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2016/12/21

2月3日(金)に「理解フノートーク」やります。

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ご存知の方もいるだろう、2013年と2014年に3回にわたって経堂の「さばのゆ」で開催され、大入り好評だった恩田えりさんとの「エンテツ解体新書」トーク、2月3日にやります。

近頃は東京へ行くのもメンドウなので、「さばのゆ」もひさしぶりだし、トークもひさしぶりだ。

「大衆食堂の詩人エンテツ解体新書  『理解フノー』出版記念、理解フノートーク」
聞き手 恩田えりさん。
木戸銭、2000円。
19時開場、20時スタート。

いつもえりさんに突っ込まれるままに話してきた、自由闊達痛快無比爆笑トーク。今回は「『理解フノー』出版記念」ってことだから、本には書けなかったアレやコレやをしゃべって口がすべり、「エンテツ解体」が「猪熊解体」から「エロ解体」「政治解体」やら「戦後史解体」「日本解体」になってしまうかも。

先日の出版記念会で、スソアキコさんが挨拶としてやった紙芝居の原本が、スソさんから届いた。スソさん、どうもありがとうございました。

本にも書いた通り、「理解フノー」は、2007年のスソさんが部長の古墳部の旅から始まった。紙芝居のタイトルも「四月と十月古墳部で出会ったエンテツさん」。記念会で大好評だったが、これはまさに「エンテツ解体」だ。まあ、いつもおれは単なる酔っ払いなのだが、おれが使っているティッシュやら、おれの理想の女性を見たゾと古墳部長らしく土偶を例に突っ込んだり。

トークのときは、この紙芝居も持参しようかな。

とにかく、よろしく。予約は、こちら「さばのゆ」→http://sabanoyu.oyucafe.net/

四月と十月文庫『理解フノー』(港の人)も、どーか、よろしく。

港の人のサイトはこちら。
http://www.minatonohito.jp/

当ブログ関連
2016/10/26
『理解フノー』にいただいた、お声。
2016/12/14
四月と十月文庫『理解フノー』(港の人)出版記念会。ありがとうございました。

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2016/12/20

「他人事」からの出発。

前回のエントリーに書いた東京新聞の投書欄には、「福島産米買い復興の支援を」の投書があった。49歳の会社員の方の発言だ。

この方は「近所のスーパーでは売っていなかったので、経営者に「福島産の米を販売してほしい」と手紙で要望したところ、昨年末から販売してくれました」と書いている。「実は昨年、福島米販売を求める手紙は別のスーパーにも出したのですが、全く売る気配がありません。周辺各県の米は売られているのに、福島米だけ扱わないのは「いじめ」のようにも感じます」と投書は終わっている。

こういう方には頭が下がるのだが、「福島米だけ扱わないのは「いじめ」のようにも感じます」は、ちょっと飛躍がある感じで違和感を覚えた。

「放射能デマ」問題も含め、福島や福島県人に対する「いじめ」が取り沙汰されるのだけど、「いじめ」というレベルの前に、もともと福島のことは「他人事」と思っている層が多いようにおれは感じている。そういう層が厚いから、「デマ」も「いじめ」も跋扈するし、「デマ」や「いじめ」批判も黙ってはいない。メディアをにぎわすのは、そういう「突出」や「極端」で、これは福島のことに限らない。いつも多数派は「無関心」「他人事」の「中間層」なのだ。

問われれば、堂々と「福島のことなんて他人事ですよ」とはいわないが、日常は「他人事」と思って過ぎてゆく。そう思って見ると、いろいろなことが説明つく。そして、取り沙汰しやすい「突出」や「極端」ばかりを取り上げて、何かしら発言していれば、なんだか正しそうな時が過ぎていゆく。

というわけで、「風化させるな」とか「当事者意識」が盛んに強調されたり、あるいは「放射能問題」について「正しい知識」を持つことの推進などがいわれるのだが、風化を止めることも当事者意識のない人間に当事者意識を持たせることも、かなり至難のことだ。その至難のことをやろうとしていることに気づかないとしたら、やはりどこかで「他人事」だからではないか。

