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2016/09/28

19日のメモ。

20169191002_319日は、わめぞ一味が運営の第34回鬼子母神通り「みちくさ市」の日だったが、あいにくの雨で、連続講座だけの開催となった。

おれの場合は、晴れたらロケハンなどがあって行けなかったのだが、雨のおかげで、この講座に出席できてよかった。

みちくさ市連続講座 第7回『作品と商品』のあいだ~表現という仕事のリアルな現場の話~
聞き手:中野達仁さん 司会:武田俊さん ゲスト:真利子哲也さん(映画監督)
会場 雑司が谷地域文化創造館 第2会議室 13時半~

今回は、聞き手の中野さんがCMディレクター、ゲストの真利子さんは映画監督で、ようするに2人とも映像の制作者だったので、盛り上がりもちがい、おもしろい話を聞けた。

CMと映画のちがいは「尺(長さ)のちがいではない」をめぐる話は、いろいろな角度から2人の突っ込みあいがあって、興味深かった。おれも昔CM制作には何本か関わったことがあり、そのときのことなども思いだした。

「尺のちがいではない」には、文章の長短にも通じる内容があった。長いほどよい、長い方が優れている、長いものを作れる人が優れている、長くなくてはよいのが作れない、なーんてことは関係ないのは、俳句と短編、長編の小説を比べてもわかる。あと、文章の世界では、「エッセイ」「コラム」は軽く、それより「随筆」が重く上に見られがちだけど、そんなことはなんの根拠もないわけだ。

それから、2人ともフィルム時代を経てデジタルに移行しているので、そのへんの話もおもしろかった。フィルムではフレームやコマがつきまとうけど、デジタルになるとその感覚がちがってくる話も、文章につながる点がある。

印刷物の場合は、書く文字数(原稿枚数)に制限があるが、WEBの場合は、このブログだってそうだが、ページの概念がなく制限がゆるいなど。その仕組みやプラスとマイナスなど。最初からデジタルの経験しかないと、わかりにくい。

真利子監督の最新作、第69回ロカルノ国際映画祭の新進監督コンペティション部門で、最優秀新進監督賞 を受賞した 『ディストラクション・ベイビーズ』の出来るまでと、海外の反応の話もおもしろかった。映像を見ながらだったし。

『ディストラクション・ベイビーズ』は「作品」が「商品」になったもので、もろ連続講座のテーマに関係する内容だった。発端から取材やプレゼンテーションそして撮影や音楽、それぞれのレベルの具体的な話は、やはり印刷物にも共通することがあった。

しかし、いつも感じるのだが、なぜか、映像関係者は「大人」なのだなあ。大勢が関わる仕事をしているからだろうか。真利子さんが制作に関わる人の規模と自分の能力の関係についても語っていたのが印象に残った。

講座は15時半ごろ終わった。いつもなら、古本市の後片付けをして18時ぐらいから打ち上げになるのだが、この日は講座の会場の片付けだけだから、それをみんなですまし、池袋西口の「ふくろ」で一次会となった。ずいぶん参加者がいたが、若い女子が多かったのは劇団員たちで、やはり監督の周りには若い女子の俳優のタマゴたちが集まるのだなあ。うらやましいなあ。

講座には畠中さんも来ていたのだが、当然、打ち上げにも参加で、ひさしぶりに話して大笑いが止まらなかった。18時ごろ、いつもの「サン浜名」に移動。

20169192002写真は、おれが先に帰るとき、送って出た落武者武藤さんが撮った。

その武藤さんに誘われて、22日は、桶川のベニバナウォーク桶川で開催のGOING UNDER GROUNDのフリーライブへ行った。GOINGの松本素生さんと一緒の写真は、一年前の9月のみちくさ市の打ち上げで、武藤さんが撮ったのだった。

22日は、初めて桶川に行き、GOINGのライブを楽しみ、新アルバムの「Out Of Blue」を買ってから、桶川を散歩し、とうぜん飲んだ。すごくおもしろ楽しかった。その様子は、近日アップのつもり。

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2016/09/27

昨日の「猥雑味」の補足。

昨日書いた「猥雑味」「かわいい味」は食べる側のことで、つくる側は、そういうことは考えていない。これは食べる側の生活の話だ。

「食べる側」とは、いいかえれば、「生活」であり、「つくる側」は一般的に「事業」ということになる。

つくって事業を成すひとと食べて生活するひとがいる。これは社会の役割分担が進んでからのことだが、事業者の品質に関する考えと、生活者の品質に関する考えは、当然だけど異なる。

