヤーが送ってくれた。バブル前だったが、ほんにオイシイ生活だった。オイシイ生活だったが、自分のカネではないから、自分の実にはならない。それでよいのだが。その気になれば、大変なカネづるだらけだった。

彼は、ま、おれのような男を引きまわしてくれるのだから、ちょっと変わっていた。なかなか反骨気骨のひとだった。もとはといえば「農林系」の人なのだが、官僚や政治よりカネに興味があったようだ。戦後の復興期から、のしあがってきた、義理と人情のひとだった。飲むと喧嘩っ早くなるので困った。なにしろ総会屋ごときにビクともしないひとだから、おれは、なだめ役おさめ役。それもよい体験だった。

ようするに、猥雑にも「高級な猥雑」というのがって、赤坂がそれだった。赤坂というところは、とくに赤坂見附駅周辺は、地政学的にも「上流」と「下流」や「裏」と「表」が混沌と混ざりあうところだった。

当時から、赤坂ベルビ―前の東急プラザのホテルは一泊5万円とかの高級コールガールが活躍するところだったし、それ目あてに札幌から毎週のように飛行機で通う医者が、「街」で話題になったりした。いまでは、コールガールも「大衆化」と「国際化」が進行しているようだし、東急プラザも、おれたちも帰りに寄ったのだが、「サイゼリヤ」が入ったりして、赤坂ベルビーの一階はビックカメラだし、すっかり様子が変わった。でも、あいかわらず、混沌の街だ。

赤坂の話になってしまった。

行列している「俺のフレンチ」の角を曲がり、一つ木通りに出る手前右側のビルの地下に、会場「赤坂グラフィティ」があった。赤坂の地下に、こんな広い天井も高いライブハウスがあったのかと驚いた。

そして、ライブは、この日は名古屋の「ミラーボールズ」と対バンで、彼らが最初に舞台にあがった。ミラーボールズは夫妻デュオ。二人でギターをかきならし、妻がうたう。まっすぐ、ながら、ちょっとやさぐれているかんじがよかった。アコースティックギターでのロックを、思いきりたのしめた。

休憩をはさんで、北村早樹子with大バンド。ドラム、ベース、ギター、キーボードの編成。全員女子。北村早樹子は、お人形さんのような格好して、サングラスにバットをかついで登場。そして、バンドの大音響に負けない声量。小さくて折れそうに細いからだから出る高い声。

後半は、北村さんが一人で、キーボードを弾きながら。

混沌現代人形囃子。

まったく、このテイストは、初めてCDを聴いたときから、なんと表現したらよいのか、悩みのタネだ。

人間みなどこかこわれているのよ。それでよいかわるいか知らんけど、そこから始まる物語。たのしいかなしいじゃない。愛が必要なわけじゃないが、無理して求めることはない、あったらあったでわるくないか。どんつくどんつく。

今回のライブでわかったのは、なかなか映像的なうたであり曲だってことだった。なんか、いろいろな映像が浮かんで、映画が作れそうな気分になった。こういう気分になれること自体が、北村さんのうたの力か。おもしろい体験。

混沌の赤坂の夜に混沌のうた。わかったような、知ったふりの、勇気だの感動だの、結論はいらないのさ。

無理矢理、北村さんと赤坂をつなげた。

終了は21時半ごろだった。とりあえず近くで飲もう。「サイゼリヤ」だ。赤坂のサイゼリヤだ、いやサイゼリヤの赤坂だ。ここだって永田町。北村早樹子ファン6名、白ワインボトル二本あけながら永田町を占拠。

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2016/06/10

農水省は食生活に口をはさむよりやることがあるとおもう。

001001『下流老人』(朝日新書)が売れているらしいが、書店には、ほかにも売れているかんじでヤバイ本が並んでいる。 『下流中年』(SB新書)や「社会の監獄に閉じ込められた若者たち」というサブタイトルがついた『貧困世代』(講談社新書)などだ。

若者も中年も老人もヤバイってことは、もうこの国がヤバイってことではないか。このあいだ飲み会でコッカテンプクの話を持ちかけてきた女がいて、おおオモシロイじゃないかおれを都知事にしろとか話をしていたのだが、その話を別のところでしたら、ある男が「いまごろ何いっているんだ、コッカはとっくにテンプクしているよ」と。