と考えていると、このような話を知人の会社員の女性から聞いた。彼女は幼児を一人抱えて共働きをしている。その彼女のことではなく、彼女の同僚のことだ。

同僚は社内結婚して子供が一人いる。その子供が入院したので、奥さんは付き添い、病院から会社に通っていた。ある日、どうしても仕事が片付かなくて、周りに頼れる人もいないから、御主人に午前中休みをとってもらって病院の付き添いをしてもらった。そして午前中頑張って仕事を片づけ、午後に御主人と交代した。そんなふうに頑張っている奥さんに上司からあった言葉は「そんなことしてたらダメだよ」だった。

この会社は「女性活躍推進宣言」をしている。おれの知り合いは憤怒、まさに「○○死ね」という感じだった。

しかし、こういうことも、たいがい「他人事」で過ぎてゆく。そういうことが多くなっている感じだ。

この「他人事」の解決は、どうなっていくのだろう。まだまだ荒野化はすすむのだ。おいしいたのしい美しい話をしながら。

当事者意識を持つことが、他人事意識の解決になるのか。風化や他人事意識は避けられないことを前提にした考えや方法があってもよいはずだ。切ないことだが、それが公共の福祉の思想も精神も失われた日本の現実なのだ。

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2016/12/16

東京新聞連載「エンテツさんの大衆食堂ランチ」に読者投稿。

007001毎月第三金曜日に東京新聞に連載の「エンテツさんの大衆食堂ランチ」は、今年の10月で4年が過ぎた。

よく続いているなあと思うが、4年で48回、48店の掲載だから、数にしたらたいしたことはない。でもまあ、なんでもあまり続かないおれにしては、よく続いている。

先週の金曜日9日の東京新聞の読者投稿欄「発言」に、読者の投稿が載ったからと本紙が送られてきた。読者の反応は、新聞社のほうにファックスをいただいたりしているが、本紙に投稿が載ったのは初めてだ。まさかこのような小さな連載に投稿があって、それが載るなんて思っていなかったから、驚いた。

「大衆食堂紹介今後も続けて」のタイトルで、69歳の方の投稿だ。おれは73歳だから、ま、前期高齢者の「御同輩」という感じだろうか。

ありがちな懐古礼賛、昔はよかった話はなく、「どんなにぜいたくをしても千円をまず超えません」と大衆食堂を楽しんでいる様子に、ほおがゆるむ。

「記事に引かれて入った食堂がもう十三軒にもなりました」

「時には昼酒が過ぎて店主にたしなめられることもありました」と、オイオイそりゃ楽しみ過ぎじゃないか、いいねえ。

でも、おれも大衆食堂でシミジミ思うが、70年とか生きて、こういう平凡なよろこびが得られるのは、いいんじゃないかと思う。まさに一大衆のよき人生の一こま。

この連載は、本文400字と店データ100字ほどで書かなくてはならない。先日の『理解フノー』出版記念会のとき岡崎武志さんとも話したが、この長さは難しい。どうしても盛り込まなくてはならない「情報」が、一定量を占めてしまうからだ。書く前の思考に時間が費やされる。

連載だと、本にするのを前提や願望にして書くことがあるけど、おれはそんなことはまったく考えずに書いている。本にするのを前提にすると、対象のセレクトや書き方に条件がついて、一軒一軒にふさわしい自由な視点や形で書けなくなる。

文章は、前にも書いたように擬音語や擬態語を使ったことはあるが、なるべく表現的な技巧は使わず平易かつ凡庸に書くようにしている。

平易かつ凡庸でありながら、なんだか魅力を感じる。そういう文章を思考錯誤している。毎回。これは「ありふれたものをおいしく食べる」思想や方法に通じる何かがありそうだ。