ところが、とくに1980年代頃から、「食」というと「つくる側」の情報や知識が量的にも圧倒して、「食べる側」は、それにかなり従属的あるいは受身的な傾向が強くなった。1990年代からは、ますます一方的になっている感じがある。

プロの厨房から学ぶ姿勢を打ち出していた『dancyu』ですら、1990年代の当初の頃は、食べる側の物語が大きな比重を占めていたのだが。

その変化には、経済的な事情もあるし、情報社会やコンテンツビジネスの進展によって、モノにつきまとう物語が消費の対象になったことが大きい。

ほぼ同時に「物語のある生活」もクローズアップされるのだが、そこには「物語のあるモノ」が不可欠なものとして組み込まれていた。

もうウンザリするほど、事業者側の話ばかりがまかり通っている。その割には「お客様は神様」という消費態度も問題になっている。これは表裏のことで、消費者は事業者の言い分に従うだけで、自立的な判断力が育ってないことが関係する。

これらのことが、ゴチャゴチャと混ざりあいながら、さまざまな食品をめぐる、さまざまな「事件」が続いた。

たいがいの食品は製品であり、料理とは異なるが、どちらも食べられなければゴミでしかない。置いてあるだけで何かしらの存在価値や所有価値になることもある器などとは違う。

つまり、モノの物語と生活の物語が出あうところに、食品や料理は存在するはずなのだ。

だけど、食を語るとなると事業者の物語やその受け売りが圧倒的だ。外食の店の仔細や製造の技術や品質を語ったり知ることが「食文化」であるようなアリサマもある。産業文化のフレームと生活文化のフレームの混乱(生活文化のフレームなどないようなものだからこそ)、技術と労働の混乱の問題もある。

とにかく、それらを受け売りしながら生活の物語が築かれる。これは、「幸福」や「文化的生活」というところからみると、大きな問題ではないかと思う。

以前に、何かで、「自分が作る料理が一番うまい」「自分の家庭の料理が一番うまい」と言いにくい不幸が日本にはあると述べたことがある。

そこには日本料理独特の二重構造も介在するのだが、食べることは職人技の賞味であるかのような、優れた事業者ばかりを強者にする、事大的な思想の根深さも見られる。

とにかく、つくる物語と生活の物語は「対等」でなければならない、と言わなければならない事態そのものがオカシイのだが、もっと自らの生活の物語としての味覚を主張すべきだろうと思う。

「猥雑味」も「かわいい味」も、そういうものだ。そうそう、先日紹介した獅子文六『私の食べ歩き』(中公文庫)では、獅子文六さんは「ヤボな料理」についても語っている。獅子文六は、「食べる」に徹している。

食は生活という考えに立てば、生活が第一に違いない。ま、「貴族」は別にして。

そういえば、「生活が第一」というような政党があったように思うが、あれはどうなったのだろう。

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2016/09/26

東京新聞「大衆食堂ランチ」47回目、新宿・岐阜屋。

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去る16日は第三金曜日で、東京新聞に連載の「エンテツさんの大衆食堂ランチ」の掲載日だった。

今回は、新宿の思い出横丁の岐阜屋のやきそばだ。すでに東京新聞のWebサイトでご覧いただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2016091602000177.html

岐阜屋は、2015年『dancyu』5月号の中華特集でも取材して書いている。そこでは「エロうまい」という表現を使った。

「エロうまい」は、久松 達央さんが『キレイゴトぬきの農業論』 のなかで「エロうま野菜」といった「エロうま」表現をしていて、おれの周囲ではそこから広まったと思っているひともいるようだが、「エロうまい」は以前から使われていてインターネット上でも時々見られたものだ。出どころははっきりしないが、エロ漫画雑誌か何かの方面でも使われていて、この場合の「エロうまい」は、味覚のほうではなかった、という記憶がある。

とにかく、それで、「エロうま」なら、おれは岐阜屋のやきそばだと思っていたので書いたのだが、今回また同じように使うのはシャクだし、校閲でチェックが入る可能性もありそうだ、もともと「エロうま」はおれにとっては「猥雑味」なのだからと、こちらの言葉を初めて使ってみた。

