書く作業と相対化する作業。
昨日は、14時に大宮駅で待ち合わせ、ジョナサンへ行って獅子文六と『食味歳時記』について話し合った。
考えれば考えるほど、獅子文六はおもしろい。戦前の中産階級の生まれ育ち、つまりは「お坊ちゃん」なのに、その片鱗をほとんどひきずってない。それに明治20年代生まれの文士なのに、文章が、ちっともふるくない。
とくに獅子文六について、詳しく調べたわけではないので、なんともいえないが、これはおれにとっての、「獅子文六のフシギ」だ。
『食味歳時記』が、よくある作家さんたちのうまいものエッセイと異なる点の一つは、全体的な視点があることだろう。「視野が広い」という言い方もできるかもしれないが、それでは少しちがうようだ。
そして、比較し相対化していく思考の作業が、よくやられている。自分自身もシッカリ相対化している。これは「謙虚」という言い方ができるかもしれないが、そういうアマイことではない。
全体的な視点がなければ、比較も相対化もうまくできないのだから、これは一つのことだ。まとめてしまえば、「合理的」ということになるか。それでは、人柄が含まれにくい。
とかく、飲食の分野の話は、細分化してみる傾向が顕著で、全体的な視点を欠きやすい。とうぜん、比較も相対化もうまくいかない、なにより著者である自分を相対化できない。「日本スゴイ」も、そのたぐいだし、関連し近頃の「だし」の話などは、ほとんどそれだ。それのミニ版の「私はスゴイ」は、いたるところにある。そういうことが支配的な「時代」なのだろうか。
「よい」となると一点の曇りもなくよい。普通なら、そんなことはありえないのだが。単純であり、単純なものが好まれる。言い方によっては、「幼稚」とか「大人げない」ってことになるか。
名のある作家が書いた、うまいものエッセイでも、そういうのを見かける。人間として、オトナでなくても、文章は上手に書けるようになるのだから、そういうこともある。そこに共通しているのは、全体的な視点の欠如(構造が把握されてないこともある)と、相対化の作業が欠けたり不足していること。
ようするに獅子文六は、大人なのだ。でも、こういう言い方では、かなりダメだ。もっと魅力的な、人柄も気になる。
そういうことを考えたりした。
それで、ジョナサンでイチオウ仕事の話は終わり、16時ごろだったかな、いづみや本店へ移動。なんと、あの広い空間がうなっているほど大勢の客。
さらに、18時ごろ、三悟晶へ移動。
20時すぎ、彼女は新幹線で帰った。おみやげに新潟の枝豆をもらった。そうそう、獅子文六と『食味歳時記』と枝豆の話だったのだ。獅子文六は、よく対象を観察・鑑賞している、五感のすべてを使って。「鋭い」のではない「よく観察・鑑賞している」のだ。だから書けることがある。
東大宮へもどって、早かったので、移転したガルプキッチンへ寄ってみた。前よりライトな内装で、こっちのほうがよいようだ。
泥酔ヨレヨレ帰宅。
そうそう、先日、福島から出張上京の男が帰りの新幹線に乗る前に大宮(やはり、いづみや)で会った。そのとき県産品の県内消費のモンダイの話になったのだが、昨日も、似たような話しをしていたな。東京市場との関係をどうするか。県産品と県内消費と東京市場に横たわる大きな矛盾だ。
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