鋭さや気のきいたところがない文章は、地味な生活みたいで、あまりもてはやされない。だけど、それで点をとれるようでなければ、フリーライターではないだろう。そういうツマラナイことを考えながら4年が過ぎた。

少しでも時代や人に先んじようとガムシャラな人には、刺激にならないツマラナイ文章かもしれない。あるいは、ガムシャラに疲れた人には好ましいかもしれない。

ところで、この読者は、インターネットはやってないようで、店の場所を駅前交番で聞いたりしている。かりにインターネットをやっていても、駅前交番あたりで聞くのは楽しい。おれもときどき、「このへんに古い食堂ないですかねえ」と、ヒマそうな巡査に聞いたりする。

投書の最後に「お店情報には電話番号もぜひ入れてください」とあった。

これが難しいんだなあ。電話番号を入れるのを嫌がる食堂もある。電話番号、お客さんのためにはなるかもしれないが、セールスなど電話番号を利用するのはお客さんじゃないことのほうが多く、それが小人数でやっているお店には負担になる。

住所と地図でたどりつくことを楽しみにしていただいたほうが、連載も続けやすい。

さて、あとどれだけ続くか。

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2016/12/15

「大衆」は葬り去られなかった。日本経済新聞の記事を読む。

12月10日の日本経済新聞の「たどってなるほど」で、「大衆」が取り上げられた。

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「バブル崩壊・低成長…再び「大衆」たくましく」「オヤジ酒場に若者や女性」「安くてうまいが底力」といった見出しが並ぶ。

リード文は、こうだ。「いま、大衆酒場や大衆食堂が人気だ。書店にはガイドブックが並び、店に入ると若い女性の笑い声が響く。「大衆」に込められた意味を調べてみると、時代に翻弄されながらもしぶとく生き残る、たくましい姿が見えてきた。」

記事をまとめたのは田辺省二記者だ。田辺さんとは、10月22日に会った。たぶん10年以上ぶりだったな。そのときはまだ、記事にできるかどうかわからない企画の下調べ段階で、「大衆」という言葉をめぐるアレコレを話し、資料なども渡した。その後、企画が決まったという知らせがあった、そして田辺さんはさらに取材を重ね、この記事になった。なかなか力作。

当ブログの2016/11/19「状態と言葉。」にも書いた。

「「大衆食堂」を定義するのは難しい。おれは定義をしないで、原型を「大衆食堂」という言葉が生まれた時代の大衆食堂において、その前と後の流れを見ることで、大衆食堂という業態を把握しようとしてきた。/何度か書いているように「食堂」という言葉は明治からであり、「大衆」という言葉は、大正期後半から昭和の初めにかけて生まれ流行した。これは割りとはっきりしている。/「食堂」も「大衆」も、もとは仏教業界の言葉だったが、そこでは、食堂は「じきどう」であり、大衆は「だいしゅ」と読んでいた。」

田辺さんの記事も、仏教用語から掘り起こし、大正末期ごろから「大衆」という言葉が読み方も意味も変わって流行語にまでなり、「大衆食堂」や「大衆酒場」という呼称が定着する流れを追い、戦後の大衆の興隆へと展開する。このあたりは、おれも大衆食堂の本で書いている。

面白いのは、そのあとだ。

「その大衆が存亡の危機に立たされたのが80年代だ。時代はバブル経済のまっただ中、「『大衆』は一度、葬りさられた」と博報堂新しい大人文化研究所の阪本節郎・統括プロデューサーは指摘する」

そして、「84年に電通の藤岡和賀夫さんが「さよなら、大衆。」を出版。「『大衆』というのは懐かしい呼び名になりつつあります」と突き放した。翌85年には博報堂生活総合研究所が「『分衆』の誕生」を出し、切って捨てた」と書く。