新聞の場合、とくにわかりにくい表現や読みにくい書き方はチェックが入るから、「猥雑味」でもわかりにくいという指摘があるかなと思ったが、無事にパスした。ま、文脈からすればわかりにくいことはないハズ。

ついでだが、来月で4年目が終わるこの連載では、たしか一度だけ「わかりにくい」ということで別の表現にしたことがある。それから、今年になってからだが、一度だけ、段落ナシで書いたのだが、「読みにくい」ということで、段落を入れられてしまったことがある。

よくあることだが、自由にやっているようでも、人間というのは「様式」にハマりやすい。うまくいく「様式」に知らず知らずにハマり、それがまあ「飼いならされる」ということになり、自分では自由に個性的にクリエイティブにやっているツモリでも、けっこう型にハマってオリジナリティが失われているということがあるものだ。とくに、あるていど基盤が確立されているメディアでは、その可能性が高まる。そうやって、かつては個性的でオリジナリティのあったひとが、メディアに取りこまれてしまった例は、いくらでも見ることができる。

だから、こうするとダメが出るかなどうかなというキンチョー関係を自らたえず維持するようにしなくてはならない。もっとも、売れるようになるためには、そんなことはしないほうがよいのだが、ま、オリジナリティをとるかどうかの問題でもあるのだな。

それはともかく、前回のなみき食堂では「かわいい味」という表現を使った。その前には、岩本町スタンドそばで「下手味」を使いたかったのだが、これは誤解されるおそれがあるからと別の表現を考えたがうまい言葉が見つからず迂遠な言い回しになってしまった。

こういう「味」を考えたり書いたりしているワケは、「普通にうまい」も、けっきょく、ツマラナイ味覚論議の対象になってしまったという感じがあるからだ。

おれが「普通にうまい」を書いたのは2004年のことで、そのころ、主に高い目の店や専門店などが舞台だった「上下」「優劣」をつける味覚論議の波が大衆食堂あたりにまで押し寄せて来ていたので、それに対してのことだった。その関係において、「普通にうまい」は、意味があった。

しかし、どうしても「上下」「優劣」をつけたがる人たちがいるわけで、「普通にうまい」なかで、それをやるのだ。これもまあ、上下・優劣の思考様式にハマったニンゲンの姿ではあろうけど、「普通にうまい」の先には個性があるのであって、もしくはあとはそれと自分の好みの関係であって、上下・優劣のことではない、ということが理解できてないひとがけっこういるらしいのだ。

いったい「普通」って言葉を、わかっているのだろうかと思うのだが。

ま、そんなこともあって、「猥雑味」や「かわいい味」といった個性を考えてみている。

ところで、岐阜屋のやきそばだが、ほんとうは見た目から猥雑感があるのに、素人写真だから、その猥雑感が撮れず、やけに爽やかスッキリな調子になってしまった。

当ブログ関連
2016/08/29
東京新聞「大衆食堂ランチ」46回目、池袋・なみき食堂。

ザ大衆食のサイト関連
大衆食と「普通にうまい」…クリック地獄

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2016/09/16

中公文庫の9月新刊に獅子文六『私の食べ歩き』と赤瀬川原平『少年と空腹 貧乏食の自叙伝』。

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中公文庫の編集さんからご恵贈の本2冊。ありがとうございました。

今月下旬発行(本の奥付では25日になっている)の獅子文六『私の食べ歩き』と赤瀬川原平『少年と空腹 貧乏食の自叙伝』だ。

帯の文を見て、中公文庫がやってくれた!と思った。

帯の文からして、パワーが違う。

『私の食べ歩き』の帯には、こうだ。

 味覚の批評家なぞという
 最も不幸な批評家になるのは、
 まっぴらご免である。

『少年と空腹』は、こう。

 おかしく、
 切なく、
 懐かしい―――
 グルメの対極をゆく、
 食味随筆の奇書。

そして、獅子文六『私の食べ歩き』の解説は、ナルホドこういう手があったか!の高崎俊夫さん。赤瀬川原平『少年と空腹 貧乏食の自叙伝』の解説は、これはもうトウゼン!の久住昌之さんだ。

