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2016/10/27

11月2日の「常磐線中心主義ナイトIII」は面白い楽しみな顔合わせだ。

司会の五十嵐泰正さんは、ツイッターで「消費者と生産者が繋がる。付加価値の高い持続可能な生産と消費。その答えは本当にブランド化しかないのか」と問いかける。
13:13 - 2016年10月17日
https://twitter.com/yas_igarashi/status/787869172692688896

これはとても大事なことだと思う。「ありふれたものをおいしく」や「近代日本食のスタンダード」を問う主張してきたおれとしては、こういう問いかけのトークが開催されることは、すごくうれしい。

「コモディティ」「ありふれたもの」「スタンダード」はいけないのか。そんなはずはない。生産や食文化の継続という点では、これらを抜きに語ることはできない。過去も多くを担っきたし、これからも多くを担うにちがいないのだ。

だけど「過剰品質」が指摘された1980年代から、「差別化」「セグメンテーション」「多品種少量生産」「高品質高付加価値化」そして最終的に「ブランド化」といった競争がもてはやされ、それと照応するように消費者の「高感度」「高感性」といったことがもてはやされ、そういうことばかりに傾斜してきた。

これは高度経済成長期の考え方を、そのままひきずったもので、現在でも飲食ばかりでなく、いたるところに見られる。一方で、コモディティやありふれたものを、ちゃんと評価できない風潮が蔓延してきた。その結果はどうだろう。

という話はおいといて。

このブログでも紹介したが、五十嵐さんは、久松達央さんとの対談で、「ブランディングすることでの日本の食の未来を考えた」とすれば、「今回はブランディングしないこと、安いコモディティは安いコモディティのままで食の未来を創ることはありうるのか、より困難な道を考えます」ということなのだ。

そう、困難な道だけど、考えないわけにはいかない事態になっている。

世間では、とくに、いまのメディアでは「食う」と「飲む」と「旅や散歩」なら売れると、まるで「抜ける商品」や「感動ポルノ」をつくるように、「いい話」ばかりへ向かっていて、こういう困難なことは考えない風潮が支配的だけど、そこにいったいどういう全体像や未来像があるのだろうか。

消費者は、生産者やメーカーに向かってワガママをいい、それに応えてくれる生産者やメーカーだけをチヤホヤしていればよいのか。そんなことが、イチオウ「過剰品質」が指摘された1980年代から続いてはいるけど、これは過去の高度経済成長期の考え方の延長で、ここ30年ばかりのことにすぎない。実態は、もう息切れ状態になっている。わかりやすくいえば、労働と経済効率の壁にぶちあたっているのだ。

困難でも、よりよい消費者と生産者の自立的な関係を築かなくてはならない。

「ありふれたものをおいしく」は、「ありふれたもの」をつくる生産者と「おいしく」食べようとする消費者の自立的な関係をめざすものだ。

消費者は、生産者やメーカーの物語と、それを「美しい物語」に仕立てふりまくメディアなどに受動的に生きるのではなく、自らの生活の物語を持って、より望ましい関係を模索すべきだろう。どう生き、どう食べるべきか。そこに、必要な品質やサービスとは何か。いい店やいい商品の情報より、もっと考えることがあるはずだ。

なーんて、思わず、力が入ってしまった。この動き、大事にしたいからね。

今回は、ゲストも、コモディティを語るにふさわしい素晴らしいゲストが2人。

常磐線の「先」の「コモディティの港町・小名浜」から小松理虔さん、常磐線の「元」の上野から、このブログでも何度か紹介している「安売りのガード下・アメ横」から「呑める酒屋・魚草」の大将、大橋摩周さん。

2人とも、その経歴からして面白いのだが。

詳しい案内と予約は、こちらから。
http://boutreview.shop-pro.jp/?pid=108474068

先週の土曜日22日、上野で取材(される)があって、そのあと野暮酒場へ行く前に、魚草をのぞいたら、あいかわらず大繁盛だった。魚草は、高架下にあって、高架の耐震工事のため5月ごろから休業し、一か月ほど前に再開した。写真は、休業に入る前。いまでは、グッときれいになったけど、猥雑安売り感はあいかわらず。大将も「トークに来てね~、うまい魚を持っていくから」といっていた。そう、魚も食えるのだ、もちろん有料だけど。

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