そこなのだ、モンダイは。という問題意識で、おれは1995年の『大衆食堂の研究』を書き、大衆を切り捨てた連中を嘲笑ったのだが。

おれは、ちょうど「大衆」が葬り去られようとする頃まで、マーケティング屋をやっていたわけで、その現場は体験していた。

ここにあげられた本が、電通や博報堂の社員によって書かれたように、「大衆」を葬り去る旗をふったのは、マーケティング屋だった。

彼らは、「大衆」を「マス」でとらえるマーケティングの思想と手法にドップリつかっていた。その限界が、80年前後から明らかになってきた。

「大衆」は変貌したけど、その変貌をとらえる思想や手法がなかったというか遅れていたというか。それまでの「マス・マーケティング」をブレイクダウンしただけの「エリア・マーケティング」あたりで糊口をしのいでいたが、すぐ追い付かなくなり、手に負えない「大衆」を葬り去ることになったのだ。

そして、「差異化」だの「個性化」だの「成熟化」だの、あれやこれやの「新しい用語」を持ち出した。

そこには、「市場」と「社会」の混同混乱があった。それは、「大衆消費社会」という言葉をアタリマエのように使っているうちに、抱えてしまった混同混乱だと、おれは見ているのだが。だって、「消費市場」と「消費社会」は違うはずだからなあ。もともと「大衆」は「市場」ではなく「社会」に存在しているんだし。

とにかく、「大衆」を「マス」だの「カタマリ」でとらえていたのは、そういうとらえかたをしていた思想の問題だというふうには、ならなかった。

ま、バブルで脳ミソまで浮かれていたのだ。この脳ミソは、バブルが崩壊しても続いている。なぜなら活力のほどはアヤシイが「大衆消費社会」は続き、閉塞に陥っているからだろう。

003行き詰まると、概念のはっきりしない新しい言葉を持ちだしては、眼先を変えて乗り切ろうとするのは、日本の中間層から上の知識人の悪癖だと思う。

腰を据えて問題に取り組むのではなく、閉塞から脱しなくても、現実は何も解決しなくても、その目新しい概念らしき用語をふりまわしながらメディア界隈で食っていける自分がいる。「分衆」といった言葉も、そういうことだったにすぎない。

気をつけよう、目新しい用語。

ってえのはおれの考えだが、そんなことぐらいで「それでもくたばらないのが大衆」「今また勢いを盛り返したのだ」と田辺記者は書く。近頃の「ネオ大衆酒場」という業態にまでふれている。

「時代にもまれた大衆は新しい世代の支持を受け、したたかに生き続けている。」この記事は、これで終わる。めでたし。

だがしかし、記事は、これで終わりでよいんだが、いま「大衆」は、けっこう面倒で複雑なことになっている。

ほら、「ポピュリズム」ですよ。トランプさんもねえ、アベちゃんもねえ、それはアタマのことであり、支持する大衆がいる。

「大衆」「ポピュリズム」「民主主義」このあたりからしばらく目が離せない。

田辺記者は、囲みの「記者のつぶやき」で、「世代が違えばイメージも変わる。同床異夢の酔客を包み込んでしまう包容力も大衆酒場の魅力かもしれない」と書く。

おれは、ここに大事なことがあると思う。「大衆」は、同床異夢を抱えて成り立ってきたし成り立つものではないか。ただ成り立つには「包容力」がいる。大衆食堂や大衆酒場みたいな。

12月10日は過ぎてしまったけど、この記事を見つけて読んで、大衆食堂や大衆酒場で「大衆」談議してくださいな。

(追記)記事はWEBでもご覧いただける。
http://style.nikkei.com/article/DGXKZO10441230Y6A201C1W02001?channel=DF130120166128

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2016/12/14

四月と十月文庫『理解フノー』(港の人)出版記念会。ありがとうございました。

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去る11日(日)、四月と十月文庫の刊行のたびに開催される「出版記念会」が行われた。今回は、7冊目、おれが文、四月と十月同人の田口順二さんが絵の『理解フノー』の番だった。

大勢の方にお集りいただき、楽しい会に盛り上げていただき、ありがとうございました。

高円寺の「抱瓶(だちびん)」で、17時から出版社の港の人社長・上野勇治さんの司会でスタートした。会場の飾り付けなどは四月と十月同人のみなさまがやってくださり、司会の上野さんと主催者・四月と十月編集室の牧野伊三夫さんは綿密な打ち合わせをしていた。