おお、そういえば「日本は底がぬけている」ともいわれているしな。ヤバイことだらけだ。

毎月送られてくる農水省の広報誌『aff』5月号も、ヤバイことだらけだった。

この号、6月の食育月間を意識してか、特集1が「食生活」で特集2が「お箸のはなし」。もうほんとヤバイ。

だいたいね、生産を所轄する農水省が、本来の業務である完全にヤバイ、コメ政策など農業改革を抱えているのに、国民の食生活に口をはさむこと自体がヤバイ。

しかし、ヤバイ内容だ。

最初の見開きが、なぜか「日本全国の麺文化をご紹介!」っていう「ニッポン麺探訪」だ。そりゃまあ「江戸時代から愛される庶民の味」ってことなんだろうが、麺市場は輸入の小麦や蕎麦なくして成り立たないんだからなあ。こんな生活や消費の舞台のことより、久松農園やそこの野菜を利用しているレストランみたいなのを取りあげたほうがよいのに。ほんとに何を考えているのか「生産」がアタマにないのか。

そして次の見開きから、もっとヤバイ、「特集1食生活」だ。

ああ、ヤバイ。いきなり「ひとり暮らしが増加」「孤食の高齢者が陥る栄養不良」っていうヤバイ話。

さらに次は、「若者の食生活が危ない!?」ときたもんだ。ヤバイぞ、「欠食女子と過食男子」。

そして、えーいとどめだ、子供がヤバイと「子どもの食生活の問題」ってことで「栄養が十分にとれない子どもたち」。ああ、ヤバイニッポンに生まれてしまったのだからねえ。

農水省の広報誌が老人も若者も子供もヤバイというのだ。

いや、もうこうしてヤバイことを並べ不安をかきたてる以外どうしようもないほどニッポンはヤバイのだろう。

しかし、こうやってみると、いつから農水省は厚労省になったの?健康や栄養問題は厚労省の管轄じゃなかったの?とおもうのだが、それは食育基本法推進所轄が農水省になったからだろう。それにしても、これはないだろう。

それにしても、いったい、農水省のやっていることはなんなのさという疑問に、これで答えになっているのだろうか。そのあたりからしてヤバイ。こんな食生活のことなど、広報誌ではない広報予算でやればいいじゃないか。それとも、こんなアンバイに食生活に口をはさんでいれば、農水産業はなんとかなるという認識なんだろうか。そうだとしたら、こんなにヤバイことはない。

そんな憂いを胸にためながら、つぎのページを開くと、どひゃ~、まだこんなことをやっているなんて、ほんとヤバイよ。これ、農水省の広報誌でやることか。

「食育の取り組み1」で「本物の技と味を知る」ってことで、「料理の達人が『給食』で全国に広げる和食体験」だと。ああ、滅びゆく「和食体験」で、ほんとうに和食はなんとかなるとおもっているのか。ヤバイねえ。

さらに「食育の取り組み2」は「食べ物を自分で作って食べる」ってことで、「30年続く高取保育園の食育の成果」ってのが紹介されている。これ、ヤバイよ、食育の成果なんて、大人になってみなくちゃあね、わからんでしょ。それを成果のように掲げるのは、単なる大人つまり為政者の勝手な期待にすぎないんじゃないの。こういうことで、ずるずるヤバイコンニチを迎えているのに、まだそれを続ける。だいたい、こんな体験できるのは、ほんの一部でしょ。そりゃまあ、やって悪くない話だけど、全国のモデルにしていくようなことなのだろうか。

都会の子が田植えを体験するのもよいけど、それは「ごっこ遊び」のようなもので、産業や生活の根幹じゃないはずだ。そのあたりカンチガイしやすい。

002そりゃそうと、なんで「特集2」が「お箸のはなし」なのだ。ああ、「国産の『割り箸』が健全な森林づくりに役立つ」って、そりゃウソじゃないだろうけど、それで箸の話とはねえ。しかも例によって「和食の伝統」だの「『箸』を正しく持つことは、家族や周囲の人々と気持ちよく食事をすることにつながります」って、気取るんじゃねえっての。

「人前では恥ずかしい『きらい箸』に気をつけて」なんて、けっ、おれは箸の持ち方がフツウとは違うが、それが何か? ああ、それでこんなことを書く男になったのか。

だいたい「かき箸」はいけないというが、めしをかっこむのも、うまさのうちってことがあるよ。そもそも、本誌の最初の見開きの麺のところでも、「お上品に食べるんじゃなくて」という話があるよ。

箸のことは、ことさら「伝統だ」「美だ」というのは、生活というより懐石などのお上品な趣味の世界の話としてはよいけど、その範囲のことだろう。いい趣味を持ちましょうね、ていどのこと。

