専門バカ。
「近頃は日本酒の専門バカ」が多くてね。先日、酒場のカウンターで、そこの店主が言った。
「専門バカ」という言葉を聞くのは、ずいぶんひさしぶりのような気がした。だから、かれに、そう言った。
「専門バカなんて、めずらしい言葉を使うねえ、たしか70年代には、よく聞いたような気がするけど」
「え~、70年代。ワタシは、そんなに古い人間じゃないですよ~」。かれは、たしか50歳くらいのはずだからビミョーなところだ。
70年代は、「専門バカ」に対して、それをこえる意味で「学際」という言葉がはやった。つまり「専門バカ」は、主に学者や研究者のことだった。それが、それ以外の人たちに対しても使われるようになったと記憶する。80年代になると「業際」という言葉がはやった。職能的な「専門バカ」のジャンルをこえようという動きは、業界経済のゆきづまりをのりこえようという「異業種交流」のはやりにつながった。
「そういえば専門バカって、聞かないねえ。なんて言うの、そういうの。オタクかな、マニアってのかな」と店主が言うので、おれは「オタクやマニアに専門バカというのは失礼なような気がするけどなあ」と言った。
日本酒がブームで、その「専門バカ」が増えた、イチオウ日本酒愛好家だった店主は言うのである。「近頃はさ、おまえさん酒蔵に就職したいの、杜氏にでもなりたいのと聞きたくなる客がいるんだよ」
まあ、なんとなくわかるのだなあ。専門家じゃないんだから、楽しむためにのぞき見的に知っておけばよいというていどでおさまらず、将来その職につくためか、いまその職にあるひとが知っていればいいことまで、知りたがる。こうして専門家の職能的知識を得て、知っていることを、宝物を見せびらかすように口にしては満足する。
酒場のカウンターにそういう客がいると、そこは実験室や研究室のようなアンバイになって、職能の競技場のようになる。仕事のときには、とうぜん職能を発揮して、たいがい競争があるわけだけど、プライベートの好きなものを口にする時間まで、職能的知識を発揮する。そこには、好きなもので生活を楽しむ世界がない。
もっとも、ご本人は、ひとが知らないことを知っているということで楽しんでいるようでもある。だとしたら、ずいぶんゆがんだ楽しみ方だろう。ひとの上手に立つ優越感が得られないと楽しめない楽しみ方が、けっこうあるようだ。
でも、もう、そのゆがみすらも気がつかないし、商品開発責任者や製造責任者のような客が、増殖する。それを「ブーム」とよび、そのブームの仕掛人と呼ばれる人たちは、鼻高々で、さらに何匹目かのどじょうをねらう。そのエサに誰かがとびつく。
こうして、なにもかもが職能的知識で埋めつくされた風景ができていく。どこもかしこも実験室や研究室のようになって、素人が素人らしくくつろいだりだらしなく過ごすことができない。
とくに専門化された職能というのは、分析的であって、人間的な総合性や包括性に欠ける。世の中、どんどん分析的になっていく。一杯の酒も、一個のおにぎりも、一皿のカレーライスも、もはや職能と分析脳の対象であり、人間性との関係など、どうでもよくなっていく。本来、人生や生活にうるおいをもたらすはずのものが。
そういえば、本なども、ずいぶん分析的に読まれるようになったな。そして、なんらかの細分化された専門傾向を絞ってテーマにした、分析脳に応えるような本が増えている感じもある。インターネットでも、分析脳が舞い上がる「食べログ」のようなものが盛んだし。ま、たいがい、こういうものは総合的視点に欠ける。
なんというミステリアスな風景だろう。
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