この四月に改版が発行されて解説はおれが書いた獅子文六『食味歳時記』に、この二冊が加わって、なんだか、「気取るな!力強くめしを食え!」のパワーがアップした感じだ。

中公文庫、まだまだやってくれそうだ、目が離せないし、大いに応援したい。

読み始めたばかりだから、後日、このブログで詳しい紹介をします。

当ブログ関連
2016/04/21
解説を書いた獅子文六『食味歳時記』中公文庫復刊が今日から発売。

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2016/09/14

小岩の野暮酒場で津南のポテトフライ。

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10日の土曜日、たぶん2か月ぶりぐらいで小岩の野暮酒場へ行った。行く前から、野暮酒場の隣にある肉の津南のポテトフライを食べてみなくてはならないと思っていた。

食べてみて、『dancyu』10月号の「ウマい町」に書いた佐野のいもフライとの違いを確認したかったのと、肉の津南ではじゃがいもを茹でて皮をむくところからやっているのか、おばさんに聞きたかったからだ。

おばさんに5本注文すると、おばさんは冷蔵庫のバットから串に刺したそれを5本だし、溶いた小麦粉にくぐらせ、パン粉をたたいて油に入れる。茹でて皮をむくところからやっているのか聞くと、そうだという答え。それは大変だねえというと、ポテトサラダを作るからそのついで、でも大変よ、とうなずく。

安い値段のものは、手仕事で利益を稼ぐしかない。

5本買って野暮酒場へ行くと、開店の17時ぐらいで、店主とおれだけ。早速、よく眺める。だいたい、ソースがついていないこともあって軽い印象だし、串が細く3個刺さった全体も少し小ぶりだ。なにしろ、こちらは一串40円、佐野のいもフライは一串4個が標準で串も太く大ぶりで、80円から100円が平均だ。

ソースをつけずに食べてみると、佐野のいもフライとは別物ぐらい違った。津南のは、食感が軽い。「ウマい町」にも書いたように、よくあるポテトフライの「サクッ」「ホクホク」の味わいだ。

ウスターソースをかけて見たが、やはり佐野のいもフライのようにはならない。

佐野のいもフライは、小麦粉の皮の厚さがあり粘りも強く、いものモチモチの歯ごたえと重量感、それにやや甘めの中濃ソースが一体で、「佐野のいもフライ」なのだ。

モチモチの違いは、串に刺した後の「冷し」の時間と、衣にする小麦粉の溶き加減が関係していると思われるのだが。

佐野いもフライは50軒ほどあって、そのうちの老舗3軒だけでしか食べてないけど、佐野独特のものらしい。隣の足利や宇都宮あたり、古河にもあると聞くが、佐野のいもフライとは微妙に違うようだ。そこがまあ「ご当地」ならではなのだろう。

106001ご当地グルメといっても、土地の歴史や風土と関係なく演出的に作られたものが増える中、佐野のいもフライは違う。地元民に熱愛され「都会的洗練」なんぞ関係なしの潔さ。だいたい名前からして「ポテト」ではなく「いも」で、気取ってない。そして、これはこれの旨さがある。

誌面には原稿量の制限があって書けなかったが、取材の中で、佐野がある両毛線沿いは独特の文化があるのだけど、同じ両毛線でも足利や桐生と佐野とでは、大いに違うという話を聞いた。

その違いは、かつては同じように機織りや縫製で栄えたにしても、足利や桐生は絹で、佐野は綿だったことが関係する。つまり、佐野の興隆を担ったのは、綿という庶民文化だった。そのことは、いもフライやラーメンや耳うどんなど、庶民的な食べ物が人気なのと関係あるのだと。

その話を聞いたとき、坂口安吾が戦後に桐生に移住したころ、桐生はなんでこんなに寿司屋が多いのだと何かに書いていたのを思い出し、なんだか納得がいった。

とにかく、この日の野暮酒場は、なぜか来る人が来る人が津南のポテトフライを買ってくるので、それを佐野のいもフライのように積み上げたり、ソースをかけてみたりしたのだった。

野暮酒場のあとは、まいどのように小岩の町へ繰り出し、立ち飲みで泥酔。

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2016/09/05
明日6日発売の『dancyu』10月号で、「ウマい町」を書いています。

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2016/09/13

『栄養と料理』10月号の特集に初寄稿。

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告知が遅れてしまったが、先週は6日から発売中の『dancyu』10月号の「ウマい町」で栃木県佐野のいもフライをルポしているのだけど、9日発売の『栄養と料理』10月号にも寄稿している。

『栄養と料理』には初登場なのだが、いきなり、「お酒好きのための健康術」という特集の冒頭で、「酒がうまければそれでよし!?」ってことで「酒と私と健康と…」を書いている。おれが飲んでいる写真もデカデカと。