冒頭、司会者から話があったが、当初参加者は絞って40名ぐらいの見積もりで進めていたところ、60名を越える参加をいただき、会場はカウンターの長椅子を動かしてテーブルにしたり「立ち飲み」の場所をつくったりで、舞台空間も設けることができず、身動きが難しいほどのギシギシ状態になった。

このため、歓談の時間も自在に移動しながら交流することもままならず、せっかくご出席をいただきながら、すみませんでした。ひさしぶりにお会いする方もいたし、雪の北海道から参加の方もいたのに、ゆっくりお話をすることもできなかった。すみませんでした。

いつものように、まずは「脱稿旗」の返還と授与の儀式だ。前回は、牧野伊三夫さんの『僕は、太陽をのむ』だったから、牧野さんから返還、おれと田口さんが授与。

のち、野暮酒場店主の田之上さんの音頭で乾杯。あとは歓談と、あいだにスピーチなどになる。

スソアキコさんと瀬尾幸子さんには身に余るスピーチをいただいた。

岡崎武志さんには、ぼくらはみんな理解フノー」の歌の全員合唱のギター伴奏のほか、「我が良き友よ!」の替え歌で「我が良きエンテツよ!」を作って歌っていただいた。

四月と十月同人の加藤休ミさん、高橋収さん、福田紀子さん、ミロコマチコさんの「劇団まぼろし」公演「理解フノー」も楽しく、会を大いに盛り上げていただいた。

感謝感激の連続でした。

おれは、思いきり飲んで思いきり楽しませてもらいました。調子にのって、歌って踊って、二次会からは記憶がありません。翌日目が覚めたら、眉のあたりがはれてズキズキ痛み、鼻の頭にキズがあり、鼻血が出たらしく、ズボンにも血が流れて、何かにぶつかったのか。それにしては、メガネは壊れていない不思議、理解フノー。

ともあれ、『理解フノー』をよろしくお願いします。四月と十月文庫は、これで7冊目、なかには増刷のものもありますが、インディーズ出版なので、売り抜くためには、さまざまなお力添えをいただかなくてはなりません。とくに、おれのようにもともと売れない男の本ですので、どーかよろしくお願いします。

ここに当日発表になった、おれの作詞による「ぼくらはみんな理解フノー」の歌詞を載せておきます。「ぼくらはみんな生きている」の曲で歌います。この歌をうたうと、スキップしながら生きたくなるでしょう。いや、楽しくアル中になれるかもしれません。歌いながら、『理解フノー』を広げていただけたら、幸いです。

それでは、これからもよろしくお願いします。

ありがとうございました。

ぼくらはみんな 理解フノー
生きているから 理解フノー
ぼくらはみんな 飲んでいる
酒を飲むから 酔っている
千円札を太陽に すかしてみたら
一万円に見えた もっと飲めるぞ~
あいつだって こいつだって
おてんとうさまだって
みんなみんな飲んでいるんだ
理解フノーなんだ~


岡崎武志さん自筆サイン入りの「我が良きエンテツよ!」の歌詞譜もいただいた。家宝にします。
岡崎さんのブログ「okatakeの日記」にも当日の様子があります。お忙しい中、ありがとうございました。
http://d.hatena.ne.jp/okatake/20161212

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2016/12/07

東京新聞「大衆食堂ランチ」49回目、中野・キッチンことぶき。

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11月の第三金曜日の18日は、東京新聞に連載の「エンテツさんの大衆食堂ランチ」の掲載日だったのだが、ブログをさぼりまくっているうちに、12月になってしまった。

すでに東京新聞のWEBでご覧いただける。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyoguide/gourmet/lunch/CK2016111802000160.html

