昨日の「猥雑味」の補足。
昨日書いた「猥雑味」「かわいい味」は食べる側のことで、つくる側は、そういうことは考えていない。これは食べる側の生活の話だ。
「食べる側」とは、いいかえれば、「生活」であり、「つくる側」は一般的に「事業」ということになる。
つくって事業を成すひとと食べて生活するひとがいる。これは社会の役割分担が進んでからのことだが、事業者の品質に関する考えと、生活者の品質に関する考えは、当然だけど異なる。
ところが、とくに1980年代頃から、「食」というと「つくる側」の情報や知識が量的にも圧倒して、「食べる側」は、それにかなり従属的あるいは受身的な傾向が強くなった。1990年代からは、ますます一方的になっている感じがある。
プロの厨房から学ぶ姿勢を打ち出していた『dancyu』ですら、1990年代の当初の頃は、食べる側の物語が大きな比重を占めていたのだが。
その変化には、経済的な事情もあるし、情報社会やコンテンツビジネスの進展によって、モノにつきまとう物語が消費の対象になったことが大きい。
ほぼ同時に「物語のある生活」もクローズアップされるのだが、そこには「物語のあるモノ」が不可欠なものとして組み込まれていた。
もうウンザリするほど、事業者側の話ばかりがまかり通っている。その割には「お客様は神様」という消費態度も問題になっている。これは表裏のことで、消費者は事業者の言い分に従うだけで、自立的な判断力が育ってないことが関係する。
これらのことが、ゴチャゴチャと混ざりあいながら、さまざまな食品をめぐる、さまざまな「事件」が続いた。
たいがいの食品は製品であり、料理とは異なるが、どちらも食べられなければゴミでしかない。置いてあるだけで何かしらの存在価値や所有価値になることもある器などとは違う。
つまり、モノの物語と生活の物語が出あうところに、食品や料理は存在するはずなのだ。
だけど、食を語るとなると事業者の物語やその受け売りが圧倒的だ。外食の店の仔細や製造の技術や品質を語ったり知ることが「食文化」であるようなアリサマもある。産業文化のフレームと生活文化のフレームの混乱(生活文化のフレームなどないようなものだからこそ)、技術と労働の混乱の問題もある。
とにかく、それらを受け売りしながら生活の物語が築かれる。これは、「幸福」や「文化的生活」というところからみると、大きな問題ではないかと思う。
以前に、何かで、「自分が作る料理が一番うまい」「自分の家庭の料理が一番うまい」と言いにくい不幸が日本にはあると述べたことがある。
そこには日本料理独特の二重構造も介在するのだが、食べることは職人技の賞味であるかのような、優れた事業者ばかりを強者にする、事大的な思想の根深さも見られる。
とにかく、つくる物語と生活の物語は「対等」でなければならない、と言わなければならない事態そのものがオカシイのだが、もっと自らの生活の物語としての味覚を主張すべきだろうと思う。
「猥雑味」も「かわいい味」も、そういうものだ。そうそう、先日紹介した獅子文六『私の食べ歩き』(中公文庫)では、獅子文六さんは「ヤボな料理」についても語っている。獅子文六は、「食べる」に徹している。
食は生活という考えに立てば、生活が第一に違いない。ま、「貴族」は別にして。
そういえば、「生活が第一」というような政党があったように思うが、あれはどうなったのだろう。
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