これまでは、栄養だの健康だのハナクソクラエって感じだったのに、こんなことになってしまったのは、某氏の(単に酒を楽しく飲むという)仕掛によるもので、マジかよ冗談だろっと思っているうちに、ほんとうにこんなことを書くことになり、書いてしまった。

『dancyu』と『栄養と料理』は、方向性が逆というか、異なる点が多い。

だいたい『dancyu』は、いわゆるグルメ系で、「反健康」とまではいかなくても、とにかくウマイモノ一途だ。今回の佐野のいもフライだって、栄養学的には、あまり健康的のモノとはいえないだろう。

一方、『栄養と料理』は、清く正しく健全で健康な食生活(こうやって書いてみると、おれにはまったく縁がないことがわかるのだが)をモデルにしている。

今回のように一度に両方の仕事に関わって見ると、なかなか面白いことが見えてくる。けっきょく、「食」というのは「健康」と「不健康」を両方食べるようになっているのだ。

そもそも生存というのが、生きるために食べながら死に向かっているのだからね。この世はパラドキシカルな構造で動いているのだ。

だから、『dancyu』と『栄養と料理』は、じつは、背中合わせで一つの食の姿になる。それでも「食」の全体像からは遠いと思うが。ところが、割りとどちらからしか見てないことが多い。

たとえば、「食」というと「味」と「技術」や「職人」や「雰囲気」といったことになりやすく、さまざまな数値や身体・生理などは無視して「文化」のほうへ傾斜しやすい。一方、栄養や料理というと、教条的に数値や知識を追い「正しい生活」に傾斜しやすい。

だけど、人間は、そんなに都合のよい存在ではない。ま、つまり、どちらも「人間の生存」ということに深く関わりながら、そこのところには踏み込んでないわけだ。といったことなどが、今回シミジミ感じた。

とにかく、『栄養と料理』は、雑誌業界では『dancyu』などと比べると地味な存在だけど、本来の意味での編集力つまり表現以前の力量が問われる雑誌だ。

女子栄養大学出版部の発行で、いろいろ制約が多いのに、なかなか巧みで攻めな編集をしていると思う。だからまあ、おれのようなものが書くことにもなったのだろう。

ちなみに、女子栄養大学は、いまではごく普通に使われている料理の計量カップ・スプーンを考案した香川綾さんとご主人が設立の学校です。ご夫妻で日本の栄養学の基礎を立ち上げた。栄養学は、功罪いろいろだけど、この功績は大きい。『暮しの手帖』の功績より注目されてよいと思うんだが、そのへんは、ま、なんですね、『栄養と料理』より『dancyu』や『暮しの手帖』の方が洗練されていてカッコイイと思う、薄っぺらな困った文化の根深さ、といえるか。

おれの文章は「健康術」にはなっていないけど、「反面教師」ぐらいにはなるかも知れない。

そうそう、おれはこの原稿を書くために、20年ぶりに健康診断ってやつを受けた。肝機能関係の数値は、20年前と比べてどうだったか、それは本誌を見ればわかります。

どうか書店で手に取って見てください。

扉の写真は、歌舞伎町のつるかめ食堂。撮影は、島﨑信一さん。

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2016/06/15
『栄養と料理』がおもしろい。

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2016/09/05

明日6日発売の『dancyu』10月号で、「ウマい町」を書いています。

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003001『dancyu』10月号は、特集が「肉」で、見ていると肉が食べたくなってしまう。

でもおれは、目次のすぐ後の「ウマい町」で、栃木県佐野の「いもフライ」を書いている。

「佐野市なら、厄よけ大師にアウトレットとラーメンだろうか。いもフライは「名物」といっても、じゃがいもを揚げただけでしょ、疑念を抱えて関東平野の北端の田園地帯を走る両毛線に乗った。着いて、見て、食べて、すみません、自分の料簡が狭かったと反省した」という書き出し。

佐野の風土と歴史ならではの「いもフライ」は、なかなか個性的で面白い。

ま、ご覧なってください。

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2016/09/02

四月と十月文庫『理解フノー』(港の人)の再校が終わった。

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このあいだの28日(日)のことだけど、四月と十月文庫『理解フノー』(港の人)の再校を終えて宅急便でもどした。これで、ほぼ、おれの手を離れたことになる。