だいたい森林づくりなら、おれも体験してきたけど、こんな箸のことより大事なことがあるだろうに。ほんとに、ヤバイなあ、こういう話は。

001つぎの見開きが、農林水産大臣賞を受賞のトマト農家の紹介なんだけど、箸のところじゃカラーイラストなどをタップリ使って、なかなかこった誌面なのに、こちらはじつに素っ気ない、じつに事務的。農水省は、生産や生産者のことを、どう考えているのだろうとおもってしまう。

まあ、ほんとヤバイ。

そのヤバイ農水省の次官に奥原正明経営局長が着任することが決まったようだ。そのニュースが流れているが、誰がやってもヤバイことになっているニッポンの農水産業、なんとかなるか。

それはまあ、国民の関心というのも大事だとおもうね。大事だけど、「食」というとグルメだ栄養だと騒ぎ「伝統」をありがたがるだけってことじゃあ、はて、どうなるか。

もし、食べることが生きることなら、食べる話ばかりじゃなく、食べるを支える全体構造や農水産業にも関心を持たないとなあ。いや、ただ「守る」だけのことじゃなく。もう日本は貧乏国なのだから、農水予算のカネの使い方としても。まあ、つまり現在の矛盾を、どういう矛盾に改善するかという視点で。完全無欠の政策なんか成り立たないのだから。食育なんかにカネを使っている場合かね。

ほんとヤバイよ。

農水省の広報誌『aff』5月号は、こちら農水省のサイトでもご覧いただける。
http://www.maff.go.jp/j/pr/aff/index_1605.html

すでに6月号も発行になっていて「大豆」が特集。こちらはグッとよいとおもう、こういうのがよいとおもうね。5月号はおかしかったということにしておこう。食生活には、あまり口をはさまないほうがよいとおもう。

でも、ニッポンは基本的にヤバイ。縮小貧乏化する社会での広報は、これまでほとんど経験がないわけだから、なかなか難しいね。

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2016/06/09

戦争か、平和か、それ以外に第三の道はないか!

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2013年の年末に、小沢信男さんの『捨身なひと』(晶文社」が発行になり、小沢さんが送ってくださって、いただいた。そのことはこのブログに書いたとおもうが、読後の感想などは書いてない。こんなにおもしろい本は近年マレだ、詳しく紹介したいなとおもいながら、日にちがすぎた。なので今日こそ。

というわけではない。

この本は、「一をもって貫く 花田清輝」「世のひとびとと天皇と 中野重治」「一寸さきは光 長谷川四郎」「死者と生者と 菅原克己」「満月や大人になっても 辻征夫」というぐあいに、小沢さんと親交があった(それもただならぬものだった)、「捨身で立ち向かう」5人の方々のことを、小沢さんがかつて書いたり話したりしたことを中心にまとめている。

小沢さんでなければできない仕事。帯に「かくもチャーミングな男たちの心意気!」とあるが、小沢さんも捨身な心意気のひとであり、もう彼らの鼓動がビンビン伝わってくるのだが。そのことについては省略。

とにかく、小沢さんも含め、なんと痛快で傑作な人たち。いまでもロクデモナイ時代だが、もっとロクデモナイ戦中戦後を、このように生きた人たちがいること、その「捨身な」生き方は、真似しようにもできないだろうけど、この本を読んでツメの垢ぐらいは身につけたい。知らなかった辻征夫の本も何冊か買って読んだ。いまのロクデモナイ時代を、どう捨身に生き抜くか。

それで本題。

要約すれば「戦争か、平和か、それ以外に第三の道はないか!」ということになるこれは花田清輝の著述にあるらしい。このひとは、ややこしいひとだ。「右翼」とみられたり「左翼」とみられたり、ようするにそういう単純化が無理なのだ。そういう器にひとをはめこんでみようとするのも、いい加減にしたほうがよい。要は、「右」か「左」かではないのだから。

花田清輝の書いていることも、おれのように知識貧弱なものにとってはややこしく、彼の主著は、何度も手にしてはいつも最後まで読めず挫折している。

が、しかし、小沢さんが、ここのところをうまいぐあいに引用して書いてくださっている。

「戦争か、平和か」といえば、平和がよいに決まっている。まさに二元論の二者択一。だけど、戦争は泥棒であり、平和は乞食、なのだ。戦争か平和か、は、泥棒するか乞食するか、ってこと。

そこで、「ああ! しかし、それ以外に、第三の道はないか! 第三の道はないか!」と、花田清輝は「泥棒論語」で呼びかけているのだそうだ。

なかなかおもしろい呼びかけだ。そもそも「呼びかけ」だということに意味があると小沢さんは書いている。

そうして、おれは考えていた。考えているうちに、ひらめくことがいくつかあった。

抽象的に考えても、浮かぶものはない。何を例に考えていたかというと、これからの大衆食堂だ。自分がやるとしたら、どんな食堂にするか。まんざら空想のことではなく、前から、やどやで食堂経営の話は出ている。このあいだも、その話になった。

