全体像。
「単品グルメ」だけではなく、多くのことが細分化されたフレームで語られ、全体像がつかみにくい。
全体像が把握されてないと、未来像は描かれないか偏ったものになり、あるいは課題や問題が矮小化され、方向性がふらふら漂う。
最近、飲み会で「豊洲の問題」の話題になった。「豊洲の問題」というと、いまや「土壌汚染問題」であり、それをめぐって築地の豊洲移転は是か非か、ということになっているのだ。
築地の移転を、日本の魚食全体像から検討する視点は、まったくといってよいほど失われた。ほんとうは、築地の移転問題は、東京という大消費地における問屋機能(仲卸などの)を、どうするかということが根本にあるはずだ。このことの見通しを立てながら対策しないと、ただでさえ危うい日本の魚食は、かなり面倒なことになりかねない。
ということで、手っ取り早く、この問題の全体像を把握するのに、『魚と日本人 食と職の経済学』(濱田武士、岩波新書)は、とてもよい。直接築地移転問題にふれているわけではないが、魚と日本人をめぐる全体像と課題が、わかりやすい。築地の移転は、問屋機能をどうするかの問題だということもわかるだろう。
おれは、『大衆めし 激動の戦後史』の第7章で「もっと魚を食べなくてはいけないのか」ということを書いている。これは、ま、「日本人だから魚食は当然」という考え方を、一度捨ててみたらどうかという発想で、濱田さんとは逆からの開き直りの問題提起なんだが、ともあれ大消費地の築地の移転は、魚の食と職の全体像に関わることなのだ。
今日は、魚の話ではない、細分化された「部分」に頭を突っ込んでいるうちに全体像を失う危うさのことだ。
東日本大震災の「復興」についても、いえる。これはもう「復興」の全体像がバクゼンとしすぎていて、ただでさえ「地方創生」がいわれ、地方が困難を抱えている時代に、「復興」って何よ、という感じだ。
だからかどうか、近頃は、もっぱら放射能をめぐる「福島差別」のデマとデマ非難の応酬あたり、それからインバウンドあたりか、そのへんに注目の話題が矮小化されているように見える。
この問題は、避難生活者への対策にしぼって考えることで、「復興」の全体像の道筋が見えてくるはずだと思う。まずは、災害のために避難せざるを得なくなった人たちの生活だろう。全体は、そのことを最優先しなくてはならないのではないか。というあたりは、さっぱり議論にならない。
話は変わるが、最近、何かの記事に墨田の「町工場」の話があった。職人魂と職人技で、世界中でここでしかつくれないものをつくっていて、小人数ながら年商数億をあげているといった話だ。
おれが「エンテツさんの大衆食堂ランチ」を連載している東京新聞の掲載紙が送られてくるので、ほかのページもパラパラ見ていると、同じような話が、ときどき載る。だいたい蒲田あたりか、「川向う」のことだ。
それは、よい。ここにしかない素晴らしい技術がある、それはよいことだろう。だけど、なぜ、世界中でここにしかないのか(そうなってしまったのか)、そしてその技術は世界の何を担っているのか、ということがわからないと、全体像にはならない。
これについては、いくつか論があって、すでにこの問題については、指摘がある。それを知ると、あまりよろこんでばかりはいられない、「日本の遅れ」を直視せざるを得ない。だけど、全体像ではなく、そのスゴイところだけで、日本スゴイになってしまう。
いまのように細分化されたなかで、細分化されたテーマで、あれこれやっていると、こういうことが、たくさんあるわけだ。
少し前のことだが、橋本健二さんが、金沢で入った居酒屋チェーンの店が、通り一遍のものだけではなく店独自のメニューがあったそうで、「中途半端な価格で、通り一遍のものを出していたのでは、客が離れていくのも当然だろう。思い切って店に権限を委譲し、創意工夫を認めるのはひとつの方法だろう」と書いていた。
指摘はその通りだが、チェーン本部が各店にどのていどの権限をどう委譲するかは、昔からチェーンオペレーションの大きな課題で、スーパーもコンビニも飲食系も、どこも思考錯誤をやってきている。だけど、外部の印象からすると、「通り一遍」と「画一性」だけのように見えるのだろう。
たぶん、もっとも本部の管理が厳しくて融通の利かないコンビニでも、特定の地域単位で、基本の商品構成は異なり、パンや乳製品やお惣菜などのデイリー食品のように地域ごとに指定工場が異なり味も異なる品目が、売り上げで大事な位置を占めている。
こういうことは、その方面の市販の基礎資料を見るだけで、ザッとわかる。
飲食ネタに取り組むばあいは、やはりチューン店を含めた飲食界の全体像は、どういうアンバイになっているか、古い歴史は必要ないだろうが、ここ30年ぐらいのことは大ざっぱにおさえておかなくては、見当ちがいのことになりかねない。
チェーン店のばあいは、通り一遍ではない創意工夫を店や店長に課すことが、搾取の強化につながる可能性もある。そういう全体像がある。
ほんとうに、これ以上「いい」ものや「いい」サービスが必要なのだろうか、そのエネルギーは、もっと別に使ったほうが、全体の、よりよい未来のためになるのではないか。全体像をぬきに語るのは気楽なことだけど、うっかりすると、それがどこかの現場の労働者へのシワ寄せ圧力になってしまう。でも、そうやってでも「向上」しなくては生き残れない、というリクツもあるのだけど、それは、全体像からみて、ほんとうのことなのだろうか。
ああ、全体像。
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