本当は、10日にゲラが届いていたのだけど、おれにしては珍しくいくつかの仕事が重なり、お盆なのに泊りの取材などもあるという状態で、アタフタ、1週間ほど寝かせてしまった。

大急ぎで再校して送ったのだけど、急いでいたのでコピーをとるのも忘れる始末。さらに、気になるところもあって、その後ゲラがないまま、もとの原稿で見当をつけ、メールで直しを追加するということもやり、じっくり仕上げるどころかドタバタ。

昨日のエントリーに「マキノマジック」なる言葉が登場したけど、今回のこの『理解フノー』は、マキノマジックのなかでも、とくにマジック性の強いものだと思う。

というのも、おれが美術同人誌『四月と十月』に連載の「理解フノー」に書き足し、倍ぐらいの原稿量にしたものと、まったく関係なく、四月と十月同人の田口順二さんが描きためていた絵から選んだものを、編集とデザインでドッキングさせるという本づくりなのだ。

著者ふたりとも、それなりの実績のあるライターと画家ならともかく、「無」にひとしい存在で、しかも北九州と関東に離れて暮らし会う機会も少ない。これはかなりの冒険だろうと思うし、うまくいくのかなあと思っていたのだが、意外や意外、なかなかよい感じにまとまってきたのだ。

もしかしたら、ふたりとも、とんでもない潜在能力があるのかもしれない、そこに牧野さんは着眼していたのかもしれない。そんなふうに思い込んでしまったおれは、つい先日、牧野さんと電話で話したとき、お世辞のヘタなおれが、「牧野さんの慧眼にはおどろきました」といってしまったのだった。

おれの潜在能力なんてのは冗談だけど、こんな作り方をやれてしまう、牧野さんの慧眼と力量におどろいたのは、たしかだ。

ま、いつだって、売れる売れないは別のことだけど、なかなか楽しみの本になりそう。

しかし、「理解フノー」なんて、毎回テキトーに思いつくまま書いていたのだが、テキトーがよかったのかもしれない。

初校をもどした段階では、9月発行予定の進行だったが、おれが再校で一週間も寝かせたから、無理でしょう。でも、再校まで終わったから、10月には出るでしょう。10月には、同人誌のほうの発行もある。

(と思って、港の人のサイトを見たら、9月新刊のところに、すでに載っていた。「文章=大衆食堂の詩人×絵=北九州の画家。ふたりの濃密な世界が絶品!」)

四月と十月文庫(港の人)は、現在6冊発行になっている。

1『えびな書店店主の記』蝦名則、2『ホロホロチョウのよる』ミロコマチコ、3『装幀のなかの絵』有山達也、4『マダガスカルへ写真を撮りに行く』堀内孝、5『わたしの東京風景』鈴木伸子=著・福田紀子=絵、6『僕は、太陽をのむ』牧野伊三夫。

四月と十月のサイトは、こちら。
http://4-10.sub.jp/
港の人のサイトは、こちら。
http://www.minatonohito.jp/

当ブログ関連
2016/06/08
四月と十月文庫『理解フノー』(港の人)の校正が届いた。

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2016/09/01

リトルプレス『北海道と京都と その界隈』。

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北海道の森末忍さんから、『北海道と京都と その界隈』をいただいた。

発行は、札幌の「畠山尚デザイン制作室」であり、森末さんと畠山さんが2人で始めたものらしい。

今年の4月号が創刊で、「その界隈スタッフより」には、「京都好きの北海道人と北海道移住者が、実はデザインする人と編集する人でした。そのまかない飯の持ち寄りみたいな感じで出来上がったリトルプレスが、この「北海道と京都と その界隈」です」「京都と北海道の自分たちの周りにあるネタが中心ですが、少々それ以外も「その界隈」ということで少々混じります」とある。

森末忍さんは、「ディレクター•プランナー•編集者」という肩書だけど、北海道の弟子屈町で「器とその周辺 山椒」という、工房?ギャラリー?ショップ?よくわからない、とにかく八面六臂の活躍をしている方だ。

森末さんとは、インターネットの縁だけで、まだお会いしたことがない。たぶん、そのうち、大宮のいづみやで飲むことになるだろう。

リトルプレスにもいろいろあるが、「何となく本能にまかせて作り始めてしまいました」と森末さんがいうように、いかにもな、狙っている感じやクサイ戦略が臭うことなく、好きに大らかやっているなあという感じが、とてもよい。