やるとなれば、戦争でもなく平和でもない、コレだね。という構想が浮かんでは消えしていたのだが、かなりクッキリしてきた。あとは、数字と合わせれば、ほぼ骨格ができあがりそうだが、数字とあわせるのが、なかなか大変。

それで、ちかごろ、北浦和の「キムラヤ」を見てさらに気になっているのが、「昭和モダニズム」「ハイカラ」というやつなのだ。「和洋折衷」といわれることも多いのだが、これって、もしかしたら、戦争と平和の折衷か。「戦平折衷」なーんて。

ようするに、どんなプランも完璧つまり矛盾のないものはない。もし矛盾がないなら、自分が気がついていないだけで、プランが詰められていない、現状把握が不十分なのだ。

プランは、いまある矛盾を解消するのではなく、別の矛盾に組み替えて、現状を変えること。そこに売上と利益を計画する。

これでも、乞食の道であるとはいえ、戦争か平和かよりは第三の道になる。ジリ貧にならず、創造的な可能性がふくらむ。

ってことで、ちかごろ、昭和モダニズムがただよう景色がやたら気になっている。

「和洋折衷」も見直す必要がありそう。というか、あらためてみると、いろいろな可能性を秘めていて、おもしろい。大宮のいづみやも、とても参考になる。ま、たいがいのことが、「昭和モダニズム」をくぐりぬけてきているのだからなあ。

アタマのなかで構想している食堂は、大雑把に書くと、客席数6人を最小ユニットというかモジュールというかにして、12人規模で採算ライン、ワンプレートの食事を中心にしたメニュー。店内のデザインは、近年リニューアルした大衆食堂に多い「和風モダン」は採用しない。なんと、検索していたら、イメージしていたのに近いものが、フランスの大衆食堂の画像にあった。すごい時代だなあ。

などと、あらぬことを考えている。とても楽しくて、仕事がすすまない。

ああ、40代だったら、さっさとカネを集めて、やってみるのになあ。ナニゴトもトシを考えなくてはいけないのが、条件としてはマイナスだ。

それもまた矛盾。矛盾を、どう引き継ぎながら展開していくかなのだ。

当ブログ関連
2016/05/26
東京新聞「大衆食堂ランチ」43回目、北浦和 キムラヤ。

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2016/06/08

四月と十月文庫『理解フノー』(港の人)の校正が届いた。

つぎに発行の予定の本は、四月と十月同人の田口順二さん(絵)と共著の『理解フノー』だ。たしか原稿を揃えて送ったのは3月末だったと思う。

今日、校正が届いた。

田口さんは、たくさんの絵を描いたらしい。編集関係のみなさんがセレクトし、青木隼人さんがデザイン。

おれと田口さんが、勝手にバラバラに書いたり描いたりしたものをデザインするのだから大変だっただろうとおもう。

なので、これは青木さんがもう一人の著者といえそう。

なにしろ、おれが自分の原稿を見て送るときは、こんなので一冊の本になるのかねぇとおもっていたのだが、届いた校正を見たら、なんとまあ見事な一冊になっているのだから。

これは牧野伊三夫さんの慧眼ともいえるか。

とにかく、これから必死こいて校正にとりかかるのだ。

パラパラ見ながら、副題をつけるとしたら、と考えてみた。ま、副題はつけないのだが、もうちょっと考えてみよう。なかなか理解フノーではない理解フノーな一冊になりそうだ。

下の写真は関係ありません。

四月と十月文庫関係のニュースは、こちらの四月と十月のサイトの「お知らせ」から。
http://4-10.sub.jp/

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2016/06/07

北浦和スウィングフェスティバル。

一昨日の5日(日)は北浦和スウィングフェスティバル。明け方まで降っていた雨はきれいにやんだ。今年で11回目だが、これまで一度も降られたことはないという話を会場で聞いた。

北浦和西口銀座商店街を中心に10の会場で、出演者による演奏が繰り広げられる。去年はじめて行ったのだが、だらしないぐらい自由な雰囲気で、無理矢理ノリノリにさせられることもなく、だけどいい演奏を自分勝手に楽しめるのがよいのだ。

