無かったことにする歴史。
「歴史修正主義」なんていう難しい言葉があって、デカイ話が多いのだけど、あったことを無かったことにしちゃう歴史は珍しくない。
先日の理解フノートークのときにも話題になったが、四月と十月文庫『理解フノー』の「ウマソ~」には、熊や猪のモツの生食の話が出てくる。
これはおれが実際に聞いた話を書いているし、そこには書いてないけど、どこで解体して食べるのかまで聞いていて、実際に行われていたことだ。
たまたまこれを読んだ知り合いのライターさんが、いまどきハヤリの「マタギ」だの「ジビエ」だのを取材する仕事で東北地方のまたぎに会ったとき、この話をしたところ、「モツなんか菌だらけで生食なんぞできない」というような返事がかえってきたそうだ。
この返事のニュアンスは、昔からそんな生食なんぞしたことはないということなのかどうかは、よくわからないのだが、なにしろ「ウマソ~」にも書いたように、いまでは生食はいけないことになっているのだし、なおかつ「マタギ」だの「ジビエ」のハヤリにのるには、法令にしたがって衛生的じゃないといけないから、生食の話ができるはずがない。
こういう風に、実際にはあったことが、諸般の事情によって、無かったことにされてしまうことはめずらしくない。
違うケースもあって、カレーライスが国民食としてもてはやされるようになると、そんなものはバカにしていたフランス料理のコックなどが、自分たちの努力で日本のカレーライスはここまでになったというようなことを言い、そういう「プロ」の発言ばかりで成り立つ歴史が書かれる。大衆の生活は見向きもされない。
まだついこのあいだのことのように思うが、豚レバの生食が禁止になったとき、このブログでも、なんどか書いている。
2015/05/30
豚レバ刺し問題。
2015/06/11
豚レバ刺し問題、もう一度。
2015/06/15
「モツ煮狂い」と「川の東京学」。
このときの「サイエンスライター」とかいう人物の発言を見ても、実態を調べて受け止めようという「科学的な態度」がなく、「いつから東京下町の伝統文化に? (^^; RT @kuri_kurita 「東京の下町」って、「豚生食」の「習慣性が高かった」んですか???」という、おちょくるようなツイートをツイッターでしている。
これは、いまどきの一つのジャーナルな態度ともいえると思うけど、いまどきのたいがいのジャーナルがそうであるように、人びとが生きてきた歴史に対して真摯な態度とはいえない。
自分にとって正しい都合のよい流れにのるだけで、だいたい大衆の生活や文化の把握も理解も欠いたところで、科学だのなんだのが扱われている。
チョイと取材したていどでは、どんなに丹念で丁寧な取材だとしても、長い付き合いをしなくては聞かせてもらえない見せてもらえないことも少なくない。しかし、そんなことをしていては、ライターやジャーナリストとしてはやっていけない感じになっている。
そして、そういう世間に流通するジャーナルによって、いとも簡単に、人びとの生活が成り立ってきた文化は、無かったことにされてしまう。
長い歴史から見たら、ついこのあいだまであったことが、ごく短いあいだに無かったことにされてゆく歴史を目の前にしている。そういうものになれてしまえば、30年や70年以上も前にあったはずのことが無かったことになるのは簡単なことだ。
無かったことにする歴史にすすんで手を貸している人たちも少なくない。「一汁三菜」の「和食」が、あいかわらず「食育」ってことで流布されている。これは『大衆めし 激動の戦後史』にも書いた、「日本料理の二重構造」にかかわることだけど、その「和食」により、どれだけのことが無かった歴史にされてきたか。汁かけめしとカレーライスの歴史にしても、そうだ。
料理のことは百年単位ぐらいで見ないとわからないということは、たびたび書いてきた。生活とは、そういうものだ。
「ウマソ~」では、明治以後流布され、生活に影響を与えてきた「清潔思想」がもたらしたことについてふれている。さわりていどだが。
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