川の東京学メモ 「下町はこわかった」。
去る3月21日の「川の東京学2016 vol.0 春の遠足+川の東京学親睦会」では、野暮酒場で簡単なトークになった。そのとき、安倍徹郎さんが池波正太郎の藤枝梅安シリーズの文庫の解説で「下町はこわかった」と書いていると、アイマイな記憶で話した。
その文庫が見つかった。
『梅安蟻地獄』で、安倍徹郎さんは「池波さん・私記」というのを書いているのが、それだ。
安倍さんは、「池波さんは、こわい人です」と書き出す。「なぜ、そういうことになるのか」
「強いて分析すると、池波さんが東京・浅草生まれの下町っ子であり、私が山の手の中野生まれだということにあるのかも知れません。私の生まれた中野あたりには、深川や浅草に一度も足を伸ばしたことのない人間がたくさんいます。小学校の同窓生はおそらく半数は、深川のお不動さんを知らないでしょう。理由を聞いてみると、「なんとなく、向うの方はこわい」というのです」
「今はもう、ちがうかも知れません。中野から深川まで、地下鉄で一直線という時代ですから東京も変わりました。でも、私の少年時代には、たしかに下町はこわかったのです。なぜか、下町の少年たちは、世慣れていて、素ばしっこくて、それに何より喧嘩が強いというイメージがあったのです」
「それともう一つ、中野あたりの少年たちには、下町が本当の東京で、自分たちは東京のよそ者という思いが、どこかに潜んでいたのです。事実、中野あたりの小学校では、両親は地方の出身という生徒が圧倒的でした。つまり、下町っ子にはとてもかなわないという意識の中に、自分たちは、どうも田舎者らしいという気持ちがあったのです」
こんなぐあいなのだ。
安倍徹郎さんは、池波正太郎の「鬼平犯科帳」「剣客商売」「必殺・仕掛人」などの脚本を担当した。1928年(昭和3年)生まれで、今年の2月23日に亡くなっている。
こういう雰囲気は、1970年代までは、けっこう色濃かったように思う。たとえば、70年代前半ごろの浅草三社祭りなどは、「完全に」といってよいほど土地の祭りで、おいそれとは近寄りがたいものがあった。
いつのまにか、山の手が「東京」のイメージを代表するようになったのだが、渋谷、青山、原宿、六本木あたりが消費の中心地として脚光を浴び、いわゆる「第3山の手」「第4山の手」が形成される70年代後半ぐらいからだろう。
同時に、東京のイメージから下町は希薄になっていくなかで、1978年に隅田川花火大会の復活したが、まだまだ隅田川は汚く、「汚い」は「こわい」イメージに連動していたように思う。1986年に錦糸町西武ができて話題になったが、そういうイメージは変わることなく、錦糸町は汚いこわいイメージだった。
下町の、いまではもてはやされる「昔ながらのゴミゴミした家並み」は、新しい東京の目線からは、けっして好ましいイメージではなかった。
「こわい」という言葉で語っているが、これを「ギャップ」という言葉に置き換えてみると、このモンダイは、「東京」と「地方(田舎)」のあいだのギャップにも重なる。
そして、同じような現象が生まれているように思う。つまり、その「ギャップ」を引き受けるのではなく、「東京」の目線のまま、「下町好き」「地方(田舎)好き」になる現象だ。これは、かつての「下町こわい」の延長線だろう。「下町」だろうが「地方(田舎)」だろうが、おいしいところしか相手にしない「東京」は続いている。
このギャップからは、いろいろなことが見えてくるのだが、それはまたの機会に。
それはともかく、安倍さんがあげている、「なぜか、下町の少年たちは、世慣れていて、素ばしっこくて、それに何より喧嘩が強いというイメージがあった」という点は、言葉を選んで書いているにせよ、なかなか面白い。
いまだって、浮ついた東京人にとって、下町は十分こわいはずだ。
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