今回も、出演者の一人が「アーチストじゃなくて出演者でいいの」といって会場を笑わせていたが、「ジャズ」だの「ミュージック」だのと気取ってないのもいい。

最初のプログラムは12時半ごろのスタートだったが、14時半ごろに着いて、18時ごろまで5会場ぐらいをまわり、たっぷり楽しんだ。日差しが強く、外の会場もあったので、ビールを飲み続け。酒と音楽にスウィングしたいい一日だった。

森熊美術館駐車場のジャリのうえで「アノアとペロ」。なんとまあシュールな光景。軽快なスウィング調のオリジナル曲を中心に、たっぷり。

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北浦和公園では噴水をバックに大きな木の下で「Jazzmals」が、「サマータイム」や「A列車で行こう」などスタンダードナンバーを次々と。かたちを変える噴水の背景も含めていい感じ。シートを広げてワインを飲んでいた人たちも立ちあがり、スウィング。

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おれの目当ては17時10分からの、「狸穴」での「野笛とタイヂ」だった。いやあ、やっぱりよかった。この夏の「FUJI ROCK FESTIVAL'16」に出演することが決まったこともあってか、ますます快調、絶好調。

弾き語りでおだやかに始まり。

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しだいにアップテンポ。「四畳半の魔窟」は、あいかわらず歌詞のセンスも最高。皮肉もユーモアも効いて、ああ、こんな文章を書いてみたいなと刺激を受けたり。

タイヂさんは以前はレゲエもやっていたそうで、レゲエ調が入り。

そのうち野笛さんは、被っていた帽子がふっとび、髪をふりみだし。
帽子を被っているところしか知らなかったから、え~、おもっていたよりかなり若くて、おどろいた。

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最後は、もうロカビリーだ。野笛さんは立ち上がり、狭い床でのたうちながらギターを鳴らし、そして、ギターをかついで弦をかく、激しいロックンロールなエンディングだった。ひゃっほ~。

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「野笛とタイヂ」に、これからも大いに期待。

いまどき「まちおこし」だのと、カルチャーっぽいイベントが盛んだけど、ここのはそういうリクツ抜きで楽しめるのがいい。商売っ気はないし、誰かが仕切っている気配も、誰かに仕切られている気配もない。ゾロゾロ集まって来て、演奏する人は演奏し、楽しむ人は楽しむ。はあ、音楽っていいねえとおもう。それで、それが、十分なのだ。

また来年もやってほしいな。

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2016/06/06

「二極化」と「二者択一」のあいだ。

最近、たぶんネットで読んだのだと思うけど、「社会はわかりやすい二極化を求めている」というような話があって、それはオウム事件がきっかけかなんかでそういう傾向になった、てなことだった。

おれの実感としては、オウムよりもっと前、バブルの最中ぐらいから、そういう傾向が顕著になってきて、「AかBか」「シロかクロか」「敵か味方か」「私にとって心地よいかわるいか」などの、二元論的なわかりやすさを求める社会の結果、オウムに至ったという感じだったのだが、それはまあいいや。

とにかく、何かにつけ「二極化」がいわれてきた。このあいだ中野の飲み~ティングでも、宿泊サービス業界のそういう話が出た。いまに始まったことではないのだが、近頃は、その現象が極端になっていることで、いろいろよくない弊害も起きている。

おれたちは、現状は二極化していても、どちらかの極を選ぶということではなく、安宿路線だけど価格競争ではない独自の方向でやってきて、これからも変わらないよね、という話をしていた。

「二極化」というと、二極化しているから、どちらかを選ばなくてはならないかのような話がついてまわる。これはレトリックといってよい。状況は二極化していても、選択肢は、たくさんあるのだ。

だけど、わりと簡単に、二極化しているから、どちらか正しいほうを選ばなくては未来がないような話が多く、それにハマりやすい。わかりやすさを求めるアタマは、同時に単純化しているからだろうか。

現実は、そうはキッパリ二極にはなっていない。南極と北極はあっても、まあるい地球は、南極でも北極でもないところのほうが、はるかに広いように、自分や自分たちの居場所は、その広いところにつくっていける。二極化のなかで二者択一やってツンツンデレデレする必要もない。人間社会は、もっと、想像以上に、ぐじゃぐじゃとした可能性をひめているのだ。

ってことで、中野の宿泊サービス業は、ごくつぶしにも居場所があるんだとやってきた。

ところで、最近のニュースに、「君が代不起立、都の敗訴確定=停職取り消しと賠償命令-最高裁」というのがあった。この詳しいことは知らないし、判決文も読んでないのだが、「JIJI.COM」の報道に、判決内容からの引用だろう、「自らの思想信条か教職員の身分かの二者択一を迫るもので、憲法が保障する思想・良心の自由の侵害につながる」という文言があって、ほほお~とおもった。

