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2016/11/07

「忸怩と矜持を同時に持つ」が炸裂、常磐線中心主義ナイト。

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去る11月2日の夜は、常磐線中心主義ナイトⅢだった。「消費者と生産者が繋がる。付加価値の高い持続可能な生産と消費。その答えは本当にブランド化しかないのか」

ひさしぶりに、厚みのある充実したトークをきいた。近頃は本や雑誌を読んでも、これほど濃い言葉にふれることはない。売れ筋の大勢は、ヒラメは腐ってもヒラメ、サンマにまでヒラメを探すような、矜持だけが誇りの価値観で、見た目は美しくても、うすっぺらな話ばかり。

008だけど、アメ横の「呑める魚屋 魚草」の大橋摩周さんが放った言葉はちがった。トークの後半で、「「安さ」を手放さずに、コモディティのままで、「誇り」を持つことはできるのか」について話し合っている時だった。

大橋さんは、「忸怩と矜持を同時に持つのが誇りってことなんですよ」と言ったのだ。会場の熱気が上昇したのがわかった。

その前に、大橋さんは、「「安さ」を手放さない」について、こう言っていた。「「安さ」は、誰も排除しないということなんです」。

この日は、前の告知でも書いたように、ブランド化とは真逆と言ってよい「コモディティ」の役割がトークのテーマだった。

トークの冒頭、司会の五十嵐泰正さんから、なぜ「コモディティ」になったかの話があった、そのことにおれの解釈を付け加えると、こういうことだ。

東京あるいは日本の「下半身」である常磐線から東京や日本を見る。これは、東京への電気や食料などの供給基地として「下半身」の役割を果たしてきた常磐線沿線が、東日本大地震とくに東電原発災害で受けた大きな被害から、どう立ち直るかということでもあった。

常磐線中心主義ナイトのこれまでは、「ブランド化」を中心に話し合われ、五十嵐さんは、ゲストに久松達央さんを迎え「ブランディングすることでの日本の食の未来を考えた」のだけど、常磐線沿線が果たしてきた役割は圧倒的に「コモディティ」であるという実態、このことを避けて通ることはできない。サンマをヒラメにするより、サンマはサンマとしての誇りを持つ。

だけど、コモディティの役割を果たしながら成り立っていくのは、かなりハードルが高いことだ。世間の注目が集まりやすいブランディングよりハードルが高い話だろう。

そのハードルの高さには、世間は大いにコモディティによって成り立っていながら、ともするとコモディティを蔑んだり見下したりする状況も関係する。これ、ヒラメとサンマの関係やサンマのなかにまでヒラメを見たがる関係だ。

007というわけで、常磐線上野のコモディティの顔であるアメ横の大橋さんが、自分が店をやるまでと自分の店とアメ横を紹介、常磐線の「コモディティ港町」小名浜からの小松理虔さんは、自分の小名浜での仕事と小名浜を紹介したのち(小名浜は漁業と工業の町)、前半は「「下半身」の「役割」と「魅力」をどう伝えたらいいのか」が中心的なテーマだった。

「どう伝える」かには、上っ面だけでない実態が、ちゃんと把握されているかだが、ゲストの2人は、いわば「なかの人」だから、ちょこっと取材したていどではわからない深い話しをしてくれた。そこに、すでに「忸怩」たる思いの現実があるわけだが。

なにより果たしている「役割」や「魅力」が埋没しやすいのがコモディティであり、世間はこれをサンマのように見ている。いや、サンマ好きもいますがね、たいがいは矜持だけが誇りのブランドや、嗜好品や嗜好品化を深めるケーキや軽食類などのチャライ上澄みの話に流れやすく、ますますコモディティの立つ瀬はなく、「忸怩」たる思いはつのらざるを得ない。

これ、最近は少し状況が変わっているけど、大衆食堂の料理人を料理人として評価してこなかったことにも共通する、日本の思想的精神的風土が関係すると思うが。

なかの人たちの話は、ここで一つ一つ紹介していたら小冊子ができそうなほどで、やってみたいなとは思っているが、じつに具体的で、そこには、たとえば小名浜のシステムと労働の質の高さや、CASのもたらしたイノベーションなどの話に、なぜ世間の蔑みを受けるのかという「事情」も含まれていた。

だからこそ、「忸怩と矜持を同時に持つ」がズシンときたし、いまの忸怩たること多い日本で矜持だけを誇る傾向のうすっぺらさが浮かびあがったのだった。

小松さんは、福島県喜多方の華酒造場の「星自慢 特別純米 無濾過生原酒」と、東電原発災害で浪江町は居住できなくなったため山形県長井市へ移り酒造りを続けている鈴木酒造店の「磐城壽 純米酒」を持参し、一杯500円で販売、おれは両方飲んだ。

001魚草の大橋さんは、写真左から大船渡のホヤ(CAS冷凍)、明石浦のサワラ、気仙沼のモウカの星(サメの心臓)を用意。もちろんうまい。

まとめメモ。

地に足がついた話ばかりで、面白かったし、充実していた。地震・津波で突然日常が奪われたことで、日常がどう成り立っていたかという事実と向かい合わなくてはならなかった被災者がいるのだけど、その事実がまだまだ共有されてない。放射能デマや、そのデマを叩くことばかりにぎやか。東電原発災害の実態と重さについての共有は、まだまだ足りない。日常は安定している保障されているという、根拠のない前提にのっかって、上澄みだけのうすっぺらな矜持が胸をはっているのだ。

「ブランド化」の対極にあるともいえる「コモディティ」は、大勢の生活を支えながら、なかなか評価が得られない、どころか、一部の「意識の高い人たち」からは見下されたりもする。コモディディを続けながら成り立っていくのは、なかなかハードルが高いことなのだ。「誇り」ひとつとっても。

「アメ横」ってなんだろう、と考え直してみるキッカケにもなった。「アメ横」はよく行くけど、もっとよく考えてみなくてはならない。手前ミソになるが、ようするに「気取るな!力強くめしを食え!」「ありふれたものをうまく」だな。

HANGUI Shin-ichiさんのツイート。「まさに普段気づくことのない「下半身」。ハードルが高いというのはもちろんだけれど、スーパーに並べたものは何でも売れた時代(とその続き)とは違うコモディティの役割はあるのではないかと考えます」

小松さんのツイートお言葉。「かまぼこメーカーでは「ブランド至上主義」だったわたしが、うみラボなどの活動を経て「コモディティの供給地」としての価値に改めて気付かされ、今年はコモディティの最たる「さんま」のプロジェクトに関わるという流れ。ちゃんと5年半の動きが繋がってるんだなあ」

一番前の席に陣取ったら、写真が撮りにくかった。

だけど、「地方創生」は、難しい。ハードルの高いコモディティを避けて、一見ハードルが高そうで何やら文化っぽい受けやすいほうへ流れるから、ますます難しくなっている。

よく「外」からの取材だけで書かれている、矜持だけの誇りには、たいがい隠されている「恥」の部分がある。だいたい「地方創生」なんて言っているうちは、他人事なのだ。上っ面を少しばかり掘り下げても上っ面のままで、それをナニゴトか真実にふれたように上手に化粧しながらを繰り返し、このままクラッシュへ向かうのか。

ゴミだ野暮だと侮られても、これじゃなきゃやれない、これだからできることがたくさんある、そこに忸怩と矜持を同時に持つ誇りが成り立つ場がある。これ、『理解フノー』に書いた、「ダンゴムシ論」だな。上澄みを浮遊するキレイゴトよりよほどマシ。

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11月2日の「常磐線中心主義ナイトIII」は面白い楽しみな顔合わせだ。

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