身体、健康、バランス。
自分はよくわかっているつもりだが、それはいつのまにか自分の脳ミソに溜まった単なる思い込みにすぎず、じつはよくわかっていない、ということがけっこうある。それでも自分は正しい判断をしていると思っている。「健康」や「病気」という言葉についても、そのようなことがいえる。
「健康」「病気」とくれば「身体=からだ」があってのことだ。これがまたよくわからないシロモノだ。なのに、その身体が感じた味覚に、絶対的な自信を持つひともいる。
味覚のことはさておいて、「からだについて最も意識するのは、病気になった時だろう」ということはよく言われるし、実感したこともある。
このばあい、「病気」というほど大げさではなくても、「いつもと異なる調子」つまり「変調」をきたしとき、それが軽いものであっても、いつもと調子がちがう身体を感じる。
いま「「病気」というほど大げさではなくても」と書いてしまったが、そもそも「病気」についてもよくわかっていない。
でも、こういう言い方がある。「「私とはすなわち私というからだである」といういささか哲学的な実感をまさしくからだの内部から了解できる経験、それが病気である」
なるほどねえ、と思いながら、ここで飛躍するのだが、じつは飲兵衛というのは、健康や病気つまり身体について、最もよく知っている人種ではないだろうか。
二日酔いになるほどの悪酔いは、誰も病気とは見てくれないし同情もされないのだが、あきらかに身体の変調であり、不健康な身体の状態を認識できる。そして、自分で自分の二日酔いの身体と向かい合わなくてはならない。ほとんどは、医者のやっかいになることなく、自力で解決するのだ。もしかすると、仕事という社会的な関係まで。そこに身体や健康を知る大きなチャンスがある。
ひどい二日酔いを経験したひとは、二度と同じ目にあいたくないと思いながら、二日酔いにならない飲み方を研究し、あるいはクスリの類を備え、そしてやっぱり二日酔いするほど飲んで、二日酔いに陥った時の対策のさまざまを研究し、ということを積み重ねている。
実際に、飲兵衛が書いたものには、二日酔い悪酔いに関する話が、たくさんある。
それほどツライ目にあっても、それでも飲まずにいられず、そして二日酔いになり、ああ人間てなんてバカな生き物だろうと哲学を深め、つまり飲兵衛こそは、人間という動物、その身体を知る人物なのだ。
「健康」「病気」「身体」のことは、飲兵衛に聞け、いい加減な医者や哲学者や思想家やエセ科学者やエセ文化人やなどより、はるかに実践的な知識を持っている。
ではないか。
ではないかも知れないが、そうだということにして話をすすめよう。
実践的な知識といえば、「バランス」に関することだ。二日酔いというのは、身体のバランスが崩れて不調に陥った状態だ。
ここから回復するために、どんだけの努力をすることか。そのとき、自分の身体がどんな状態であり、何に対して何をなすべきか、考えて実行する。
水をガブガブ飲んで寝る。風呂に入る、いや、ただの風呂ではなくサウナだ。おかゆと梅干がよい。トマトジュースだ。なんといってもビールで迎え酒だ。などなど、涙ぐましい苦心と工夫と格闘。
それもいまやさまざまな知識と情報と商品により、いまおれの身体のわき腹なか10センチの、方位20度と30度が交差するあたりの細胞Yに、サプリメントなんじゃかんじゃを注入することで、沈没しかけているおれの身体のバランスは80度まで回復する、なーんていうじつに化学的かつ科学的なことになっている。
そして、自分の身体のバランスを知る。これが、生きるうえでも、大変価値ある経験知になる。
けっきょく、モンダイは、身体にせよ社会にせよ、バランスのとりかただ。
バランスのとりかたは、船と飛行機ではちがう。ヤジロウベエ型のバランスもあれば、皿回し型のバランスもあれば、独楽型バランスもあれば、宇宙型バランスもあれば、じつにさまざまだ。そのすべてが、身体のバランスと関係している。
そのめちゃくちゃ多様なバランスを、飲兵衛は二日酔いをきっかけに、二日酔いを重ねるたびに、一つひとつ見つけていく。複雑な人間の身体と社会は、このようにできていて、このようにバランスをとりながら成り立っていると理解する。
そして、しだいに、悪酔いしない、悪酔いしてもヒドイことにならない身体や社会を獲得する。
そうなればいいね。
ほんと、二日酔いはタメになります。積極的に二日酔いを体験しましょう。それも若いうちに。
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