その文言を含む記事は、こんなアンバイなのだが。

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016060100709&g=soc
 卒業式での君が代斉唱時に起立しなかったことを理由に停職処分を受けた東京都の公立学校の元教員2人が、都に処分取り消しなどを求めた訴訟で、2人の処分を取り消し、都に計20万円を支払うよう命じた二審東京高裁判決が確定した。最高裁第3小法廷(大橋正春裁判長)が、5月31日付で都側の上告を退ける決定をした。

 二審は、不起立を繰り返した教員に対し、処分を機械的に重くする都教育委員会の運用は「自らの思想信条か教職員の身分かの二者択一を迫るもので、憲法が保障する思想・良心の自由の侵害につながる」と批判。

…………

おれは、「二者択一を迫るもので」それが「憲法が保障する思想・良心の自由の侵害につながる」というところが、なるほどね~、だった。

なにごとによらず、二者択一を迫られるのは窮屈なことだ。それは自由が侵害されるから窮屈に感じるのだろう。権力を使ってそれをやられたら、たまったものではない。

でも、権力を使うまでもなく、わかりやすい二元論は、とくに言論などを通じて、日常的にふりまかれている。

だいたい、二極化しているから、二極のうちのどちらかを選ばないと未来はない、未来は暗いぞ、てな迫りかたをするものは、その考え方そのものが窮屈にできている。もっと世界は広いのに。ほかの可能性は考えられないの。

そんなことを考えているときに、ある雑誌が届いて、パラパラ見ていたら、尊敬すべき実績を残しながら、そこに拘泥せず、自分の新しい書店を持って新しい道を歩み出していることで本好き業界の注目を浴びている方の文章が目にとまった。

そこには「サプリメントではなくコーヒーのような本(商品編その1)」というタイトルがついている。

著者は、手元にある、同じ質量の文庫本なのに、片方は464円で片方は1620円という価格差から、説きおこしている。そして、「1500円もする文庫本の価値を理解し、迷いなくレジに運ぶ愛書家たちを大切に商売をしたい。独立して自分の手の届く範囲の小さな店を作ったのにはそんな理由もあった」と結ぶ。

ここで述べられていることは、まさに「二極」のことであり、わりとわかりやすく、どこの業界にもある話なのだ。「高級化高品質化」と、その対極は表現がいろいろなのだが、ま、ようするにこの文章では「顔の見えない不特定多数が読む本」であり「サプリメント」になるのだが、価格訴求の廉価の商品やサービスということになるか。

この著者が、その実績からして、こういう考えを持つのは理解できるし、大いに支持するのだけど、ほかにも道があるのはもちろんだ。

そのほかの道が、どれだけ考えられるか。そこを考えながら読まないと、二極化している、どちらかを選ばなくてはならない、というレトリックにハマって、とても窮屈な考え方や選択になる。

そういうことが、あちこちで、もっと多くなるのだろうなあ、と、「サプリメントではなくコーヒーのような本」で実感したのだった。

本好き業界についていえば、二極化なんぞ関係なく、ひとは多くても愛書家などはいそうにない地域で、「嫌書家」たちを相手に「こらっ、おまえらもっと本を読め!」と闘争するチャレンジが生まれるとおもしろいのになあとおもう。それこそ「ロマン」というものか。

ホッピーなんてサプリメントみたいなものだけど、けっこう生活に潤いを醸したりするんだよねえ。中野あたりのバックパッカーのための安宿なんて、立地としては条件が悪いけど、世界中からリピーターを集めたりしている。それにコーヒーな人たちもサプリメントな人たちもいて世の中だし。「わかりやすさ」とはちがう選択があるはずだ。

「二極化」論と「二者択一」論には、気をつけよう。

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2016/06/04

労働者!

少し前のことだが、『散歩の達人』4月号は、20周年記念企画の第一弾で、「酒場100軒」という特集だった。

そのなかに、「ライター西澤千央がすすめる清く正しい労働酒場」というのがあった。おすすめの酒場は、横浜・新子安の「市民酒蔵 諸星」だが、西澤さんの文章が、おれの興味をひいた。

本文には「京浜工業地帯の酒場で労働賛歌を聴く」の見出しがついて、その書き出しは、「私は労働者だ」で始まるのだ。

おれはうれしくなって、「おお、おれも労働者だよ」と応えた。おれはザ大衆食のサイトに、「世間では『フリーライター』といわれる不安定自由文筆労働者」と自己紹介している。