この版型は何というのだろう。A3の変形のようなサイズも、大らかでいい。北海道だぞ~、でも京都だぞ~、という感じもある。創刊号の最初の見開きは、「冷やすと、美味しい北海道。」「温めると、美味しい京都。」と広告クリエイティブのような誌面になっている。これも、大らかだ。とにかく、どのページもコセコセしてない。

そのつぎの見開きは、バーンと「すごい人に会いに行く」で、京都の「酒器 今宵堂」の上原連さんと梨恵さんが登場している。

今宵堂は、いろいろなメディアで紹介されている有名店だが、このインタビューは、いままで目にした今宵堂の紹介のなかでも、もっとも今宵堂らしさがわかるし、納得のいくものだった。

とくに、たぶんインタビューの結果を原稿にまとめた森末さんの結びが、効いている。長くなるけど、引用しよう。これで、話の内容も想像つくのではないか。

「楽しくお話を伺った我々は、一緒に鞍馬口の力餅食堂にお昼を食べに行きました。そこには京都の日常があって、真面目に働く人がいて、力強く食事する人がいる。この日常の延長線上に、今宵堂の酒器があるんですね。商いに対する考え方、お客さんとの関係、京都での暮らし方、全てがあの酒器につながっているんですね。/我々はその時、京都の、おふたりの日常に同化できていることが、とても幸せでした。今宵堂の酒器が、さらに好きになった瞬間でした」

ついでだけど、力餅食堂は、京都大阪あたりに何店舗もある、たぶん暖簾分けで増えた古い大衆食堂だ。誌面の今宵堂のおふたりが写っているのも、力餅食堂の前。

「すごい人に会いに行く」のつぎの見開きは、「朝餉 朝めし 朝 ごはん」。弟子屈での朝食が、器と料理と文章で並ぶ。大きな誌面だからできるのだろう、広告デザインとエディトリアルデザインがうまいぐあいに同居しているようなアンバイだ。

この料理と器のセンスが、なかなかのもの。そのわけは、次号、6月号の、「リトルプレス三昧」のコーナーを見るとわかる。このコーナー6月号では、「画家なのかプロデューサーなのか、牧野伊三夫さんの視線」ということで、牧野伊三夫さんの仕事と界隈の話なのだが、そこに、森末さんの奥さんは、船田キミエさんのお弟子さんだったことが書いてあるのだ。

森末さんが牧野さんの存在を知ったのは、『雲のうえ』創刊と同時期に刊行された『酒のさかな』。この本は現在ちくま文庫になっているが、高橋みどりさんが船田キミエさんのレシピを記したもので、牧野さんは、挿絵を描いている。というつながり。

「そこに立つもの」、写真家・酒井広司さんのことばの記録、というのが、すごくよい。ここに載っている写真は、北海道のどうってことない、気にもしないで通り過ぎてしまう、ただの民家や、ただのガソリンスタンドだ。そこに、酒井さんの言葉が散らばっている。

誰が見てもフォトジェニックな対象を写したものや、評判のよい話題にできそうなキャッチーなネタを探し出して書くことは、ごく普通にやられている。

だけど、どうってことないものに、何かを見つける、これは、簡単ではない。普通の普段の暮らしの中にある「大衆食」なんぞを対象にしているおれなんぞが、毎度チャレンジしては悩むところでもあるのだけど、酒井さんの言葉は、大いに刺激になった。

「この北海道という土地が醸し出す、なんかわからないものを、写真という形に表すこと、それが僕の中では写真をやるっていうことになるんじゃないかな」

ほか、「妄想の寺町」「北海道ドライブイン紀行」など、路上観察的にも面白い内容が載っている。

ところで、2号目、6月号の「リトルプレス三昧」の「画家なのかプロデューサーなのか、牧野伊三夫さんの視線」では、牧野さんが関わる、美術同人誌『四月と十月』、北九州市のPR誌『雲のうえ』、飛騨産業のPR誌『飛騨』を写真で紹介しているけど、本文のほうは、これらの紹介ではなく「マキノマジック」の紹介と分析?にあてられている。

そこには、おれの名前も出てくるのだが、「マキノマジック」、面白い。

ということで、大ざっぱな紹介になったけど、『北海道と京都と その界隈』を、ご覧なってください。このサイズで16ページ、500円です。同人も募集していますよ。

こちらに誌面の詳しい紹介などがあります。
https://www.facebook.com/sonokaiwai/

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