ここは、JR中野駅北口のサンモールの東側2番街にあるのだが、東京オリンピックの1964年に開業した。中野ブロードウェイができたのは、それから2年後だ。

ブロードウェイができて間もなくの頃から、おれは中野へよく行くようになった。というのも、サンモールの東側は、まだあまり商店もなく、薄暗い住宅街が広がり、路地も舗装されてないところが多かったのだが、その中に何店か、スキーと山用品の店があったからだ。

どの店も山好きの主人が、自分の家の玄関のタタキでやっているような小さな店だった。当時、金と休暇のほとんどを山に注ぎこんでいたおれは、それらの店を見て歩き、山好きの主人や客たちと山の話をし買い物をするのが楽しみだった。なかには、のちに登山家として有名になった人の店もあった。

その頃すでに、「キッチンことぶき」の前身である「ことぶき食堂」はあったはずだが、知らなかった。2番街あたりは歩いたことがなかったのだ。

80年代後半、千駄ヶ谷に住んでいた頃、中野でもよく飲むことがあり、ことぶき食堂にも顔を出すようになった。かつての山用品の店のように玄関のタタキを店にしたような、小さな食堂だった。

たしか2000年頃は、まだ先代のお年寄り夫妻がやっていたと思う。

いつだったか、前を通ったら、「キッチンことぶき」に店名が変わっていた。一度入ってみたが、うーん、継承やリニューアルは難しいものだなと思い、それから足が遠のいた。

だけど、中野には関係するゲストハウスもあるので、あいかわらずこの周辺で飲むことがあった。この店の前を通るたびに、大丈夫かなと気になって見ていると、店の前に出しているメニュー書きなど、なんだか少しずついい感じになって見える。

012とにかく続いているかぎり、そこに何か続くワケがあるはずだと思い入ってみた。そしたら、なかなかよい。建物は昔のままの住宅で、店内だけ改装し、小さい店の割りにメニューも豊富だ。この周辺は、飲み屋ばかりできて、しかも入れ替わりが激しい。落ち着いてシッカリめしを食えるところが少ないから、これは有難い。

だけど、サンモールを中心にチェーン店が次々と出店、競争は厳しいだろう。中野駅周辺自体が、大規模再開発が続き、大きな変化の波が押し寄せている、いつまでも続いて欲しいと願わずにいられない。

中野の山とスキーの店は、少しずつ減っていき、数年前、ついに最後の一店も閉店した。

ところで、サバ半身を煮たのとキンピラがたっぷりあって、若かったら、これで丼めしをおかわりして食べるところだが、いまじゃもうダメだ。悔しいなあ。

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2016/12/01

得難い、ささやかな満足。

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86歳のママが調子悪そうだったからと行ってみたら、客が注いでくれるビールも飲んで、血色もよく「健診受けたけどどこも悪くなかった。心臓がちょっとぐあい悪いだけ」と。

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あったかい煮物の付きだしで燗酒、テーブルの下には火鉢。靴をのっけたら底が焦げちゃいます。カウンターの中のおでん鍋から湯気も出て、室内はしっとりなあたたかさ、古い木造家屋のすきま風がほろ酔いの顔にあたって心地よい。

一人の客がたたみいわしを「うまいから食べてみて」とすすめてくれた。「では遠慮なくいただきます」。うーん、炙り加減といい、燗酒にぴったりだ。そうでしょと無言の笑顔のお客さん。お馴染みさんばかりで一日のしめくくりが過ぎてゆき、ささやかな満足がただよう。

ママさんが30歳のとき開業し、56年たった。56年前というと、1960年だ。いまじゃ73歳のおれだが、まだ新潟の田舎の高校生。終戦のときは数えで16歳だったそうだ。父親は明治24年生まれとか。近代を溜めこんだ空間には、おだやかでゆっくりした時が流れていた。

小さくても店を一軒持って、金を払ってでも会いに来てくれる友達のような客に囲まれて商売できるのは、幸せだなあ。おれにはもうできないし、ヘタに長生きすることになったら大変だと思いながら泥酔したのでした。

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