「しかし」と西澤さんは書く。「フリーランスはなかなか『労働者』の仲間に入れてもらえない」

たしかに、そうなのだ。そこで、おれが大宮の「いづみや」へ行くように、西澤さんは「諸星」へ行き、「ここで架空の労働者となる」

本文のむすびは、「隣に座った若い労働者にかつての自分を重ね……あぁ夢なら覚めるな、労働酒場」と。

うむ、いいぞ、とおもった。

ときどき、ここを取り出して読んでは、いいぞ、とおもう。いまも取り出して読んで、こうして書いている。

まもなく73になるおれの人生で、近年ほど、「労働者」が、その言葉も含めて軽んじられたことはなかった。その「近年」は80年代ぐらいから始まるのだが、1985年の労働者派遣法の成立あたりが大きな転換点だったろう。

労働者は使い捨てがアタリマエになり、年々、労働者の立場は、政治的にも経済的にも、なにより文化的に、軽んじられてきた。

使い捨ての労働者になるのは能力のない人間である、自分の努力が足りないからだ、自分への投資が足りないからだ、テナ認識が共有されるようになり、組織の「会社員」はバカにされ、フリーターとかわらないようなフリーランサーや自営業までが、自分の好きなことをやって自分の能力で生きる自由で素晴らしい人生や文化の体現者としてチヤホヤされたり、ときには貶められたりするようになった。

一方では「文化的」な「クリエイティブ」な仕事をしているものや特殊な「職人技」や、「アントレプレナー精神」「起業家精神」などが持ち上げられ、独立自営を促進するようなキャンペーンが続いている。

「小商い」なるものも脚光浴びているが、昔から景気が悪くなると「スモールイズビューティフル」がはやり、企業からの労働者の放出と独立自営や就農が鼓舞されることが繰り返されているのであり、オイルショックのあとの「ペンション開業ブーム」などは、そのよい例だ。

そして、バブルが崩壊し大リストラが横行し、「労働力」が絶えず流動しているのがアタリマエとなり、労働者は使い捨てがアタリマエになった。会社にしがみつこうとしたり、会社にしがみついて生きていると、ばかにされる風潮も横行している。就職しないで生きることが、さもさも素晴らしいかのような主張も、なかなか華やかだ。

おれは、「小商い」も「職人技」も「起業家精神」も、けっこうなことだとおもうが、それがどういう構造で語られ礼賛されているかは、大いに問題とおもうし、そのへんを考えない、この種の礼賛は、ようするに迎合であり、うすっぺらに感じる。

「労働者」という言葉自体が、労働行政や労働問題など以外では、あまり使われなくなり、「市民権」を失っている感じもある。

労働者の嗜好や文化などは「労働者」のそれとしてではなく、「下町」という言葉や「市民」「庶民」に置きかえられて語られることが、普通になった。もちろん「下町」でも「市民」でも「庶民」でもよいのだが、その言葉に労働者の文化と歴史を受けているかだろう。そこのところは、じつに心もとない。

ここまで労働者をないがしろにしながら、そのじつ使いツブスほどコキ使うだけで、その先になにがあるのだろう。

獅子文六は『食味歳時記』で「若い学生と労働者の健康なる食欲を、私は尊敬する」「健康なる労働者が、一日の仕事が終わって、飲み食いする愉しみも、想像できる」と書いているし、おれは、その解説で「労働者の味覚や労働者的食欲の文化は、著者がいうまでもなく、もっと正当に評価されてよいはずだ」と書いたのだが。

働かなければ食べていけない労働者が圧倒的なはずなのに、おかしなことだ。

ま、とにかく、『散歩の達人』なんぞに、「私は労働者だ」というライターさんが登場して、とても愉快だ。かっこいいよ。

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2016/06/02

彼は毎日弁当を作る。

たいがいの雑誌は「読者層」「読者対象」なるものを持っている。マーケティング的には「ターゲット」といわれたりするやつだ。それは、まず年齢層、場合によっては男や女、それからライフスタイルや生活意識や趣味や興味を表すような言葉を持って語られる。

さらに、現在の読者層は「中高年」であるけれど、これからは「30・40代」を対象にしていきたいという期待を持って語られることもある。もちろん年齢層をしぼらないものもある。

これらのおおよそは、インターネットで検索すれば、各種の広告媒体資料のなかに概略の判断がつくていどには盛り込まれている。

おれのようなフリーライターは、編集者から知らされ、それら読者対象をアタマに入れて書かなくてはならない。ときには、原稿依頼の企画書に、企画意図とともに読者層や読者対象の説明などがある。

おれのばあい、そういうことを無視して書くことが多い。すると、それがかえってよい時もあるし、編集者から直しの指示があることも、けっこう少なくない。

そこから先は、直しの指示の内容しだいになるけれど、編集者としては、編集サイドの意向を理解するか汲んで、すみやかにコトがはこばれるライターのほうが、「使いやすい」のは当然だろう。

それはともかく、こういうことは、雑誌にかぎらない。だけど、雑誌は、けっこう高くつくものなのだ。それは、あまり問題にされないが構造的なこともからむ。

読者は、経費で落ちるのでなければ、ある種の金銭的な余裕がなければ買えない。経費で落とせる、ある種の金銭的な余裕、読者層の中心は、そこに落ち着く。

「格差社会」においては、それ以外のひとが、たぶん多いはずだが、読者層として視野に入れてないか、重要視されない位置になる。あらかじめ見えざる見ざるものたちがいる。

いま年収300万円以下のひと(ということは可処分所得は200万円台か、それ以下になる)に、雑誌に限らずモノを売るのは、けっこう大変だと思う。それは買う側の大変さでもある。その大変さを知ってか知らずか、年収300万円以下のひとを対象にイイモノを売るようなハッタリをかます人たちもいるけど、実際は簡単ではない。

もっとも、独身であるかどうか、親元で暮らしているかどうかでもだいぶ違う。

独身で、独立しているとなると、なかなか大変だ。

彼は、25歳位だろう。世間的には、一流企業、有名企業、業界でも大手の大会社に勤める技術職だ。長時間労働で残業も多いし、同年代の平均年収を上回っているはずだ。

ひとり暮らしをしているのだが、毎日、弁当を作って会社へ行く。しかし、仕事が忙しく、毎日朝早く出かけ、帰りは夜遅い。それでも弁当を持っていくのは、経済的な必要からだ。

彼は、どうしているかというと、休みの日に、1週間分の弁当を作るのだ。

めしもおかずも小分けにしてラップに包み、冷凍庫に入れておく。毎朝の弁当を作る作業は、冷凍庫から小分けの何袋かをタッパーに入れるだけ。それを持って出勤する。昼には、まだ凍っているそれを、タッパーに入ったまま会社の電子レンジで解凍し、食べる。

彼は、休みの日には、1週間分の弁当を作りながら酒を飲むのが楽しみだ。

酒は嫌いではない。だから同僚たちと飲む酒代を確保するためにも、弁当を作る。

彼女がいるらしい。たぶん結婚資金のこともあるのだろう。

彼がどんな雑誌を読んでいるか、まだ知らない。だけど、雑誌に載る話や、どんなに上手で賢そうな文章より、彼の生活の断片的な話の方が、おれを楽しくうきうきさせてくれる。

おれも、酒を飲みながら自宅で食べる1週間分のおかずを作ってみようかな。

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2016/06/01

消費か主体か。

昨日、映画監督の浜野佐知さんがツイッター(hamano sachi (@hamanosachi))で、「6月5日(日)に「性と健康を考える女性専門家の会」の総会シンポジウム『性の健康の視点で考えるポルノ―資源としての女性・主体としての女性―』にパネラーとして登壇します。」という告知をしていた。

「性と健康を考える女性専門家の会」というのを初めて知ったのだが、そのサイトと総会シンポジウムの案内は、こちら。
http://square.umin.ac.jp/pwcsh/info.html#20160307

見たら、登壇者のなかに、浜野さん以外にも最近会ってないが旧知のひとがいて、ビックリ。

それはともかく、その案内の「『性の健康』とは何かを軸にポルノをみるとどうなるか」という文言に興味がひかれたし、浜野さんがその告知のツイッターで「女の性は消費か主体か」とコメントしていたのもおもしろいと思った。

これ、いま、食にも共通するテーマではないかな。

消費的なグルメ現象は、ポルノ現象に似ているし、食の健康が問題になっているのだから、「食の健康」とは何かを軸にグルメをみるとどうなるかというのは、おもしろい。

その際、やはり、消費か主体か、ということが問題にもなるだろう。

「消費か主体か」は、どちらを選択するかのことではなく、生活の主体として消費をどうみるかであり、これは食欲と性欲あるいは食と性をめぐる現代的な問題と深く関係していると思う。

いわゆる少子高齢化で、家事、育児、介護など、さまざまなことが取り沙汰されているが、そこでは女性が労働の資源として期待され、ますます消費と搾取の対象になっているように見える。

男/女ではなく、生活の主体として、どう考えるかの議論の広まりが必要だと思ったのだが。

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